第18話3-8.荘周の夢か、蝶の夢か?

「ぼ、僕、何か変なことを言いました?」

「志光君は、〝胡蝶の夢〟を知っている?」

「もちろん知ってますよ。古代中国の思想書、荘子の斉物論に出てくる話で、作者の荘周が蝶になった夢を見た後で、自分が夢の中で蝶になったのか、それとも蝶が夢の中で自分になったのかが解らなくなってしまった、という話ですよね?」

「あれは数学的に間違いよね?」

「数学的?」


 クレアの思いがけない切り返しに、志光は戸惑った。彼は通路を歩きながら、彼女の発言の真意を探り当てようとする。


 胡蝶の夢で荘周が主張しているのは「夢と現実の区別はつかない」というものであって、数学的な要素は一切無かったはずだ。荘子の全文を読んだわけでは無いが、あの本には対立する二つの概念が必ずしも完全に分かれているというわけではない、という基本的なコンセプトがあるように感じた。


 つまり、クレアは現実世界と魔界を対立する概念に見立てているわけだ。そこで、もしも荘子が正しいのであれば「夢と現実の区別がつかない」のと同じように、「現実世界と魔界の区別はつかない」という話をしたかったことになる。


 しかし、彼女は「荘子は間違っている」と言ったのだ。また、その根拠が数学的だという。ここがよく解らない。


 魔界に行くためには邪素と呼ばれる液体を飲んで、悪魔化できなければならないので、現実世界と魔界の区別はつく。要するに、悪魔化した人間だけが行ける場所が魔界だ。


 だとしたら、この通路は魔界という結論になるが、クレアは「ここは魔界だ」とは言っていない。また「荘子は間違っている」と言っているので「ここが現実世界であり、なおかつ魔界である」と考えているわけでもない。


 だとしたら、一体ここは何なのだ?


 そこまで考えたところで、志光ははっと顔を上げた。彼は少し怒った顔をして、クレアに答えを述べる。


「解りました。意地悪ですね」

「悪魔ですもの。それで、答えは?」

「ここは現実世界でも無ければ、魔界でもない場所なんですね? 数学的というのは、組み合わせの事を言っていたんだ。現実世界と魔界という二つの要素があった場合、現実世界、魔界、現実世界でありなおかつ魔界である、現実世界でも無ければ魔界でもない、の四つの組み合わせが考えられる。でも、現実世界から魔界に行けるのは悪魔化した人間だけなら、三つ目は考えられない」

「正解よ。新棟梁がバカじゃなくて良かったわ」

「酷い言い草ですね」

「〝胡蝶の夢〟の数学的な問題は、それが荘周の夢でも蝶の夢でもない、別の誰かの夢の可能性がある事を考慮していない点にあるわ。現実世界と魔界も同じよ。ここが現実世界でも魔界でも無い可能性に気がつかないと」

「でも、そういう空間も舗装することが出来るんですね?」

「ええ。そろそろ出口よ」


 クレアが顎をしゃくると、先頭を歩いていた麻衣と麗奈の姿が消えた。合わせ鏡で作った通路に入った時と同じだ。


 志光は彼女たちの後を追って魔界に足を踏み入れた。最初に感じたのは、熱い空気だった。確実に三十度以上はあるだろう。通路よりもずっと暑い。


 到着したのはどうやら広めの洞窟のような場所のようで、正面の空間は真っ暗だった。現実世界と魔界を繋ぐ空間にあった側溝がここまで続いているため、流れる邪素の青い輝きで立っている場所がやや高いことが解る。


 出口を振り返った志光は、おもわず「ほう」という声を漏らした。そこには合わせ鏡の代わりに、比較的大きな鳥居があった。稚児柱がある両部式だ。


 鳥居にも邪素を利用した照明がつけられていて、前方を照らしていた。先に到着した舞と麗奈、後から来たクレアと志光は狭い高台で互いに顔を見合わせる。


「ここで、これからのスケジュールを決めておきたいわ」


 対戦車ライフルを床に立てたクレアが、会話の口火を切った。


「現状の魔界日本は空中から攻撃を受けている。しかし、それほど大きな被害はない。この認識で合っているかしら?」

「はい。合っています」


 麗奈が背の高い女性に即答した。


「問題はその現場に志光君を出すかどうかだね」


 麻衣が後に続いて議題を提出する。


「彼も戦闘に参加させるつもりなの?」

「どのみち、志光君の存在は関係者には知れ渡っているからね。後はお披露目をするタイミングだけじゃないかな?」

「いきなり戦闘に参加させるのは無理よ」

「それは解ってるよ。ただ、戦いが終わるまで洞窟に引っ込んでいたという話が広まったら、確実に人気は落ちる」

「……確かに。臆病だと思われるのは良くないわね」


 クレアはライフルに寄りかかると思案する素振りを見せた。すると麗奈がすかさず片手を上げて発言権を要求する。


「あのですね。志光さんは戦闘の経験が無いんですか?」

「無いよ。日本はまだ国内で戦争が起きるような状態じゃないし、僕はわざわざ軍人や傭兵になってまで戦闘をしたいと思ったことが無い」

「日常では? 喧嘩をしたことがないんですか?」

「無いよ。一方的に虐められた経験はあるけどね!」

「ということは、これから戦いに参加しても足手まといになるだけですね」

「もの凄く侮辱されているような気がするけど、その通りだ」

「だったら、みんなから少し離れた場所でクレアさんと戦っているフリをすればいいんじゃないですか? そうすれば臆病だと思われないし、近づかれて戦い慣れしていないこともバレないと思うんですけど」

「麗奈。キミだったら、志光君をどこに立たせるんだい?」

「棟梁のドムスの付近が良いと思います。あそこは入れる人が限られていますし、護衛は私の配下なので口止めも効きます。しかも、ここのすぐ側です」

「なるほど……」


 制服姿の少女の提案に、麻衣とクレアが頷いた。志光は新たに出てきた単語の意味をすかさず質問する。


「ドムスってなんですか?」

「古代ローマの上流階級の人間が住んでいた邸宅の名称で、ここでも意味は基本的に同じよ。家の壁が防護壁を兼ねていて、一階に窓がないの。魔界のドムスでは、内部で現実世界を再現するのがステイタスで、これを持っているかどうかが重要になるわ」

「へええ……」


 少年が脳に新しい単語の意味を覚えさせている間に、麻衣と麗奈は二本の側溝の間にある階段を降りだした。


「それじゃ、アタシと見附は先に行ってるから。クレア、後はよろしく頼むよ」


 二人の姿が消えると、クレアはライフルを石畳に横たえた。続いて彼女が長方形の石の一つを押すと、階段の手前の石が一斉に浮き上がる。

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