第17話 ランとタギの日々 2
次の朝ランが目覚めたとき、辺りはまだ暗かった。質の悪いガラス窓と、その内側にかけられたレースのカーテンは外の薄暗さを教えていた。自分が目覚めた瞬間に、タギも目を覚ましたことをランは知っていた。自分の方に伸ばされているタギの右手を両手で掴むとその人差し指をそっと口に含んだ。タギの右手の中指がランの顎をなでた。
ランはタギの右手の甲に頬ずりをしてからその手を離し、そっとベッドを滑り降りた。手早く服を着がえると部屋の扉を開けて、廊下へ出た。廊下にある洗面所で顔を洗い、髪をとかして薄く紅を唇に載せた。昨日までは、夜、『蒼い仔馬亭』の食堂のステージに立つとき以外はそんなことはしなかったのだが。
洗面所の少しゆがんだ鏡の中の自分を点検した。
― 昨日までと違っているかしら? ―
鏡の中で、長い真っ直ぐな髪を腰まで伸ばし、質素な薄いブルーの半袖のワンピースを着た少女が小首をかしげてランを見ていた。少し大きめの服を腰のベルトできっちりと留め、スカートは膝小僧を隠す長さだった。
― ラン、あなたは本当にタギの同伴者になったのよ。今までみたいに一方的にタギに甘えていればいいってわけにはいかないのよ ―
ランは鏡の中の少女に向かって呟いた。
それにはまず、料理をはじめとする家事一般をこなせるようにならなければならない。伯爵家の令嬢だった頃も、ユーフェミア叔母の所にいた頃も、ランは家事などやったことはなかった。タギと一緒に暮らすようになっても旅をしていることが多く、家事をする機会などほとんど無かった。宿に泊まればそこの料理を食べたし、部屋の用意など宿の方がやってしまう。たまに料理することがあっても、タギがさっさと簡単な料理を作ってしまうことが多かった。『蒼い仔馬亭』でタギを待つようになって、ランはマルシアに頼んで宿の仕事を手伝うようにしていた。宿代を何とかしようと思ったことも確かだったが、それより、料理や洗濯、ベッドメイキング、部屋の整理、繕い物など、タギのためにすることがあるようになるなら、自分でできるようになりたかった、というのがその動機だった。
階段を下りて厨房へ行くと、もうマルシアが朝食の支度を始めていた。いつも厨房を手伝っている、アンナはまだ来ていなかった。
「おはようございます、マルシア」
「おはよう、ラン。もう起きてきたのかい?こんな朝くらい少し寝坊してもいいのに」
―こんな朝くらい?―
ランは少し考えて、マルシアが何を言っているのかに気づいて、耳まで真っ赤になって俯いた。
マルシアが心得顔に頷いた。笑顔を浮かべて、真っ赤になったランを優しい目で見た。
「タギはまだ寝ているのかい?」
「―はい―」
「そうかい、そうかい。タギの朝ご飯を作って持っていってやるんだね。喜ぶよ」
「はい・・」
ランは顔を上げられなかった。動悸が速くなった。でもタギのことを言われるのは不快ではなかった。丁度そのときアンナが勢いよく扉を開けて入ってきた。
「おはようございます。マルシア、それに、ラン」
「おはよう、アンナ。さあ、さっさと仕事を始めるよ」
ランもはじかれたように顔を上げて、かまどの所へ走った。もう火が入れてあって、大鍋にぐらぐらと湯が沸いていた。三人の女達が忙しく働き始めた。
できあがった朝食をランは盆に載せて部屋まで運んだ。普段は食堂で食べるのだが、今日は他人の目の前でタギと並んで食事をしているところを見られるのが、恥ずかしかった。他人がそんなに自分に注目しているはずがないとは、理性では思うのだが、感情は別だった。そして、事実、ランを注目してみている視線も、特にリュータンを定期的に演奏するようになってから、一つや二つではなくなっていた。
朝食を盆に載せて部屋に入ってきたランを見て、タギは一瞬びっくりしたように眼を丸くした。タギと違ってランは、普段は皆と一緒に食事をすることが好きだったからだ。ランが顔を赤くしながら、言い訳のように言葉を口にした。
「マルシアさんに無理を言って、お盆を借りてきたの。
タギが破顔した。
「いいや、ここで食べよう。いまはずっとランの顔を見ていたいから」
ランが笑った。いきなり大輪の花が咲いたような、本当に嬉しそうな笑顔だった。
「はい」
パンと野菜スープ、チーズと牛乳の質素な朝食だった。タギと向かい合わせに座って、ランは俯きがちに朝食を口に運んだ。上目遣いにちらちらとタギを見たが、タギにはいつもと違う様子は(少なくともランの目からは)全然見られなかった。
―タギは何とも思っていないのかしら?私には特別な朝なのに。でも・・・、タギは男だし、私よりずっと年上だし、こんなことも何回も経験しているのかもしれないし・・―
そう思うことは、ランには少し寂しいことだったが、自分が一緒に旅をするようになってから、タギが他の女とつきあっていないこと(つきあう機会がなかったこと)は知っていた。だから今は、タギは私一人のものだ。そう思うことでランはかなり慰められた。
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