第17話 ランとタギの日々 1
『蒼い子馬亭』の扉を開けたとき、タギは耳をそばだてた。奥からリュータンの伴奏に合わせた歌声が聞こえてくる。いつも帳場に頑張っているマルシアも顔を奥に向けて歌声に気を奪われていた。扉の方など気にもしていなかった。
「マルシア」
タギに声をかけられて、マルシアが振り向いた。まだ上の空で、
「すいませんね、今日は満室で・・」
と言いかけてタギに気づいた。
「タギ!?」
「やあ、マルシア」
マルシアが歌声の邪魔をしないように小さな声で言った。
「タギ!やっと帰って来たのかい?何ヶ月もほったらかしにしたあとで」
「あれはランかい?」
タギは顎をしゃくって奥から聞こえてくる歌声について訊いた。質問の形を取ったが、歌声がランであることを間違うはずもなかった。マルシアが笑顔になって答えた。
「そうさ、食堂でランに歌ってもらうようになってから、客が五割増しさ、笑いが止まらないよ」
タギが首を傾げた。マルシアがタギの疑問を先取りして言った。
「ランに夕食時に歌ってもらっているのさ、宿代の代わりと言っちゃ何だけどね。無理矢理頼んだんじゃないよ。ランも歌うのが好きみたいだしね。でもおかげで泊まり客も、食べたり飲んだりするだけの客も増えて有り難いことさね」
『蒼い仔馬亭』の一階の奥は食堂になっていて、泊まり客に食事を提供するだけでなく、単に食事をしたり、酒を飲んだりするだけの客も歓迎している。
「へえ~」
「そうさ、ランの歌を聴きたくて通ってくる客がいっぱい居るんだよ」
タギは奥に顔を向けた。一曲の最後の方の歌詞が聞こえてきた。
―あなたが居なくてこんなに淋しい―
続いてリュータンがゆったりした、もの悲しい間奏を奏でた。タギは足音をたてないように気を付けながら奥の食堂へ近づいた。食堂は客で満員だった。その満員の客を前にして、外から食堂へ直接はいる入り口から一番遠い隅に一段高くなった舞台が作られていて、その舞台の上にランが居た。椅子に腰掛け、リュータンを抱え、いくらかうつむき気味にリュータンを弾いていた。細くきれいな指がリュータンの上を滑るように動いてメロディを紡ぎ出していた。ランは白い半袖の服を着て、踝までの長いスカートの下で足を組んでいた。
タギは扉の陰からそっとランを見つめた。
澄んだ、艶のある高い声だった。歌うのが好きで、歌を聴いてもらうのが好きで、自分の歌が人の慰めになれば嬉しいという気持ちのあふれた歌声だった。
ランは長い髪を紫色の髪留めで留めていたが、少し俯き加減のランの顔の前で髪が揺れて表情を隠していた。袖からはみ出た細い、白い腕が眩しかった。
曲が終わった。満員の客から拍手が起きた。ランが顔を上げて、客を見た。頬がやや上気して、ほんのり赤くなっていた。タギも拍手をした。大きな拍手ではなかったが、とたんにランがタギの方を見た。ランの眼が見開かれ、何かを言いたそうに口が動いた。声を出すより先に、リュータンを床に置いて立ち上がると満員の客の間をタギの方へ走って来た。あっけにとられたように客達がタギとランを見つめた。
タギは飛びついてきたランを受け止めた。細いランの体が思いがけないほどの弾力を持って、タギの腕の中にあった。いやいやをするようにタギの胸の中で首を振った。頬をタギの胸に押しつけて、ほとんど涙声だった。
「タギ、タギ・・・。待っていたから、いい子にしてずっと待っていたから」
ランがタギの背に回した腕に力を入れた。離したくなかった。どんなことがあっても離したくなかった。タギがランを包み込んだ。
「ラン、会いたかった。たまらなく会いたかった」
「私も・・・」
後は言葉にならなかった。ランがタギの背に回した腕にさらにきつく力を入れた。
マルシアがタギの後ろから出てきて、手を打った。あっけにとられている客に向かって、
「さあさあ、今日はランの歌はもうお終い、ランのいい人が帰って来たのだから、野暮な邪魔はしないことだよ」
客の間からがやがやと不満の声が挙がった。それを無視して、マルシアがタギとランを扉の外に押し出して扉を閉めた。食堂の灯りが扉で遮られ、小さな蝋燭の頼りない灯りだけがタギとランを暗闇の中で浮き出させていた。食堂の喧噪が遠くなった。
ランはタギを見つめた。何ヶ月かの間、いつも会いたいと思っていた相手だった。夢の中で一瞬だけでもいいと思っていた。その相手が今、目の前にいる。薄暗い蝋燭の灯りでもタギはランにはっきりと見えた。タギがそこにいることさえ確信できれば、ランにはタギの隅々まで見て、感じることができた。ランを抱いているタギの腕にだんだんと力が入ってきたのを感じた。
― 壊れるほど強く、抱いて、欲しい -
ランは目を閉じた。目を閉じたままでもタギが顔を近づけてくるのが分かった。暖かいものがランの唇にかぶさってきた。ランの目から止めどなく涙が流れた。薄くはいた化粧に涙の筋が幾筋も着いた。薄暗い廊下でタギとランは長い間、唇を重ねていた。
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