第9話 シス・ペイロスの神 2章 神殿 2

 やっとタギがランを離したとき、ランの顔は涙でくしゃくしゃだった。タギは乾いた布を出してランの顔を拭いてやった。ランは泣き笑いのような顔をしてタギを見つめていた。やっと決心したことが鈍りそうだった。タギは無理やりランの顔から視線をはずした。


「ヤードロー、ランを頼む」

「分かった、任せておけ」


 タギとランが抱き合っている間、辛抱強くそばで待っていたヤードローが請け合った。


「少なくとも黒森からはできるだけ早く出て欲しい。私もやることをやってしまえば後を追うが、落ち合うのは多分、レリアンになる」

「分かった」


 何をするのか、どれくらい時間がかかるのか、ヤードローは訊かなかった。多分タギにも正確には分かってないだろうと思ったからだ。そしてヤードローの推測は正しかった。


「ラン、レリアンで待っていて、『蒼い仔馬亭』で。必ずそこへ戻るから」


 ランは何度も頷いた。


 ランとヤードローが角を曲がって見えなくなるまで、タギはその場に佇んでその後ろ姿を見送っていた。角を曲がる手前でランが振り向いて手を振った。長い間手を振った後でランは思い切ったようにくるっと前を向くと角を曲がっていった。その後にヤードローが続いて、二人ともタギからは見えなくなった。

 タギは自分用に取り分けた荷物を背負って来た道を引き返した。足下の悪い道を全力で駆けた。タギが本気で駆けると追いつくことの出来る人間はいない。それは平地でも、山地でも、森の中でも同じだった。すぐに、通り過ぎたばかりのクルディウムの集落が近づいた。タギは森の中に入って集落を迂回した。森の中には道などなかったがタギは木に登って木から木へ飛び移って移動した。木の上から見るクルディウムの集落は閑散として人気が少なかった。集落全体が沈み込んでいた。

木と木の間が離れているときは鉤の付いた細引きの綱を離れた木の枝に投げて引っかけ、それを伝って渡った。タギは気づかなかった。タギが飛び移っている木の下の藪の中に男が潜んで、気配を殺してタギが通り過ぎるのを待っていることを。そんなことに気づくにはタギは気が逸りすぎていた。一刻も早くアトーリに戻りたいという気持ちが、周囲に十分な注意を払う余裕をタギから奪っていた。しかしタギが十分に注意していてもその男に気づいたかどうか分からないほど、気配の消し方の上手い男だった。男はタギの気配を完全に感じなくなるまで、じっとしていた。さらにその後も動かないまま周囲の様子を探ってから、身を起こした。小柄な、痩せた男だった。細い眼が何を見ているのか分からないほどさらに細められていた。 

 男はゆっくりとヤードローとランの後を追い始めた。

 

 木から降りて道に戻ってからも、人の気配を感じるたびに隠れてやり過ごしてから進んだため、タギがアトーリの町境の壁に着いたのはもう暗くなり始めた頃だった。壁の下で手早く腹ごしらえをし、暗くなるのを待った。

 完全に暗くなる前にタギは行動を起こした。荷物の中から鉤の付いた綱―木と木の間を飛び移るのに使ったもの―を取りだしてくるくると回すと、気合いもかけずにアトーリの壁の上端めがけて投げ上げた。鉤は一回で壁の上端に引っかかった。タギは壁に足をかけてするすると登っていった。壁を越えて、壁の内側にある巡回用通路に降りた。

 細い月が空にかかっていた。タギには十分な明るさだったが、普通の人間には足下も見えない。壁の内側に取り付けられている巡回用通路には、数組の見張りがいて巡視していた。彼らが持っている松明がその居場所を示していた。それ以外にはアトーリの町には灯りが見えなかった。タギは鉤を通路の手すりに引っかけて、綱を伝って町中に降りた。さすがに壁の下の様子までは見えなかったから飛び降りるのは無理だった。

 暗い街路をタギはまっすぐにキワバデス神殿に向かった。アトーリの地理は頭に入れてあった。街路には人の気配はなかった。この暗さの中で灯りもなしに動けるのは土地勘のある住民を除けば、タギと、多分マギオの民の一部―アティウスやウルバヌに匹敵する民―だけだ。よしんばアトーリの住民の誰かが灯りも無しに街路にいたとしても、すぐそばを通り過ぎたタギに気づくことはなかっただろう。黒森の住民は森の中の戦いには慣れていても、暗闇に強いわけではない。家々の中にはまだ誰かが起きている気配があったが、アトーリの集落はもう寝ているといってよかった。

 キワバデス神殿の正門にはさすがに篝火が焚かれ、不寝番が立っていた。しかし篝火の届かない闇は濃かったし、緊張感のない見張りの目を掠めて境内に入るのは簡単だった。境内にある建物の中で本神殿とカバイジオスの住まいにはかすかな灯りがともっていた。



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