第7話 レリアンの市 7章 ランの決意

 タギが『蒼い仔馬亭』に戻ったのは、もう薄暗くなってからだった。時間的にはそれほど遅くはなかったが、短い初冬の陽はもう地平線に沈み、宿屋の廊下には蝋燭が灯されていた。帳場には相変わらずマルシアが座っていた。俯いて熱心に帳簿を付けていたが、扉を開けて入ってきたタギを、目を上げてみながら、


「お帰り、タギ。お嬢ちゃんはおいてけぼりでご機嫌斜めだよ。ずっと部屋に籠もっているよ」

「帰ってきた早々、元気が出るようなことを言わないで欲しいな」

「あらかじめ知っておいた方が心構えができるだろう?あまり放っておくと、いくらあの嬢ちゃんがタギに首丈くびったけでも、そのうち振られるよ!」


 マルシアの冗談めかした、しかしけっこう親身な忠告にタギは肩をすくめた。

 階段を上り、廊下を歩いて、ドアの前に立った。そっとノックしたが返事がない。鍵を開けて部屋へ入った。部屋の中は真っ暗だった。ドアを閉めて鍵を掛け、ドアの側の燭台の蝋燭に火を付けた。部屋が薄暗く照らし出された。


「ん?」


 タギは不安を覚えた。ランの気配がない。そこにいると思っていたランの寝台は空だった。あわててざっと部屋の中を探った。


「―居ない!」


 声には出さなかったがほとんどそれは悲鳴だった。ドアを開けて外へ探しに出ようとしたとき、後ろでくすりと笑い声がした。


「ラン!」


 タギが振り向くと、ランが作りつけのもの入れの陰から顔を出した。


「ラン!」


 もう一度ランの名をタギが呼んだ。ランがもの入れの陰から走り出てきてタギに抱きついた。飛びかかるように抱きついてきたランをタギは受け止めた。ランの背中に腕を回して抱きしめた。まだタギよりだいぶ背が低い。タギの目の高さにランの頭頂部がある。タギの腕の中で顔を上げてランはまっすぐにタギを見た。タギがあっけにとられてなにも言えないうちに、ランが一気にまくしたてた。


「ねっ、タギ。私気配を消すのが上手くなったでしょう?タギでさえとっさには気が付かなかったくらいだもの。だから連れて行って!タギがどこへ行ってなにをしようとしているのか知らないけれど、私の知らないところに行って、とても危険なことを、長い間にわたってやろうとしていることは分かるの。でも連れて行って!どんな危険なところでも。置いて行かれるのはいや!」


 一気にこれだけのことを言うとランは黙った。タギにひたと視線を当てて、すがるように見つめた。唇がひくひくと震えている。両目に涙が盛り上がってきた。

 ランは一日中このことを考えていたのだ。タギがシス・ペイロスの探索にランを連れて行くのかどうか決めかねているときに、ランはもう心を決めていたのだ。それをどうやってタギに伝えればいいのか懸命に考えていたのだ。

 タギはそっとランに唇を近づけた。盛り上がった涙を吸った。そのままランの唇に自分の唇を重ねた。ランの体がびくっと震えたが、タギの背中に回した腕を放そうとはしなかった。タギは少し口を開けて舌先でランの唇をまさぐった。それに応えて、おずおずとランの舌が出てきて、タギの舌先に触れた。びっくりしたように一度舌が口の中に引っ込んで、またおずおずと出てきた。ランがタギの背中に回した腕に力を入れた。閉じた目から幾筋も涙が落ちた。タギもランの背中に回した腕に力を入れた。


 重ねたランの唇が熱かった。腕の中の華奢な体が熱かった。


ランのファースト・キスだった。タギにとってもランにとっても互いに相手がどれほど甘やかな味がするのか、思い知らされた口づけだった。


「一緒においで、ラン。おまえは私の“護るべき”者だ」


 長い口づけの後、タギはランにささやいた。


「本当?」


 ランの表情がぱっと明るくなった。


「一緒においで。私はおまえと離れていることはできない。どんなことが待っているか分からないが、一緒においで」

「絶対に足手まといにならないから、絶対に邪魔をしないから、私」


 ああ、ラン。そんなことはどうでもいいのだ。大事なのは“護る者”が“護るべき”者の傍にいることなのだ。そうでなければならないのだ。私はこの地でも“敵”と闘うことになるようだ。それが私の生まれた意味なら、誰のために、何のために闘うのか、“護るべき”者が教えてくれるだろう。


「出発は雪解けを待ってになる。冬の間にすることがたくさんあるよ。気配を消すだけではなくて、気配を殺して動くことも覚えて欲しいから」


 いつの間にかタギの背中に回されたランの腕がほどかれていた。ランの両手がタギの肩の辺りでタギの服を握りしめていた。タギの胸に顔を埋めている。タギの服を握りしめたランの両手が小刻みに震えていた。

 嗚咽が聞こえた。最初は控えめに、やがて我慢できないように声を出して、ランはタギの胸の中で泣きじゃくった。タギはランを抱きしめたまま、ランが泣きやむのを待っていた。後から後から涙を流しながらランはいつまでも泣きじゃくっていた。





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