第7話 レリアンの市 5章 看病 2
目をつぶったランは直ぐにすやすやと寝息を立て始めた。タギが部屋へ入ってきたときより呼吸は楽そうに見えた。小さな蝋燭が燃え尽きるまでタギはランを見ていた。その顔を見ていると最初に会った晩を想いだした。ランは小さくて、寝顔はいかにも頼りなくて、しかし涙の跡が付いていながら弱音を吐かないのがいじらしかった。今はあのときの幼さはもうなくなっている。ずっとしっかりして、心も体も子供から大人になりつつある時期にあると思っていた。しかし、熱に憔悴して横になっているランは、あの夜のランをしきりと想いださせた。あのときからランはタギにとって“護るべき”ものになったのかもしれない。それを自覚したのは、ランが身を寄せていたダシュール子爵家のあるカーナヴィーが、セシエ公の攻撃に遭うことが分かったときだったけれど。
考えてみればランをカーナヴィーから連れだして、一緒にアルヴォンを歩き始めてからもう一年と少し経っている。タギと一緒にいられて嬉しいと言っていたし、タギがペースを落としているとはいえ、アルヴォンを遅れずに付いてきていたから、ランが本当はかなりの無理をしているのに気づかなかった。その無理の積み重ねが今出たのだろう。蝋燭の燃え尽きた暗い部屋でタギはランの傍にじっと座っていた。
野宿したときと違って、部屋の中で一晩中起きているのは難しかった。椅子に腰掛けたままいつの間にか眠ってしまったタギが目を覚ましたとき、外はもう明るくなっていた。カーテンを開けると質の悪いガラス窓越しに朝の光が差し込んだ。ランの顔にそっと触れてみた。高い熱は下がっていたがまだ熱っぽかった。解熱するときに汗をかいたようで、額も首筋も濡れていた。タギはランの額にのせてある布をとりあげると、浮いている汗をそっと拭いてやった。それから音を立てないように注意して部屋の外へ出た。
マルシアは宿を手伝わせている親戚の少女と厨房で忙しく朝食の準備をしていた。それでも厨房へ入ってきたタギをめざとく見つけて挨拶した。
「おはよう、タギ。嬢ちゃんの具合はどう?」
「うん、高い熱は下がったようだよ。まだ少し熱っぽいけれどね。それに昨日より楽に呼吸しているみたいだ」
「それはよかった。で、朝飯を取りに来たのかい、それならもうすぐできるからちょっと待ってておくれ」
「違うんだ、マルシア。熱が下がるときに汗をかいたようで、着ているものがぐっしょりなんだ。体を拭いて、着替えさせてやってくれないか?あのままじゃあまた体が冷えてしまう」
マリシアは忙しく動かしている手を止めずに答えた。
「まだちょっと忙しいんだよ、タギが着替えさせてやればいいじゃないか。着替えがないんなら用意するから」
「私がやると恥ずかしがると思うんだ」
「なにを今さら恥ずかしがるんだい?病気の時の体を見せるのははしたない、なんていう躾でも受けているのかい、嬢ちゃんは?具合の悪いときに甘えさせてやれば女は喜ぶものだよ。昨日のようにね」
タギはへどもどした。もっと気軽に引き受けて貰えると思っていたのだ。そしてマルシアの誤解に気づいた。
「いや、つまり、その・・・、なんだ・・。病気の時でなくても恥ずかしがると思うんだ、つまり・・その・・まだランは私に体を見せたことがないから」
「何だって?」
マルシアはあきれたようにタギを見た。信じられないことを聞いたというように口を尖らせた。料理の手を休め、顔の前に立てた右の人差し指を左右に揺らしながら、あらためて確かめる口調で訊いた。
「つまり、何かい?あんたは嬢ちゃんをまだ自分の女にしてないと、そういうことかい?」
思いもかけずあけすけに訊かれて、かえってタギの方がどぎまぎした。
「頼むからそんな大きな声を出さないでくれ、マルシア。・・・まあ・・実はそうなんだ」
タギは何となくうつむいてしまった。最後の方は消え入るような声になった。顔が少し赤くなっているようだった。マルシアの声もさすがに少し小さくなった。
「あきれたね、あれだけの間、嬢ちゃんを連れ回していてまだ手を出してないなんて。あんたがそんなに純情可憐な男だなんて、今の今まで知らなかったよ。イェッダではさんざん浮き名を流していたくせに」
イェッダというのはレリアンの歓楽街だった。一人でレリアンに来ていたときには毎晩のように繰り出していた。行きつけの店もあり、なじみの女もいた。ランと歩くようになってから、行ったことはなかった。イェッダに最近行っていないということさえ、タギの頭にはなかった。
「まあ、ランはまだ十六だし、もっと小さい頃から知っているし・・・」
それにランはタギにとって“護るべき”者だった。一度そう条件付けされるとタギには簡単にランを『自分の』女にする気組みになれなかった。他にも理由があったのだが。
「分かったよ、着替えさせて来るよ」
マルシアがエプロンで手を拭きながらタギの頼みを承知してくれた。
「ありがとう、助かるよ」
タギはほっとしたように言った。これ以上この話題でマルシアに突っ込まれたくなかった。マルシアは肩をすくめると湯を桶に汲んで、乾いた布を持って厨房を出て行った。厨房を出て行きがけに振り返って、
「タギ、あんたはアンナを手伝っておくれ、もうすぐできあがるから」
否応もなかった。まだ朝食の用意ができていないのなら、誰かが作らなければならないし、マルシアがランの世話に行くのならそれはタギしかいなかった。
「分かったよ」
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