第6話 暗殺未遂 3章 セシエ公の館 2

 執務室のさらに奥に公のプライヴェートな空間がある。テカムセを下がらせたセシエ公は奥に入っていった。公が扉を開けた気配に気づいて直ぐに女が出てきた。赤みがかった茶色い髪をした若い女だった。形のいい小さな顔と細い首をしている。薄い青色の軽やかなドレスを着ている。肘までの長さの袖から出た手が、ぬけるように白い。軽い部屋履きの靴を履いている。身長は、大柄な公の肩のあたりまでしかなかった。すんなり伸びた長い手足、くびれた腰、形のいい胸、大きな灰色の目、赤い愛らしい唇、すばらしい美人だったが伏し目がちで自分を主張することが少ない印象を与えた。


「アンタール様・・・」


 女は軽く膝を曲げて会釈した。セシエ公の名を呼ぶ声になんとも言えない艶があった。公爵も軽く頷いてそのままさらに奥に入っていった。公爵が歩みを止めたのは広めの、豪華な調度品に飾られた部屋だった。座り心地の良さそうな椅子が一脚、椅子と対のフットレスト、長いすが一脚、背の低い大きなテーブルとそれより少し背の高い小さなテーブル、背の高い方のテーブルには大きな花瓶が置かれ、いっぱいに花が飾られていた。二重のカーテンの掛かっている窓のある壁以外の壁には一つずつ扉が付いていた。窓と向かい合った壁の前には人の胸ほどの高さの飾り棚が作りつけられていて、その上には大小の飾り皿、一対の金と銀の獅子の置物があった。飾り棚の横には暖炉が切ってあり、寒い季節には火が入れられる。

 奥を、いつ公爵が入ってきてもいいように整えておくのが女の仕事だった。そして公爵が館にいるときには奥に入ってきた公爵に直ぐに気づくように、表から入る扉のそばに常に控えていることも。

 公爵はゆったりと立っていた。女が甲斐甲斐しく動いて公爵の服を脱がせた。テーブルの横に用意してあった部屋着を着せる。公爵は女のするがままにさせていた。

 楽な服に着替えた公爵は椅子に腰掛け、足を組んだ。女は公爵が脱いだ服を丁寧にたたんでいる。たたみ終えて、


「だれか」


 女が、公爵が入ってきた扉と向き合った壁に付いている扉に向かって声を掛けた。扉を開けて女が二人入ってきた。二人ともそれほど若くはない、紺色の女中のお仕着せを着た落ち着いた感じの女達だった。公爵と、その次に女に向かって頭を下げた。


「公爵様の服を洗濯に回して、それから食事の用意を」


 女の言葉に二人の女は頷いて、たたまれた服を持って扉を出て行った。


御酒ごしゅを召し上がりますか?」


 女達が出て行くのを待って女は公に訊いた。


「そうだな、アリシア。今日はシャドロンの酒にしよう」


 シャドロンの酒というのはセシエ公の領地の一つ、シャドロンで作られている、大麦から造った蒸留酒だった。飲み口が軽い割には強い酒だった。

 アリシアはチェストを開いて公に命じられた酒を取りだした。極薄のグラスを公爵の前に置く。こげ茶色の酒瓶を傾けると琥珀色の液体がグラスに満たされた。

 公爵はグラスを取り上げて口に運んだ。飲み慣れた味と香りが体に満ちる。軽くため息をついた。外で見せる厳しい表情がゆるんでいる。視線の鋭さが和らぎ、口元を少しほころばせていた。アリシアの前でだけ見せる表情だった。

 ノックの音がして女達が料理の載った盆を捧げて入ってきた。量は多くはないが、吟味された材料を使った、贅沢な料理だった。軽く火を通した肉から香料の香ばしい香りが立ちのぼっていた。公爵の前に料理を並べるのはアリシアの役目だった。アリシアはランドベリの館にいるときのセシエ公の直接の身の回りの世話を、決して人任せにしなかった。

 公爵がゆっくりと酒を飲み、料理を食べている間、アリシアはいつものようにその右横に膝を突いて控えていた。グラスが空になると酒を注いだ。食べやすいように皿を並べかえた。セシエ公のそばにいられることが嬉しいと全身で表現していた。


「アリシア」

「はい」


 セシエ公は左手に持ったグラスを目の前に持ってきながら訊いた。


「おまえも飲むか?」

「はい」


 公爵は酒を口に含み、右手でアリシアのあごを持ち上げて自分の方を向かせた。そのまま口移しにアリシアに酒を飲ませた。アリシアの頬が赤く染まり、陶然とした表情が浮かぶ。その表情のままアリシアは口の中の酒を飲み下した。公爵の手に導かれてアリシアの頬が公爵の膝のうえにおかれた。目を閉じてうっとりと公爵の膝に頬を付けているアリシアの髪を、公爵の手が優しくなでていた。アリシアの閉じた目から涙が一筋落ちた。


「アリシア、なぜ泣く?」


 セシエ公の声も男達に命令している声とはまったく調子が違った。柔らかいバリトンがアリシアの耳に心地よかった。


「申し訳ございません、なんだか急に涙が出てきて・・・」


 アリシアは目を開けて、上目遣いにセシエ公を見た。敵にも味方にも恐れられている人だった。不始末をしでかした部下を処断する言葉を聞いたことがある。背筋の凍るような冷たい声だった。その声がアリシアに対してだけは暖かさを帯びる。本当はこんなに暖かい声が出せるのだ。そしてこの声の方が本当の公爵様なのだ、アリシアはそう思っていた。私がいることで少しでも公爵様が気を休ませることが出来るならば、どんなにか嬉しいことだろう。そのために、そのためだけに私はいるのだもの。


 夜が更けていく。館の中の人々も不寝番をのぞいて眠りについていく。こんな奥まったところまで人声が聞こえるわけではない。それでも大勢の人が起きている気配というものは何となくわかるものだ。それが静まっていく。

 セシエ公とアリシアは同じ姿勢を保ったまま長い間じっとしていた。アリシアにとってもセシエ公にとってもこの時間はとても貴重なものだったのだ。

 


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