第5話 アンタール・フィリップ・セシエ公爵 2章 セルフィオーナ王女 1
階段を大広間まで降りたところで、先にすれ違った王女付きの侍女の一人が待っていた。セシエ公を認めて頭を下げた。公と供の男が立ち止まって侍女に目をやった。
侍女がおずおずと言い出した。
「公爵様、セルフィオーナ殿下がお茶を差し上げたいと申しておられます。どうか南のテラスまでお運び願えないでしょうか?」
侍女の声が震えている。懸命に笑顔を繕いながら、目におびえが見えていた。身分の高い、しかもあまりなじみのない公爵に対しているというだけではなく、公爵にまつわる噂に侍女は怯えていた。冷酷無惨で他人に対して容赦を知らない人だという噂だった。実際侍女を見る目も冷たく、自分には関係ない人間と切り捨てている目だった。
「私は茶を飲む習慣がない。用も山積していることだし、時間もない。おまえの方から王女殿下に失礼を詫びておいてくれ」
素っ気なく公が言いさしてその場を離れようとしたとき、階段の陰から声がした。
「お茶を召し上がらないのならお酒を用意いたしましょう、丁度、良い葡萄の酒が手に入ったところです。封を切るいい機会になります」
公が声の方を振り向くとセルフィオーナ王女が出てきた。セシエ公は眉をしかめた。公はセルフィオーナ王女の気配を感じていなかった。セシエ公は供の男を振り返った。
「ウルバヌス」
ウルバヌスと呼ばれた男は軽く頭を下げた。
「敵意を感じませんでした故」
特に注意しなかったという言葉を男は省略した。
王女は先ほどの装いから少し重々しいドレスに着替えていた。緑色の宝石を多用した髪留めで結い上げた髪をまとめていた。髪の色に髪留めがよく似合っていた。
「王女殿下―」
さすがにセシエ公も様子をあらためて、軽く、しかし丁寧に頭を下げた。
セシエ公の返事も聞かず、王女は侍女に対して最近手に入れた葡萄の酒を持ってくるように命じた。さらに必ず開栓してないものを持ってくるように念を押した。
「長くお引き留めするつもりはございませぬ、アンタール・フィリップ様。今日は本当に気持ちの良い日ですのでテラスで飲むお酒もおいしいと思いますわ」
セルフィオーナ王女がセシエ公に近づいて右手を出した。並ぶと王女の背はセシエ公の顎の高さしかなかった。王女が小柄だと言うよりセシエ公が人並み優れた長身なのだ。セシエ公が王女の手を取ってその甲に口づけた。
「ご相伴させていただきましょう。殿下の葡萄の酒の趣味がいいことは有名ですから、どれほど美味しいものがいただけるか楽しみですな」
セルフィオーナ王女はにっこり笑って、セシエ公を宮殿の海側のテラスへ案内した。背を真っ直ぐに伸ばし、セシエ公の前を行く王女の足の運びの典雅さは非の打ち所がなかった。淡いベージュのドレスも王女のほっそりしたスタイルの良さを強調するデザインで、その動きをさらに典雅に見せるように工夫されていた。
海側のテラスからは直接芝生の庭に出ることが出来る。いくつもの噴水と見事に手入れされた植木を配した広大な庭の向こうには、庭の外苑を縁取る木立越しに海が広がっていた。切り立った崖を降りていく階段があり、直接海に出ることが出来た。王宮の西に広がるランドベリの町並み、幾艘もの船がつながれている港も視野に入ってきた。
テラスには木のテーブルと椅子が置いてあり、大きなパラソルが気持ちの良い日陰を作っていた。王女と公が向かい合わせに椅子に座って直ぐに、侍女が銀の盆に首の長いグラスと酒瓶を載せて来た。盆もグラスも一点の曇りもないよう磨かれていた。
公の目の前で酒瓶の封が切られ、栓が抜かれた。グラスに赤い葡萄の酒が注がれるとき、公は後ろに立っている供の男にちらっと視線を走らせた。男はそれに答えるようにほんのわずか頷いた。王女はそのやりとりに気づいたが、表情も態度も全く変えなかった。
「どうぞ」
王女が盆に載せたままの二つのグラスを、公に平行になるように置いて勧めた。等距離に置かれたグラスのうち左のグラスを公は取りあげた。
セシエ公は酒が注がれたグラスを持ち上げて、目の前に持ってきた。赤く澄んだ液体がグラスの三分の二ほど入っている。王女も盆の上に残されたグラスを取りあげて、口の前でゆっくりと回して香りを頼んだ後、一口飲んで見せた。細い喉がごくりと動いて、酒が降りていった。
セルフィオーナ女王は満足げな笑顔を見せて、
「おいしい、やはりこのお酒は当たりでしたわ」
セシエ公も一口含んで、それからおもむろに飲み下した。芳醇な味が口に広がった。口元のあたりにだけ笑いを浮かべて、
「さすがに殿下のお見立てはすばらしい。私どもでもこの酒を手に入れるよう手配いたしましょう」
「あら、もうございませんわ。私が買い占めてしまいましたもの。でも気に入っていただけたのでしたら、お分けいたしますわ」
「買い占めてしまわれた?それはまた、―」
王女はいたずらっぽく首をかしげて見せた。そんな仕草を見せるとこの王女の若さ―まだ十八歳だった―が表面に出てきていかにも無邪気そうに見える。王女はその効果を知っていてわざとそうしていたし、セシエ公も王女が意識しながら演技していることを知っていた。
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