第5話 アンタール・フィリップ・セシエ公爵 1章 謁見 4
セシエ公の眼が酷薄な光を帯びていた。この眼で見つめられて平然としていられる人間は少ない。しかし、ナザイスと呼ばれた男は、少なくとも表面上はその視線を受け止めることができた。
「いえ、決してそのようなことではございません。ただ王室の窮状を何とかご理解頂いて、体面が保てるだけの手だてをいただきたいと申し上げているのです。関税の引き上げが無理なら、ジザノリア平原の直轄領を広げることでも構わないと存じますが・・」
声がいくらか震えているだろうか?セシエ公の声がかぶさる。
「これは異な事を承る。ジザノリア平原をかすめ取っているのはテティーノ男爵ではありませんか?私に言われるのは筋が違うと存ずるが」
テティーノ男爵はセシエ公の子飼いだった。そんなことは誰もが知っていることだが、セシエ公は平気な顔でぬけぬけとこんなことを言う。そのままセシエ公は口をつぐんだ。それ以上の話し合いには応じないという意志の表示だった。部屋中に気まずい沈黙がたれ込めた。しかしセシエ公も、セシエ公の供についている若い男も表情も変えず立っていた。ナザイスだけがハンカチでしきりに汗を拭いていた。そのまま幾ばくかの時が過ぎた。微動だにしないセシエ公と供の男が部屋の重圧感をましていた。
「もう良い、ナザイス、セシエ公は王室の収入を増やすことには興味を持たれぬようだ。無駄な議論を重ねても仕方があるまい」
フィオレンティーナ女王がいらいらを何とか隠した口調で議論に決着を付けた。豪奢な扇子に隠された口元はぴくぴくと痙攣していた。わずかに狂気を宿した眼で汚物を見るようにセシエ公を見ていた。
それを聞いて、セシエ公はゆっくりと女王に視線を向け、丁寧な礼をした。女王は硬い表情のまま視線をそらせた。
ランドベリ港の関税はセシエ公が王室に替わって取り立てている。毎年その年の交易品目と交易量を詳細に記した書類と共に、莫大な額の金銭が王室に納められる。その金で広大な宮殿の維持と王室の生計が立てられている。だが勿論足りないのだ。どれだけの収入を得てもなお、それ以上を望むのが王侯貴族と言われる人々の習性だった。たとえ今、女王の要求通りの金額を納めるようにしても一年も経てば足りないと言い出すのは目に見えていた。さらに言えば、王室は現在セシエ公に制限されている王室直属の軍―近衛―を増やしたいとも思っていた。わずか千に満たない近衛兵は、儀仗兵としての見栄えはよくても、戦闘集団としては役に立たない。本格的な戦闘訓練をすることをセシエ公が認めないのだ。それもフィオレンティーナ女王の大きな不満だった。もっと収入があれば、近衛兵を増やし、戦闘訓練をすることができる。それに王宮の使用人も今は半分以上がセシエ公の息の掛かった人間だった。これも王室に忠実な人間に代えたい。女王は単純にそう思っていた。勿論セシエ公はそんな女王の思惑などお見通しで、これ以上王室の収入を増やしてやる気などなかった。
関税を上げたところで、税の徴収のノウハウを知らない王室に替わって、セシエ公の
公にとっては、受け入れられないことが分かり切っている要求を出してくる王室の意図を探ることの方が重要だった。
女王が何か深い意図を持ってこんなことをするとは、公は考えなかった。おそらく出所はナザイスだろう。カリキウスは王室の、というよりフィオレンティーナ女王の私的な執事という立場だから、そしてカリキウスの気質から見て、こんな、牙をむいた猛獣の上を綱渡りするようなことは考えるとは思えない。ではナザイスの本当の目的は何だろう。セシエ公が不忠者であることを示すためだろうか?そんなことは国中の貴族が既に知っていることだった。そもそも今、王室に忠義だてしている貴族・豪族がどれほどいるだろう。
何かの下準備?例えば公を暗殺して、その大義名分を立てるため?今の時点では考えすぎだとセシエ公は結論した。公以外の誰かが王国の実権を握ったとき、公以上に王室を優遇するとは思えなかった。セシエ公はそれでも毎年莫大な金銭を王室に納めている。他の貴族ではそれもしなくなるかもしれない。それくらいはナザイスでも分かっているはずだった。
とにかくいろいろな可能性を検討しながら様子を見るよりない、セシエ公は謁見室を出て廊下を歩きながらそう考えた。
このときセシエ公はまだ深刻には考えていなかったのだ。人間は必ずしも合理的な理由のみで行動するわけではないことを。
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