第4話 再会 1章 戦いの予徴 1

 好きなものは?白い雪割草、赤いカーネーション、黄色いバラ、お母様の花壇に咲く色とりどりの花は本当にきれいだった。雪に閉ざされる四ヶ月を除くと、城内の居間にはいつもお母様が丹精された花が飾られていた。シナモンの香りのするアップルパイ、甘いものが苦手でお菓子やケーキを敬遠されていたお父様も、お母様の手作りのアップルパイだけは口にされた。濃く淹れたお茶に絞りたてのミルクを温めて入れて、おいしそうに食べていらした。お父様の笑顔を見るお母様は本当に幸せそうだった。父の書架にあったたくさんの本、読んでいると違う世界で遊んでいるような気分にさせられた。お母様の声はいつも優しかった。貴族の奥方なのにお菓子を手作りされ、自分や家族の普段着を縫われていた。城の楽員からお母様と二人で楽器を習い、一緒に演奏した。それをお父様がにこにこ笑いながら見ていらした。

 お兄様たちは時間があると野外で騎馬の稽古をされていた。馬に乗ったまま剣や槍を振るい、お父様の部下たちを二手に分けてそれぞれの指揮を執り、激しい訓練をされていた。汗まみれになって戻ってシャワーを浴びた後、上半身裸のまま直前の訓練に関していろいろ感想を述べあっていらした。よく鍛えられ、日に焼けたたくましい体が眩しく見えた。

 そして、そして・・・・タギ。少女は少し頬を赤くした。次の日にお礼を言おうと思って探すともう出発してしまった後だった。自分に何も言わず居なくなるなんて思いもしなかった。とても急いでいるようでしたよとジョナスが言った。何か怒らせるようなことをしたかしらと不安になった。十分な報酬を払ったからいいのですよとメテオが言った。ああいう人間たちはお金が目当てですから、満足しているはずですよ。

 お金が目当てというだけではない、と思っていたのだけれど、錯覚だったのかしら。ランは何回目かのため息をついた。


 初夏の風が庭を渡っていた。木の多いダシュール家の庭のベンチにランは座っていた。幅広のつばの付いた白い帽子をかぶり、白い服を着ていた。レースの縁飾りの付いた襟、肘までの長さの袖、膝を隠す長さのスカート、素足にサンダル、涼しげな格好だった。おおきなパラソルを立てて日陰を作り、ダシュール子爵の蔵書の一冊を借り出して読んでいた。

 オニキウスの長編叙事詩『ハーマールード』は父の書架にもあった。こんなきれいに装丁された本ではなく、何度も読み返した後があった。キリキアの英雄アミニウスの冒険物語だった。王から無理難題を押しつけられたアミニウスが、長い苦難の末にそれを果たして、最後に王女と結ばれる物語で、そのくだりになるとランはいつも胸が高まるのだった。王女の名前がラン=アネットというからかもしれない。この物語が好きでおまえにランという名を付け、それからおまえの曾お祖母様がクローディアという名だったから、それをいただいて、ラン・クローディアという名前になったのですよとお母様がおっしゃっていた。何度も読んでよく知っている箇所をぱらぱらとめくっては読み返して、ランは本を膝に置いた。


 近頃ダシュール子爵の屋敷内はざわめいていた。屈強な男たちが忙しげに行き来し、あちらこちらで召使いたちのひそひそ話が聞こえた。子爵自身も自分の領地からカーナヴィーに来ていて、朝からカーナヴォン侯爵の屋敷に伺候して夜に帰って来るという生活をしている。

 この雰囲気には覚えがあった。セシエ公の軍が押し寄せてくる前のアペル城の雰囲気にそっくりだった。でもあのときと違って、戦が近いのかどうかだれもランにきちんと話してくれなかった。そんな余裕はないのかもしれないし、ランを子供だと思っているのかもしれない。でも、とランは思った。また戦いだわ。セシエ公はランディアナ王国を自分の手で再統一するまで手をゆるめないでしょう、ラン様がどこへ行かれても、王国内に居られる限り必ずまたセシエ公の軍とぶつかるでしょう、ゼリがいたわしそうな顔でそう言ったことがある。私はいつもラン様と一緒です、最後までお供します、ゼリはそうも言った。でもみんないなくなってしまった。ゼリも、カニニウスも、・・・タギも。


 ランは本を抱えて立ち上がった。明るい戸外から屋敷の中へはいると、暗くてしばらくは何も見えない。石造りの屋敷内は夏でもひんやりしている。アペル城もそうだった。書架に本を返して自分の部屋に戻った。


 ランの部屋は二階にあった。天井がうんと高いからふつうの家なら三階の高さになる。部屋の窓から広い庭の向こうに高い塀が見えた。いくら高くても、とランは思った。役には立たないわ。アペル城の高い城壁を、城壁の上には兵士たちが待機する通路まであったのに、セシエ公の軍は次々とそれを超えてきた。ほんの少しの間、マクセンティオの手の者がそこを確保して、セシエ公の軍に引き渡した。そこを拠点に城内になだれ込まれてしまえば、戦力の差はどうしようもなかった。ランはゼリとカニニウスに付き添われてかろうじて城外に逃れたけれど、ランの両親も兄たちも、父の部下たちもほとんどが城内で殺されてしまった。父と兄たちの首がアペル城の正門の所に晒されていると聞いた。手を合わせに行くことはできなかった。ランもお尋ね者だったからだ。

 カーナヴィーの城壁で防ぐことができず、この塀の外にまでセシエ公の軍が来るような事態になれば、カーナヴィーは終わりだろう。戦いを間近に見て、そのときからランの意識は子供ではなくなっていた。

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