一心同体物別れ
「はっ!」
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。昨晩、古本市で手に入れた本を読みながら眠ってしまったようだ。そのせいだろうか、目覚める直前まで見ていた夢をはっきりと覚えている。ここまで鮮明に記憶に残っている夢というのも珍しい。
「やっぱり、あれはただの夢だったんだよな」
夢の中で浦島太郎に扮した和扇さんは言っていた。この本の持ち主となった者は説話の中へ引き込まれ、割り当てられた役を演じることになると。
「そんな馬鹿な話、あるはずがない」
きっと本を読みながら寝落ちしてしまったせいでそんな夢を見たのだろう。それに本の中へ入り込む話なぞ、もはやテンプレと言っていいくらい巷に溢れかえっている。それらの話とごっちゃになってあんな夢を見てしまったのだ。
ボクは開いたままになっている御伽物語を手に取り、パラパラとページをめくった。浦島太郎の話を読む。顔から血の気が引いた。
「う、嘘だろ……」
そこに書かれていた説話は一般に流布している内容と大きく異なっていた。浦島太郎は亀をいじめていた子供のひとりと仲良しになった。助けた亀に導かれ、その子供と一緒に舟で小島へ渡り、たった一日だけ過ごして浜へ戻り、玉手箱を開けた途端鶴になって海の彼方へと消えていった、白髪の老人となった子供を浜に残して……夢で見た内容と全く同じ文章が綴られている。昨晩少しだけ読んだ時はこんな話ではなかったはずなのに。
「文章が変わっている。しかも夢の中でボクたちが演じたとおりに改変されている。やはり、和扇さんが言っていたのは本当なのか。これは持ち主を話の中へ引き込む特殊な本なのか」
ベッドから飛び起きて机に駆け寄り、パソコンの電源を入れる。満月と六曜の日付を調べる。
「今日は仏滅か。つまり昨日の夜、零時になった瞬間、本に引き込まれたんだな。確かに意識が遠のいたのはそれくらいの時刻だった。で、次の満月までの仏滅の回数は……三回か。思ったより少ないな」
あと三回猿芝居を演じれば、取り敢えず御役御免になるようだ。三回くらいなら何とかなるかも……いや、本当にそうだろうか。今回は浦島太郎という至極穏やかな話だったため何事もなく済ませられた。しかし御伽物語にはもっと過激な説話もあるはず……ボクは本を手に取ってパラパラとページをめくる。
「これだ、酒呑童子。源頼光ら六人の武士が大江山の鬼を退治する話。もし鬼役に割り当てられたら、殺されちゃうじゃないか」
本の中で死んだからと言って現実の自分が死ぬとは思えないが、斬り殺される場面を想像すると胃が痛くなる。それに酒呑童子の他にも損な役回りを演じる登場人物は多いはずだ。
「冗談じゃないぞ。悪夢を素直に受け入れるほどボクはお人好しじゃないんだ。名前なんか消してやる」
本が引き込むのは本の持ち主。持ち主とは裏表紙の署名欄に名前を書いた人物。ならば署名を消してやればいい。ボクはウェットティッシュを取り出すと、筆ペンで書かれた自分の名前を擦った。
「おかしいな、全然消えないぞ」
よほど上質な筆ペンだったのか、消えるどころか滲みすらしない。今度は消しゴムで擦ってみる。同じだ。カスレもしない。
「変だな、さっきから右足のふくらはぎが妙に痛む」
消しゴムで擦るたびにふくらはぎがヒリヒリする。偶然だろうか。いや、今は足の痛みよりも署名の消去を優先だ。ボクはハサミを取り出した。
「こうなったら、署名部分を切り取ってやる」
貴重な原書を毀損するのは気が引けるが背に腹は代えられぬ。ボクはハサミで裏表紙を切りつけた。
「痛っ!」
今度はふくらはぎに激痛が走った。見ると血が出ている。まるでハサミで切りつけられたかのような一直線の血が。
「な、何が起こったって言うんだ。本と足が連動しているみたいに……はっ、そうだ」
思い出したのは和扇さんの言葉だ。
『書は大切に扱うのだぞ。己の体の一部と考え、くれぐれも軽んじることのないようにな』
「あれは、つまりこれを意味していたのか」
どうやら一度持ち主になってしまうと、御役御免となるまで本と自分は一心同体の関係になってしまうようだ。本を傷つけると自分の体も傷つくのだ。しかも痛みまで感じるのだから始末が悪い。
「これは面倒なことになったな」
そこらに放り出しておいて踏んづけでもしたら大変だ。二つに折り曲げたら骨折の危険がある。燃やしてしまったら大やけどの危険がある。鍵付きの箱に入れて厳重に保管しておかなくてはなるまい。取り敢えず本を紙袋に入れて引き出しの奥に仕舞い込む。今日、大学の講義が終わったら店に寄って保管用の頑丈な箱を買ってこよう。
「それにしてもどうして右のふくらはぎなんだ」
傷口に絆創膏を貼りながら考える。すぐに分かった。本に引き込まれた者に刻まれる「客」の文字。怪我をしたのは「客」が刻まれた場所なのだ。きっとここを通して本と繋がっているのだろう。
「ヤレヤレ、とんでもないモノを手に入れてしまったなあ」
ここに至ってようやく古本屋の店主の言葉が理解できた。こんな奇書、一刻も早く手放したくなるのは当たり前だ。
「みんな、どうやって持ち主から解放されたんだろう」
怪我するのを厭わず、強引に名前を削り取った猛者がいたかもしれない。が、ほとんどの持ち主は満月の日まで待ち、御役御免になってから本を手放したはずだ。どのような仕掛けになっているのかはわからないが、満月になれば自然に持ち主を辞められるのだろう。
「それが一番無難な方法だな。三回夢を見るだけで済むのだからラッキーだと思っておこう」
驚きと痛みと諦めが一度にやってきた仏滅の朝だった。
出血はあったもののふくらはぎの怪我は切り傷程度のものだった。絆創膏だけでなんとかなりそうだ。
いつものように両親と三人で朝食を済ませると家を出て大学へ向かう。普段通りの講義、普段通りの午前。奇書の持ち主になったと言ってもボクの日常に大きな変化が起きるわけでもない。そう、昼の食堂でランチを食べるまではそう思っていた。が、
「こんにちは、渋川君」
学食でAランチを食べていたボクの肩に誰かの手が置かれた。瞬時に体が凍り付く。嘘、嘘だろと思いながら顔を右に向けると、いつもと変わらぬクールな表情の和泉さんが立っている。
「あ、こ、こんにちは」
これまたいつものように噛みながら返事をする。と、驚いたことに和泉さんがボクの隣に座った。あり得ない状況だ。これまで挨拶や会釈程度のコミュは取っていたが、隣同士で食事をするなどという大それた行為は入学以来一度もなかった大事件である。
ドギマギしながら横に座っている和泉さんをチラ見する。食事中のお喋りはお行儀が悪いと幼稚園の頃から言い聞かされてはいるが、ここは何らかの会話をした方がいいだろう。いや、しなくてはならない。これぞ二度目の千載一遇のチャンス。古本市ではろくな受け答えができなかったが、今回こそ親睦を深めるような会話をしてやるんだ。
(と言っても何を話そうか……)
会話の糸口をつかもうとボクはもう一度隣をチラ見する。和泉さんのプレートにはヨーグルトとサラダしか載っていない。これだけでよく体が持つものだと感心してしまう。
「あ、意外と小食なんですね」
思ったことがそのまま口に出てしまった。ボクの言葉を聞いた和泉さんの動きが一瞬止まった。が、何もなかったかのように再び食べ始める。明らかに心証を害してしまったようだ。
(あー、バカバカ、ボクのバカ! これじゃ前回よりも酷いじゃないか。どうしてもっと気の利いたことが言えないんだよ)
などと心の中で愚痴っても後の祭りである。和泉さんから返事はない。当たり前だ。ボク自身が和泉さんから「意外と大食いなのね」と言われたら返事に窮するだろう。それと同じだよ、この大バカ野郎! いやいやちょっと待て、ここで自分を責めても仕方がない。たった一言で諦めてどうする。失言を帳消しにするような気の利いた言葉を考えるんだ。これまで名言集の類は読んできたんだろう、考えろ、考えろ……
「ところで渋川君、昨日の古本市でゼミの資料は見つかった?」
頭の中の名言集のページを血眼でめくっていたボクの耳に聞こえてきた和泉さんの声。迷える子羊を救う天からの福音だ。さすがクールな和泉さん。ボクの前言は完全に無視していきなり用件を切り出してきた。こんなドライな性格でも、惚れてしまうと魅力的に見えるのだから恋とは恐ろしいものである。
「あ、はい。印刷じゃない手書きの原書が格安で手に入りました」
「どんな本?」
「えっと、御……」
言いかけてボクは口を閉ざした。昨晩和扇さんに言われた忠告を思い出したからだ。
『書は大切に扱うのだぞ。他の者にも知られぬ方が良い。人目に付かぬ場所に隠し、他言無用に願いたい』
いくら和泉さんでもあの特殊な本に関しては何も教えない方がいいだろう。少なくとも満月が来て御役御免になるまでは隠しておきたい。
「えっと、それはちょっと、教えられなくて」
和泉さんの眉間に皺が寄った。不機嫌な表情が妙に魅力的だ。
「あら、どうして。ゼミで使うのだからいずれ皆に知られてしまうのよ。隠す必要なんかないでしょう」
「そうなんですけどね。まだ話せる時じゃないので……」
「時じゃない? 意味が分からないわ」
「ですよね。色々話せないことが多くて……」
「なら話せない理由を教えて」
「そ、それも話せないので……」
「そう。分かったわ」
怒っているのか呆れているのか、クールな表情からはまるで読み取れない。それから和泉さんは二度と言葉を発しなかった。無言でサラダを食べている。何を考えているのかは不明だが、気分を害しているのだけは間違いないようだ。
(うう、どうしてこんなことに……うわーん!)
ボクは心の中で号泣していた。あの変テコな本よりも和泉さんの方が遥かに大切なのに、結果として和泉さんとの親睦より本の秘密を重視してしまった。これではあべこべではないか。こうなったら和扇さんの言葉なんか無視して何もかも話してしまおうか。いや、でもこんな馬鹿げた話、和泉さんが信じてくれるはずがない。余計に怒りを増幅させてしまう恐れもある。ああ、どうしよう……と逡巡していると、
「お先に」
和泉さんが席を立った。ボクの返事を待たずにプレートを持って去っていく。声を掛けることも後を追うこともできず、ボクは椅子に座ったまま食堂の箸を折れんばかりに握り締めていた。
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