第一仏滅 浦島太郎

 晴れ渡った秋空の下、穏やかにたゆたう大海原を前にして清右は砂浜にたたずんでいた。聞こえてくるのは打ち寄せる波音、風に鳴る木々の葉擦れ、そして亀をいじめる二人の子供の声。


「おい、そこのわらべ。何を突っ立っている。我らと共に亀を責めぬか」


 子供の一人にそう言われて清右は面食らった。そもそもここはどこなのか、どうして先ほどまでベッドで本を読んでいた自分が、子供の姿でこんな場所にいるのか、まるで見当が付かない。


「これは……夢?」


 まったく状況が飲み込めない清右は依然として浜辺に突っ立ったままだ。と、そこへ漁師の格好をした若者が姿を現した。


「これこれ、そのように亀を責めてはならぬ。ホレ、釣れた魚をやるからもう許してやるがよい」

「うわーい!」


 若者から魚をもらった二人の子供は松林の方へ駆けていった。助けられた亀は若者に礼を言っている。亀のくせに言葉が喋れるようだ。その様子を眺めている清右の耳に「海の向こう」とか「竜宮城」とか、どこかで聞いた単語が聞こえてくる。


「これって、まるで浦島太郎じゃないか」


 やがて若者と亀が歩き出した。清右もその後を付いていく。浜に乗り上げた小舟の前まで来ると、若者は持っていた釣り具をそこに乗せた。


「そこの童、こちらに参られよ」


 若者が手招きしている。清右は近寄って若者を見上げる。よく日に焼けた優しい面立ちの男だ。


「えっと、もしかしてあなたは浦島太郎さんですか」

「ご明察。おぬしは『客』だな。取り敢えず舟に乗るがよい。海の上で話をするとしよう」


 言われるままに舟に乗る清右。泳ぎ出した亀を追って舟を漕ぎ始める浦島太郎。それを見て清右が口を出す。


「あの、浦島太郎は亀の背中に乗って竜宮城へ向かうんじゃないんですか」

「ははは。いくらなんでもそれは無理というもの。こうして舟に乗って連れていってもらうのだ。おいおい、そんな奇妙な顔をするな。今、何が起きているのか話してやる。おぬし、月暦仏滅御伽物語なる書を手に入れたであろう」

「あ、はい。今日古本市で買ったばかりです」

「それは極めて珍妙なる書でな。持ち主を書の中へ引き込む力を持っている。ここは仏滅御伽物語の世。仏滅の日の真夜中になった瞬間、書の中のいずれかの説話の中に引き込まれ、我らは割り当てられた役を演ずることとなる」

「我らって、じゃあ、浦島さんもボクと同じように普通の人間なんですか」

「左様」


 浦島太郎は櫓を漕ぐ手を休めると、袖をまくって見せた。左の二の腕に「客」という文字が浮かび上がっている。


「書が引き入れた者の体には『客』の文字が刻まれる。拙者がおぬしを『客』だと判断したのはその文字を見たからだ」


 浦島太郎が指し示したのは清右の右足のふくらはぎ。確かにそこには「客」の文字が浮かび上がっている。


「でも変だなあ。そしたらあの古本屋の店主も同じ経験をしていたはず。どうして教えてくれなかったんだろう」

「書の持ち主となるには裏表紙に己の名を書かねばならぬ。署名によって初めて書はその者を持ち主と判断するのだ」


 清右は舌打ちをした。売り戻しされないように店頭で名前を書かされた、あの署名が仇になったのだ。あの時名前を書かなければこんな事態にはならなかったに違いない。


「えっと、それじゃあ、浦島さんもあの本の持ち主なんですか」

「おぬしの世から見れば持ち主だったというのが正しい言い方だろうな。その書が作られたのは足利の世。それ以来多くの者たちがその書の持ち主となった。そして新しい持ち主が現れるたびに、時を越え、場所を越えて、かつての持ち主たちは書に引き込まれ、新しい持ち主と共に御伽物語の役を演じる。今回はおぬしが新しい持ち主となったので、過去の持ち主である我らが時と場所を越えてここに呼び寄せられたのだ」


 浦島太郎の話は完全に常軌を逸している。冗談ではないか、あるいは頭が少しおかしいのではないか、清右はそう思わずにはいられなかった。が、現にこうして子供の姿で舟に乗っているのだ。この状況自体が既に常軌を逸している。清右は取り敢えず浦島太郎の話をそのまま受け入れることにした。


「ところでおぬしはいつの世から来たのだ。現世ではどのような身分の者だ」

「あ、え~と、元号は平成で、って言っても分からないよね。足利幕府から戦国時代を経て徳川幕府の時代になったのは分かりますか」

「うむ。拙者は徳川の世の者であるぞ」

「その徳川の世が終わって、元号は明治、大正、昭和、そして平成と続くんです。その辺から来ました」

「ほう、随分先の世だな。して、平成の世で何をしている。どこに住んでいる。ここでは子供の姿をしていても、書を読むとあればそれなりの素養を持つ大人なのであろう。名は何と申す」

「大学生、じゃなくて、まだ親の脛をかじっている勉学の身です。住んでいるのは東京、いえ江戸の近く。年は二十一。名は渋川清右と言います」

「渋川……」


 浦島太郎の顔には少なからぬ驚きの色が浮かんでいる。その目も清右に釘付けになっている。


「どうかしましたか」

「あ、いや、意外な名を聞かされたのでな。おぬしの名は御伽草子を編纂した人物に似ておるのだ。渋川しぶかわ清右衛門せいえもん、ひょっとすると清右はその子孫なのかもしれぬな」


 今度は清右が驚く番だった。江戸時代に入り、それまで伝承されてきた説話を御伽草子としてまとめあげたのは、確かにそんな名前の人物だった。今の今まで気付かなかった自分が恥ずかしくなる。


「本当だ。じゃあこの本の持ち主になったのは単なる偶然じゃないのかもしれないね。ところで浦島さん自身はどうなの。今度はそっちの身元を教えてよ」

「拙者でござるか、うむ、まあ。大した人物でもないのだが」


 浦島太郎は櫓を握ると再び漕ぎ始めた。手を動かしながら話をする。


「我らの世の元号は元禄。五代将軍綱吉公の治世だ。住まいは江戸。恥ずかしい話だが仕官の口を探す長屋住まいの浪人だ。年は数えで二十三。名は、そうだな……わせん、とでも呼んでくれ」

「わせん……和風の扇で和扇かな。なかなか雅な名前ですね」


 和扇は返事をせず黙って櫓を動かす。これ以上は身元についての話をしたくない、そう言わんばかりの風情である。清右もそれを察して口を閉ざした。

 やがて前方に島が見えてきた。亀と舟はそこに向かっていく。


「あれが竜宮城のある島だ」


 和扇の言葉を聞いて清右は首を傾げる。


「変だな。竜宮城は海の底にあるって聞いていたんだけど」

「海の底になどあったら、たちまち息が詰まって死んでしまうではないか。竜宮城は離れ小島にあるただの屋敷に過ぎぬ」


 島の浜辺へ舟を着けると、先に到着していた亀が突然女の姿になった。親し気に話しかける和扇。子供たちにいじめられていた亀の正体は、姿を変えた乙姫だったのだ。どうりで言葉が喋れるわけだ。知っていた話と随分違うので、清右は面食らってばかりいる。


「こちらでございます、どうぞ」


 人の姿に戻った乙姫の後に付いて屋敷に入る。下働きの女中は出て来るが鯛やヒラメは出て来ない。海中ではないので当たり前だ。


「あんたはこっちだよ」


 突然姿を現したぞんざいな言葉遣いの女中に連れられて、清右だけ母屋の隣にある離れへ通された。離れと言っても中は三畳ほどの板間があるだけの粗末な小屋である。清右の役は亀をいじめる童、本来ならばここへ来るはずのない役だ。そのためこのような処置が取られたのだろう。


「亀をいじめる役だからなあ。丁重な持て成しを期待する方が無理か」


 それでも出された夕食は一汁三菜、暗くなってからは行灯、寝具として綿入りの掻い巻きを提供された。それに包まってひとり横になる清右。徐々に不安が募ってくる。


「浦島太郎って竜宮城で三年暮らしたんだよな。ってことはボクもここで三年暮らさなきゃいけないのかな」


 まんじりともできぬ夜を過ごして朝が来た。出された朝食をとっていると和扇が顔を出した。


「清右、それを食ったら舟に乗れ。昨晩、乙姫と話し合ってな。竜宮城での滞在は一日だけにした」


 登場人物を演じると言ってもかなり融通が利くようだ。大体の粗筋が合っていれば些細な部分はどうでもいいのだろう。ほっと胸を撫で下ろす清右。乙姫からもらった玉手箱を持つと、昨日と同じ船に乗り海へと漕ぎ出す。


「あの、和扇さん、この話が終わって元の世界に帰ったら、やっぱり同じだけの時間が経っているんですか」

「ああ、その点に関しては案ずるに及ばぬ。書の中で何日、何年過ごそうとも元の世に帰るのは必ず朝日が顔を出す時刻だ。この書の中で過ぎる時は、元の世の真夜中から夜明けまで。一夜の夢と思ってもらえばよい」


 またも安堵する清右。夢の世界と現実世界の間では、時間経過に関連性はない。生まれてから死ぬまでの夢を見ていても、現実世界では数分の昼寝にすぎないこともある。それと同じなのだろう。


「で、この猿芝居は浦島太郎だけで終わりですか。それとも二十三話、全て演じ切るまで続くんですか」

「この書は月暦仏滅御伽物語。仏滅の日に持ち主を書に引き入れる効果は満月になれば消える。つまり清右の世の次の満月の日まで続くことになる」


 仏滅は六日に一度。満月は月に一度は必ずやって来る。となれば多くても五、六回で打ち止めとなるはずだ。元の世に戻ったらすぐにカレンダーで確認しようと清右は心に決めた。


「長くてもひと月で終わりか。それくらいなら我慢できるかな」

「ああそうだ、言い忘れていたが書は大切に扱うのだぞ。己の体の一部と考え、くれぐれも軽んじることのないようにな。他の者にも知られぬほうが良い。人目に付かぬ場所に隠し、他言無用に願いたい」

「え、あ、はい。分かりました」


 あんな古本にそこまで気を遣わねばならぬ理由は不明だが、この怪現象をよく知る和扇の言葉となれば従わないわけにはいかない。清右は素直に承諾した。 


「さて、着いたぞ。降りて玉手箱を開けるとするか」


 話をしているうちに舟は昨日の浜辺へ着いていた。舟を降りるやいなや何の躊躇もなく玉手箱を開ける和扇。さっさとこの芝居を終わらせたい気持ちが態度に滲み出ている。二人の周囲に立ち込める白煙。


「ええっ!」


 清右は驚きの声をあげた。自分は白髪の老人となったのに、浦島太郎に扮していた和扇は鶴になったからだ。


「ど、どうして鶴なんですか。お爺さんになるんじゃないんですか」

「浦島太郎は長寿を祈願した目出度い説話。鶴は千年、亀は万年。乙姫の亀が出てきた以上、浦島太郎の鶴を出さねば片手落ちであろうが」


 そういうものなのかと清右は首を捻る。鶴となった和扇は羽を広げて空へ舞い上がった。


「これにて浦島太郎の説話は完結。我らは元の世に戻る。清右、達者でな」


 鶴になった和扇は空の彼方へと飛んでいく。その姿が青空の中へ吸い込まれていくと清右の視界は眩しい光に覆われ、やがて何も見えなくなった。

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