いざ給へ! 御伽物語

沢田和早

第一話 和扇の巻

合縁奇縁の古本市


 しつこく残暑が続いている九月下旬の日曜日、ボクは隣町のショッピングモールに来ていた。目当ては半年に一度開催される古本市。大学で受講しているゼミの資料を探すつもりなのだ。


「ろくな本がないなあ。残り物には福があるって言うのに」


 古本市の開催期間は一カ月ある。なのに最終日の今日まで来なかったのは、なんでも先延ばしにしようとするボクの悪い癖のせいだ。二十歳過ぎの今日まで治らなかったのだから一生この癖は付いて回るんだろうなと思いながら、ごちゃごちゃと並べられている古書を物色していると、


「あら、渋川しぶかわ君、奇遇ね」


 秋風の如く清涼な声がボクの耳に飛び込んできた。嘘だろうと思って顔を上げれば嘘ではない。髪は烏の濡羽色という万葉の言葉通り艶のある長い黒髪、冷淡さと優美さを合わせ持つ切れ長の目、同じ学部の同じ学科に在籍する和泉いずみ和泉かずみさんがボクの横に立っていた。


「あ、こ、こんにちは」


 焦って噛んでしまった。無理もない。入学式で一目惚れしてしまった女子なのだ。なんとか親しくなろうとこの二年半努力してきたが、中高一貫教育男子校出身の自分にはハードルが高すぎる相手。これまで挨拶程度しか言葉を交わしたことがない。もちろん学外で話をするのはこれが初めてだ。


(チャンスだ!)


 これぞ千載一遇の好機。さして興味もない古典のゼミを選択したのも、彼女がそれを受講しているからだ。ここで一気に二人の仲を縮めてしまおう。


「えっと、和泉さんもゼミの資料を探しに?」

「そうよ」

「そ、そうですか。(じゃあボクと一緒に探しませんか)」

「さっきいい感じのを一冊見付けたの。即買いしたわ」

「あ、もう買っちゃったんですね(それなら休憩がてらお茶でもどうですか)」

「渋川君はどう? いいのあった?」

「いえ、ボクは来たばかりで、まだ……(はい、とっくにゲットしました。もうここに用はないので一緒にお茶でもどうですか)」

「頑張って探してね。私は行くわ、人を待たせているから」

「あ、はい。さようなら(待たせている人って誰ですか。もしかして男?)」


 スタスタと去っていく和泉さんの後姿を眺めながら、ボクの気分は奈落の底へと落ち込む。言いたかった言葉は丸括弧に囲まれたまま、文字から台詞に昇格することなく喉の奥で消えて行ってしまった。


「あー、せっかくのチャンスだったのに。バカバカ、ボクのバカ!」


 などと悔やんでも後の祭りだ。まあいい。誰とも会わなかったことにしてしまえばいいのだ。今見えたのは和泉さんの幻、聞こえたのは風の音、と変な理屈で自分を納得させて古本の物色を再開する。


「う~ん、やっぱり手ごろな感じのはないなあ」


 原文で書かれた江戸時代以前の本。一番良いのは原書。しかしそれは高価で入手困難なので印刷も可。原文が載っていれば最近出版された書籍でも可。現代文の訳付きは不可。これがゼミの講師から言い渡された条件である。

「おっ、これは……」

 とある書店のコーナーでボクの足が止まった。この古本市は様々な古本屋が集まって、夜店の屋台のようにそれぞれのコーナーに店主が座っている。気に入った本は店主と値段交渉をして手に入れるのである。


月暦つきごよみ仏滅ぶつめつ御伽物語おとぎものがたり……変わったタイトルだな」


 手に取るとゴワゴワした手触りで分厚い。かなり古いモノのようだ。パラパラとページをめくると流暢な筆遣いで変体仮名が綴られている。しかも印刷ではなく手書きだ。


「原書かな」


 内容は一般に普及している説話二十三編を収めた通常の御伽草子のようだ。しかし題字の「月暦」と「仏滅」の単語が気に掛かる。


「お兄さん、買いなさるのかね。その本、滅多に手に入らない珍品だよ」


 店主がにやりと笑っている。本に値札は付いていない。珍品と言って高く買わせるつもりなのだろう。その手には乗らない。


「どうしようかなあ。随分古ぼけているしなあ。ホラ、ここにシミなんかもあるし、汚れて判読不能な文字もあるし」

「年代物だからねえ。なんでも秀吉が藤吉郎と名乗っている頃よりも前に書かれた本らしいよ」


 どうしてあんたがそんなことを知っているのだと問い詰めたくなる。だが相当な古書であることだけは間違いないようだ。面倒なので本題を切り出す。


「で、いくらで売ってくれるの?」

「そうだな……五百円でいいよ」

「五百円! や、やす……」


 思わず「安い」と言いそうになってしまった。値段交渉中に絶対口にしてはいけない禁句である。


「ま、まあ良心的な値段だね。少し考えさせてもらおうかな」

「おいおい、正直に『安いっ!』と言えんのかね。見た目はボロいが原書なんだぞ」


 さすがに店主も破格の値であることは意識しているようだ。それでもこちらとしては簡単に安いとは口にできない。


「いや、原書でその値段なら、むしろ裏があるんじゃないかと思うでしょ。途中こっそり五ページくらい抜けているとか」

「ああ、その通りだよ」

「えっ、本当に抜けているんですか」

「いいや、落丁乱丁はない。それは保証する。そうじゃなくて実はその本、ちょいといわく付きでな」


 適当に鎌をかけたのにあっさり認めてしまった。商人らしからぬ正直さである。


「いわくって、何ですか」

「売れても必ず戻ってくるんだ。数カ月もしないうちに、『ただでもいい、引き取ってくれ』と買主が持ってくる。半年前の古本市では初日に売れたのに一カ月後の最終日には戻ってきてしまった。もう見るのもうんざりなんだ」


 店主の言葉を聞き、改めて本を眺める。古めかしいだけで何の変哲もない古書だ。


「それにこれがワシにとっては最後の古本市なんだ。儲からんし、年もとったからな。古本屋は今年いっぱいで廃業するつもりだ。どうかね、期待外れな本だったとしても五百円なら諦められるだろう」

「買った!」


 廃業の話は同情を買うための作り話かもしれないが、五百円は間違いなくお買い得価格である。ボクの返事を聞いた店主はまたもにやりと笑う。


「ではすまないが君の名前を書いてくれんかね。この古書は不思議なことに裏表紙に署名欄があってな。ここに自分の名を書けば売り飛ばす気にもなれんだろう」


 裏表紙を見ると確かに署名欄がある。店主の差し出す筆ペンを受け取り「渋川清右せう」と自筆し、五百円玉と一緒に筆ペンを返す。これで売買は成立だ。


「まいどあり~」


 愛想の良い声に見送られ、ボクは大満足で家路についた。



 夕食を終え、ネットで動画を観て、ゲームをして、風呂に入り、秋の夜長を存分に楽しんだ真夜中近く、ボクはベッドに寝転がって手に入れた古本を開いた。


「やっぱり直筆だ。これは掘り出し物だな」


 表紙も中の紙も傷んではいるが、触れてみると脆さは感じない。普通の和紙ではなく何かの革のような手触りだ。数百年の時を経ても明確に読める文字を残しているのは、この材質のおかげなのだろう。


「挿絵は全然載ってないなあ」


 店先でチラ見した時も文字しか見つけられなかったが、改めてページをめくってもみても細かく流暢な文字がぎっしりと綴られているだけだ。変体仮名は高校の頃から勉強していたのでほとんど読める。大まかに表題を拾っていくと、酒呑童子や鉢かづきなど、お馴染みの説話が並んでいる。一般に流布している二十三編全てが掲載されているようだ。


「おかしいなあ、返本したくなるような箇所なんてどこにもないじゃないか。いわく付きってのも、この本を売るためにでっち上げたあのオヤジの作り話だったのかな。まあ、今となってはそれもどうでもいいことか」


 一通り検分が終わった後で裏表紙を見る。ボクの名前が書かれている。


「前の持ち主の名前とか残っていないかな」


 署名欄をじっくりと見詰める。しかしボクの名前以外に何もない。薄っすらとでも前の持ち主の名が読めないかと目を凝らしてみたが、署名欄にはシミひとつない。この部分だけはまるで新品の書籍のように真新しい。


「いくら何でもこれまで誰一人署名しなかったってことはないだろうし、どの持ち主も綺麗に消し去ってから手放したのかな。墨やインクの跡が全然残らないなんて、よっぽど特殊な紙を使っているんだろうな」


 まあ、しかしそれもどうでもいいことだ。今のところこの本を売る気はないのだから署名を消す必要もない。

 ボクはもう一度ページをパラパラとめくった。浦島太郎という表題が目に入る。ちょっと読んでみる。随分内容が簡略化されている。高校の時に文庫で読んだのは江戸時代成立の御伽草子の現代語訳。あの店主の言葉を信じれば、この原書はそれよりも百年以上前に書かれているようなので、内容が多少変わっていてもおかしくはない。


「それでもおおまかな粗筋は同じみたいだし、格別変な文章でもない。前の持ち主たちってこの本のどこがそんなに気に入らなかったんだ……あ、あれ……」


 奇妙な感覚がボクを襲った。読んでいる文字が浮き上がるように肥大し始めたのだ。それと同時に視界全体が古書の文字で覆われていく。


「す、吸い込まれるー!」


 目の前の景色がグルグルと回り始めた。体の平衡感覚が喪失している。堪らず目を閉じたボクの意識は暗闇の中で徐々に薄れていった。

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