第2話 中編

 社会人四年目。上司と通勤電車に揉まれ悩むサラリーマン。それが今の、伊月を象っている。

「先輩は彼女作らないんですか?」

 ある曇り空の午後。デスクに張り付いたままで気が滅入りそうだと、伊月が自販機に足を向けると、先客の後輩から世間話のように突如疑問を投げられた。

「何を藪から棒に」

  昨年入ってきた三つ年下の後輩は、最初の慌ただしさも形を潜め、従来あったであろう優秀さを発揮している。非常に頼もしくはあるが、その分どんな相手にも親しみを抱きやすいところは細やかながらに欠点ではないかと伊月は感じていた。

「いやね、昼に同期と話してたんですよ。先輩もてそうな顔してそんな気配ないな、て」

 もしかして既にいました? なんて言葉返ってきて失礼にもほどがあると伊月は思った。本当に仕事はそこそこできるのだが、こういったノリとチャラさがまだ目に余る。

「そんな無駄な話をする前にお前はどうなんだ」

 苦し紛れにそう返すと、後輩は少し得意そうになった。

「いますよ。もうかれこれ五年ですかね。学生の時からの奴と」

 そんなことよりも、と後輩は持っていたカップのコーヒーをずい、と押しやる。

「俺のことはいいんです。先輩はどうなんです? いい人いないなら紹介しますよ? 彼女づてですけど」

 そんなぼんやりしていると婚期逃しますよ、と言われ、余計なお世話だ、伊月は返した。

「もしかして片思いの相手でもいるんですか?」

 割と核心を突かれ、そっと目をそらす。後輩はほほう、と楽しそうな顔した。

「女性は待ってくれませんよ。今の彼女だって、俺が猛アタックしたから何とかつきあってもらえ始めたようなものですし」

 なんでもノリと調子のよさだけで生きてきたんだろうという認識を少しだけ改める。後輩は後輩なりに苦労をしてきたんだな、と伊月は後輩を憐れいだ。

「おまえ…」

 ダメ元でも頑張ってみてください。駄目なら俺たち後輩らが話聞きますから、なんて言われ、前言撤回、伊月はまた余計なお世話だ、と返した。 



 ここが私の秘密基地。どう? と小首をかしげ岬は言った。小学生五年の、岬がこの町に来て、初めての春を迎えようとする少し前のことだ。そこは街外れの都市開発と称して残った建物だった。開発資金が横領されたからだとか、もとより余裕がなかったのに無理に推し進めた結果頓挫したとか、真偽のほどがわからない話がある場所だった。

「入っていいかわからなかったんだけど、なんかずっと人気ないし、誰も使っていないのならいいかな、って」

 彼女は思っていたよりも豪胆な人だった。

 広くて何もないフロアには伊月たちと歪んだ窓枠の影がうっすら浮かび上がる。その影を踏むように岬はクルリクルリと踊って見せる。灰色と白の影の世界の出来上がり。日があまり入らない室内は、彼女の雰囲気によく合っていた。むき出しのコンクリートの床の埃が舞い、外気にさらしてきらきらとわずかな光に反射して輝く。以前見た、スノウドームの中の様だ。

 二人だけの秘密よ。囁くようなその言葉に、伊月の心臓はドキリと跳ね上がる。

 この秘密基地は、僕たちの、岬の王国だった。僕は唯一の国民にして、絶対の従者、そして臣民。岬の発する言葉は伊月にとって絶対だった。

「ここに来るとね、ふっと落ち着くの。なんも気にしなくていい。部屋の白さが、無機質さが、私を空っぽにしてくれる」

 部屋の窓際に腰掛け、岬ははぁと息を吐いた。冷えたコンクリートは体温を徐々に吸い取っていく。いくら防寒をしっかりとしていても、体内と外の温度差はどうしようもなかった。何もないがらんどうは、ときには救いになるのだと岬は言った。

「白は拒絶。黒は同調。灰色は……。そうね、名残、かな」

 もしくは未練かも。にや、と彼女は笑って見せる。初めて見たときと同じ、あの顔だった。

 彼女が教室内で息をしにくそうに毎日を過ごしているのは知っていた。授業中も休み時間も彼女は常に一人で、僕はそんな彼女をただ見守る事しかできなかった。

 居場所が欲しかったのだ、と彼女は言った。誰にも邪魔されず、彼女を害さない場所。岬の気持ちを伊月は正確に汲み取ることは出来なかった。たった十年そこらしか生きていない僕には、彼女のいる環境も生い立ちも、親のことだって考え至ることは出来やしなかった。この時の彼女と僕の間には深い溝が横たわっていた。

 君にとっての僕は何だったろう、と伊月は今も思いかえす。あのときは答えがでなかった。十六年経った今でも答えは出てくれない。

 荊を纏う彼女の救いになれていたかどうかなんて。


● 


「今日はお集り頂き、誠にありがとうございます!」

 揚々としたまだ酔いの入っていない明朗な声が、小さな個室に響き渡る。横を見ると、窓ガラスが室内と外の温度差で曇って水滴を纏う。今日は一段と冷えるようだ。

今回の会の幹事で企画発起人である後輩は、今にも零れそうなビールジョッキを片手に座席から立ち上がり人当たりの良い笑みで乾杯の音頭を取った。

 その日は会社の歳が近い数人が集まったほんの小さな飲み会だった。会社と駅のほど近いよくあるビルに入っているチェーン店の居酒屋で、予定もないしと伊月は誘いに応じたのだった。多分、今日があの日であったなら、この場に来ることはなかっただろうと伊月は思う。

 後輩と同期が身の回りの最近の話や趣味、会社の愚痴を言い合うのを伊月はそれなりに楽しく聞いていた。酒が入って気分が高揚していたこともある。普段接している人たちの、あけっぴろげなこの空気は嫌いではなかった。

「あ、桂花陳酒がおいてありますね」

 これにしよ、と同僚が備え付けのパネルから注文をしていた。その聞き慣れぬ名だった。後輩も気になったようで、何それ、と同僚に聞いている。

「金木犀のお酒です。白ワインに三年漬けてある中国のお酒なんですよ」

 前飲んでみたら意外に美味しかったんですよね、と彼女は言う。気になりだして、後輩やほかの何人かが頼み始めた。ほどなくしてやってきたそれは、確かに金木犀独特の香りを漂わし、梅酒に似た透明感のある色味をしていた。薄暗い室内の明かりに液体を満たした氷が反射してきらりと切なげに輝る。

 案外甘いんだね、と誰かが言った。女子が好きそうだとかやいやい周囲が評価し始める。居酒屋のグラスにちょん、と収まったその酒はなんだか何物も寄せ付けない雰囲気があった。場に漂う香りが記憶の中の彼女を想起させる。

 「金木犀、か」

 ポツリと思わず呟くと、そういえば、後輩が口を開いた。

「前話していた先輩のコイバナ。聞かせてくださいよ」

 話すなんて一言も言った覚えがない。伊月は嫌そうな顔をすると、なんだなんだと周りがこちらを注目し始めた。後輩の顔をちらりと見やる。にや、と悪戯っぽく笑う顔とかち合った。この野郎、と目で訴えるも、華麗に無視を決め込まれてしまった。

 伊月は自分の置かれている状況を、本当にどうしようもなく理解した。ため息を一つ吐いて、なけなしの名誉のために、伊月は高校の時にほんの一時だったが、彼女がいたことを明かした。同じクラスの、委員会が同じだったことがきっかけだったように思う。もうあんまり覚えていない、というと興味なかったんですね、と言われた。多分、その通りだ。

 どんな人かと聞かれれば、周りより孤立してそうな人だった、と言える。派手過ぎず地味過ぎず、平均的な女子だった。一か月ほど何事もなく付き合って、向こうから振ってきた。なぜ付き合い始め、別れたのかすら覚えていないが、ただ、時期ははっきりと覚えている。金木犀の香る頃だった。ただのクラスメイトに戻った時、金木犀の香りがしていた。それしか覚えていない。

「じゃあ逆に初恋っていつだったんですか」

 予想の斜めをいく答えに、後輩が改めて尋ねてきた。伊月はいつだったか駅員に話したことと同じことを、できるだけに短く話した。いつの間にか大分杯を空けていた。酔いが心地よく廻って、伊月の口から言葉はするりと出てきた。

 話し終えると、でもそれってさ、と黙って聞いていた同期の奴が口を開いた。

「それって好きってことなのか? なんか聞いていると、ちょいとばかし度がいった、ただの憧れのように聞こえるんだけども」

 伊月は曖昧に笑うしかできなかった。それこそただの主観じゃない? それはそれでありだと思うよ、と他の同僚は口を挟む。そもそも男女における恋愛観は、と話が転がって変化していく。そうして伊月の話は流れていった。

 十一時になるあたりでもういい時間だと会はお開きとなった。帰り際、後輩が今日はありがとうございました、なんてらしくもなく律義に礼を言っていく。

「にしても先輩のコイバナ聞けるとは思ってもみませんでした」

 自分で仕掛けたくせによく言う、と伊月は思う。頑張ってくださいね、と言うものだから、何にだ、と返す。後輩はわかっているくせに、とにやっと笑った。

「初恋ですよ。諦めきれなくて、高校のときのはうまくいかなかったんでしょ? そんなに未練があるなら、初恋を実らせればいいんですよ」

 簡単な事ですよ、と後輩は言う。そんなこと考えたこともなかった。

「無理だ」

「ん? なんです?」

 小さな呟きにすらならない言葉に後輩は聞き返す。よくは聞こえなかったようだ。なんでもないと伊月は返した。なぜこの言葉が口を突いたのか伊月には分からないほど、無意識だった。

「そうだな、そうかもしれない」

 そうなればいいな、とどこか他人事のように言って、駅前で後輩と別れた。駅の改札へ向かうと、仕事終わりや終電を逃すまいと急ぐ人たちで埋め尽くされていた。それをぼんやりと眺めながら、いつものように習慣となった帰り路を辿る。

「なんか、疲れたな」

 悪くはない会だったはずなのに、どっと身体が重たく感じる。やんわりと意識が緩くなっていることに気づきながら、伊月は先ほどの会話を思い出す。憧れ、未練。あれはそういうものではない、と思う。第一まだ終わっていないのだ。岬とはまだ、連絡を取り合っている。まだ彼女とは繋がっている。金木犀の君。ああ、けれど。

「最後に連絡を取ったのはいつだっけ……」

 人が犇めくホームで、雑音に思考が紛れていく。最後に話したのは、姿を見たのは、言葉を交わしたのは、いったいいつだったろう? お互い忙しい身だからと、気にしては駄目だと自分に言い含めていた。彼女は今、どこにいるのだろう?

 ふわりふわりとした曖昧な思考が、都会の喧騒と共に夜空に溶けていくようだった。思い出そうとすると、そこでどうしても追えなくなる。絶壁があるように、ぴたりと隔てられている。

 その時、電車の到着を知らせるアナウンスが耳に入ってきた。大きな音を立てて、電車がホームに入ってくる。扉が開いて、後ろに並ぶ乗客に押し流されるように電車に乗り込む頃には、伊月はもう何について考えていたのか分からなくなっていた。ふと窓の外に見える景色は、黒とも灰色とも捉えられる色彩に彩られていた。

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