金木犀の旅人
若槻きいろ
第1話 前編
陽炎のように、明かりに揺れる街が遠のいていく。
等間隔に並んで灯る電灯が走馬燈の様に過ぎていった。
すん、と鼻を鳴らせば花火の残り香があたりに満ちているのがわかる。今日は祭りの日だった。
夏のにおいがすると伊月は思った。
足を交互に動かして、自転車のペダルをひたすら踏んだ。あたりはむっとした湿気で覆われていて、額からは汗が流れ落ちた。
遠のく。遠のく。
伊月は振り返らなかった。
街の明かりも、祭の賑やかしさも、全部振り払って彼はただ突き進んだ。
街はずれのビル群へ。あの向こうに彼女はいる。
月が水面に浮いたかと思うほど、綺麗に映る夜だった。
タタンタタン、と電車が音を立てて揺れ動く。田舎で海が近いこの街にとって唯一の交通機関だ。
伊月は誰もいないホームに一人でいた。誰かを想うように、頻りにスマートフォンを片手に伸ばしては、焦らす様にしか動かない画面の数字にただため息をついた。
夜は谷底に落ちるように深まっていった。
規則正しく発着していた電車の数が減った頃、視界の橋がぱっと明るくなった。手元を見ると、画面にはメッセージが一件入っている。震える指が液晶に触れた。祈るような気持ちで開いてゆく。
そこに書いてあった内容に、伊月は今日何度目かの溜息をついた。
そこにはただのメルマガが届いた知らせの文字が浮いていた。
伊月は落胆したまま改札を抜けた。改札横の駅員室にはまだ明かりが灯っており、一人の駅員が伊月に気がついた。伊月が今日の様に遅くまでホームで待っていることを駅員は知っていた。駅員は悩める青年に声を掛けた。
「よう」
「ん、ああ。駅員さん、今晩は」
駅員に気がついた伊月は軽く会釈した。見た目はいつものように平静だが顔の表情は優れていなかった。
「また駄目だったのかい?」
「ええ、残念ながら」
伊月は苦笑した。夜のホームはもう見慣れてしまった。
こうして月に一度、仕事帰りにホームに寄っては落胆して帰ることを伊月はもうかれこれ一年はしている。そしてその様子を駅員はよく見てきた。雨の日も凍えそうな日だって伊月はためらわずここにきた。
ただ一途な思いだけを持って。
「お前も大変だなぁ」
そんな帰らない彼女を持って。と駅員は同情気味に言った。
「待つことだけが僕に出来ることですから」
だからちっとも苦じゃないですよ。と伊月は返した。
「大好きなんです。今も」
伊月は笑う。スマートフォンを握る手が少しだけ強まる。
「大好きだから、待とうって思えるんです」
立ち話も何だから、と改札前の待合室の椅子に座った伊月はそう答えた。この時間は伊月以外の利用客はいない。駅員と二人だけの、少し奇妙な組み合わせだ。
「へぇ、一目惚れだったの」
「そうなんですよ」
感心する駅員に伊月はうなづく。二人は自販機で買った缶コーヒーを開けて、くっと傾けた。微糖のほろ苦さが身に染みた。
「初めてあったときから、あの子はちょっと特別でした。学校でも、街でも。あの子は浮いていたんです」
そう言って、伊月は少し昔話を始めた。
彼岸が過ぎた頃だった。学校の帰り、いつもと同じ通学路。けどその日は違う道を通っていた。
その道を選んだのはただの気まぐれだ。そして途中でかすかに違和感を感じた。
甘い匂いだ。
あたりを見渡すと、最近新しく出来た家の生け垣に橙色の小さな花がこぼれんばかりに咲き誇っていた。
その様子に当時、伊月は引かれていたものだった。それから伊月はその道を通るように鳴った。
―――やばい、遅くなった。
その日は学校に居残っていたため、日が落ちる頃に帰り道を急いでいた。
いつものように金木犀の傍を通る。
そこで、ふと目が奪われた。
黒々としたアスファルトに、何かの跡の様に散った金木犀。
それは夜空に散った星屑の様だ。夜でも誘うような甘い香りが芳しい。その群集の中で。彼女はいた。
初めて彼女、岬にあった時、男の子のようだ、と伊月は思った。
年の頃は自分と同じくらい。顔の輪郭に合わせて切りそろえられた艶やかな黒髪。白いかんばせにはそばかすが散っていて、健康なんだか不健康なんだか見た目ではわからない。そして人形の様に整った容貌だった。
「あなたはだあれ?」
伊月の視線に気がついた少女は口を開いた。その声のなんと凛としたこと!
「ぼ、僕は……」
思いの外どもってしまう。声を掛けられるまで、伊月はぼうぅとしていたのだ。少女の美しさに魅せられて。
ふふ、と笑い、少女は岬、とは名乗った。笑った顔がやけに不釣り合いだ。しかしそれは印象に残った。広めの裾がひらひらと動く。甘い風と泳いでいく。降り出した霧雨と絡んで匂いはいっそう強まった。岬はつい最近越してきたばかりだという。風変わりな女の子だった。
「それが僕と岬の出会いでした」
「いいねぇ、その甘い感じ。おじちゃんには到底望むべくもない展開だわ」
いやぁ若いっていいわぁ、と駅員は言った。伊月は苦笑を漏らす。
彼女は金木犀を連れてやってきた。僕にとって金木犀とはつまり、彼女を指すものだった。そうしてあの子を知ってから、あの子の周りをずっと見てきた。岬は伊月の世界そのものになった。
転校してきた彼女は学校の中で浮いた存在だった。学校とは、家庭の次に大きいコミュニティを指す。そして、そこは少ない人生を生きている子供にとって、世界そのものだった。
容姿も立ち振る舞いも、岬はこの町には似つかわしくない。孤立しているのに、いっそ気高い。当時、氷の女王だと言ったのは誰だったろうか。
誰も彼女には近づかなかった。それが彼女の気高さをより高めた。近くにいたのは、僕だけだった。
岬がこの町に来て三年程経った頃、僕たちは中学生だった。
行かなくちゃ、と彼女は言った。
学校の放課後、夜に近い夕暮れの中電車を待つ寂しげなホームには、伊月と岬しかいなかった。茜空には今日の一日を押し流すように雲が音を鳴らしながら動いている。月が綺麗に丸い日だった。
薄暮の刻の薄い月光は、彼女の髪を照らす。そしてそれはきらきらと銀色に輝いた。
彼女は唐突とそれだけを言い、理由は一つとして言わなかった。どこへ、と伊月は問うた。どこかへ、と岬は答えた。
彼女の両親が離婚したのだと、後になって風の噂で知った。彼女が虐待を受けていたということも、そこで知った。
彼女はいつも傷が絶えなかった。袖からちらりと覗く日焼けを知らぬ肌には引っ掻いた跡、何かをぶつけた痣があった。私は怪我しやすいの、とだけ言って、いつも周りの大人たちの言及を退けていた。それが他者からなのか、さえ曖昧にして。
「見たいものを見るために、私は行くのさ。なんたって、女の子は旅人なんだから」
蓮っ葉な口調の彼女の瞳は、月の灯りの様に輝いていた。それが希望に満ちてのものなのか、哀しみに暮れてのものなのかは伊月には判別がつかなかった。ただ、この町を出ていく、という意思は確固たるものであることだけは理解できた。
彼女はもうすぐいなくなる。僕を置いて、いなくなる。
後から思えば、彼女は既に引き取られる親が決まっていて、行き先を知らされていなかったのかもしれなかった。突然やってきて、また、突然いなくなる。それは彼女にとって親は絶対の存在であることの証左だった。彼女は何でもないようなふりをして、せめてもの抵抗に平気であると取り繕っているだけだった。でも仕方なかった。この時の僕たちはまだ中学生だった。何も出来ない、子供だった。
本当のことを言えば、伊月は岬が自分の事を少しだけ心を許してくれていると思っていた。秘密基地を教えてくれたこともそう。他にはない、特別なんだって勝手に信じていた。
「あの時の僕は彼女を引き留めることができなかった。それは僕が臆病者であったからだし、僕なりの大事なものの守り方でもあったんです。彼女の心を害さない。彼女にとって友人とも、ただの同級生ともいえる関係は、いざとなったら彼女の言い訳に使えるから。いや、ただ僕が傷つきたくなかっただけだった」
うまい言葉のかけ方なんて知らなかった。今も正直わからない。伊月の心は岬と出会って別れたあの時のまま、時間を止めている。
岬は誰も知らないところで泣いているような人だった。自分を置いてけぼりにするのがうまくて、いつも頼りなく荒野で風に吹かれているような人だった。
だから、本当に何処かへ行きたかったんだと思う。自分の知らないところ。自分を知っている人がいないところ。もしかしたら僕がいないところ。
いつの間にか間の缶の中身はなくなっていた。駅員の方も、帰り支度を始めてしまっている。昔話は終わりかと、伊月も変える用意を始めた。明日も、今日と変わらぬ日常だ。
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