#9

 夏休みも残り半月を過ぎた、とある日の昼下がり。

 その高校三年生、如月皐月は、職員室のソファーに寝そべり、高校野球の中継を観ていた。斜め向かいには成美もいる。

「打ったー! 大きい、入るか……入ったー!」

「おおー」

「やるなぁ」

 テレビでは四番打者の見事なホームラン。二人して間抜けな声をあげる。

「お前ら、いい加減に帰れよ」

 その後ろで書類仕事をしていた担任が毒づく。

 二人は隣町にある工業高校の金属材料科に進学した。熱処理による金属組織の変遷を観察したり、FRP(繊維強化プラスチック)を使って工作をしたり、はたまた溶接や旋盤をしたり、簡単な電気回路を組み立てたり、簡単なプログラミングをしたり。幅広い分野の実習をやってきている。

 夏休みにも関わらず、二人がここにいる理由。それは、おおよそ一ヵ月後に控えた就職試験の面接の練習のためだ。県外就職組は夏休みでも週に一度、こうして練習を行っている。他の四人はもう帰っており、残っているのは皐月と成美だけ。

「しゃーない、腹減ったし、帰るかなー」

「おう、帰れ帰れ」

 担任から追い出されるかのように、上履き代わりの安全靴を履いて職員室から出る。今は真夏。エアコンが効いた部屋から出るのは気が引ける。校舎の中はまだいいが、外に出たらどうなることやら。

 この学校には各学科に一つずつ実習棟があり、二人がいたのは金属材料棟の二階にある職員室。一階に降りて、靴箱で安全靴から下足に履き替える。普段は上履きのスリッパから安全靴に履き替える場所であるが、今日は夏休みに出てきている。いちいち下駄箱に寄ってスリッパを履いてくるのも面倒ということで、直接下足から安全靴に履き替えていたのだ。

 外に出てみれば、真夏の熱気。

「うっわ……」

「クソ暑ぃな……」

 二人して顔をしかめる。皐月はカッターシャツの第二ボタンを開け、裾をズボンから出す。成美も似たような格好で、彼はズボンの裾も折り曲げている。

 実習棟の前にある二輪車置き場。そこには何台かの自転車と原付がある。この学校は校区が広く、公共交通機関も未発達なので、遠方の生徒には原付通学が許可されている。そんな訳で、二人は原付通学だ。成美は白いスクーター、皐月は類人猿めいた名前をした緑色の小さなバイク。父の友人のお下がりだ。

「なるちゃん、飯どうするよ」

「そーだな、ヤクザラーメンでも寄って帰るか」

 フルフェイスのヘルメットを被りながら、昼食の相談。近所の児童公園の前にある古いラーメン屋だ。店主の人相が悪いせいか、ヤクザがやっているという噂があり、本来の名前である宝来軒(ほうらいけん)と呼ぶ人は少ない。店主の左手の人差し指が欠けているのもそれを助長している―実際のところはかつて機械に挟まれて潰れたのだが―。

 農道を抜けて、辛木市に続いている県道へ。児童公園までは二十分ほどだ。県道の周りは一面の田園風景。交通量もさほど多くなく、長閑な風景だ。走っている間は気持ちいい。信号で停まったら熱気に襲われるが。

 辛木市に入ると、徐々に建物が増えてくる。小学生の頃に比べれば、ちょっとだけ発展している。家電量販店、ホームセンター、回転寿司。カーディーラーにパチンコ屋。インターチェンジの近所にはビジネスホテル。三、四年前は田んぼしかなかった地域であるが、これだけの店が建てられている。

 その代わり、アーケードにはシャッターが増えた。小学生の頃によくたむろしていたしのみやも、店主の隠居によって、四年前に閉店してしまった。

 宝来軒の前に原付を停め、店に入る。エアコンがないので、入り口は開けっ放し。時刻は十三時過ぎ。カウンターの他にはテーブルが二つだけの小さな店であるが、店内はガラガラだ。扇風機の風が当たるカウンター席を陣取る。

「学生ラーメンとライスで」

「俺も」

「あいよ」

 学生ラーメン四百八十円。普通のラーメンと同じ値段でありながら、麺が大盛りになっている。その代わり、チャーシューは切れ端の小さなものだが。

「あ、モテないブラザーズだ」

 聞き覚えのある声。振り返ってみれば、そこには私服姿の千歳と深雪。彼女達は市内の普通高校に進学している。ここらの公立高校の中ではレベルの高い進学校だ。会うのは久々である。

「なんだよ、モテないシスターズ」

 モテないブラザーズと、モテないシスターズ。中学の頃に呼び合っていたやつだ。その名で呼び合うのは久々のことである。もっとも、高校の友人内で自虐的に自称してはいたが。

「もー、そんなカッコしてたら輩みたいだよ。どうしたの? 補習?」

「こんな時期に補習があるかよ。就職試験の、面接の練習」

 千歳と深雪はテーブルに座った。

「へー、二人とも就職なんだ」

「まーな。工業から大学行ってもしゃあない」

 正直、学力に自信はない。一応、クラスの中では上の下といったレベルではあるが、あくまで工業高校のそれである。試験片をヤスリで磨いたり、材料にくっついた溶接棒を外すのは得意だが、それが進学に役立つわけがない。

「ってか女子高生が夏休みの昼からヤクザラーメンて。そりゃモテねぇわ」

「いいでしょ、美味しいんだから。ねー大将。あ、ラーメンとワンタンメンで。あとギョーザ一人前」

「褒めてもサービスしねぇよ」

「ケチー」

「あいよ、学生ラーメンとライス二つ」

 テーブルにラーメンと小ライスが置かれる。豚骨ラーメンだ。いつものように胡椒と摺り胡麻を入れ、紅しょうがを載せて、麺をすする。いつもどおりの安定した味。

「二人とも、まだモテないブラザーズ続けてるの?」

 待ち時間が暇なのか、深雪がこちらに話しかけてきた。千歳も読んでいた青年誌を閉じた。

「続けたくはねぇけどな」

「エド君が抜けてからずっとなんだー。悲しいねぇ」

 中学二年までは洋一も含めたトリオであったが、洋一が修学旅行で彼女を作ってしまい、コンビになってしまった。彼女に気を使って遊びに誘いにくくなってしまったことに加え、洋一は普通高校に進学したので、ちょっとだけ付き合いが薄れてしまっている。

 モテないブラザーズと自虐しているが、成美は背が高いし、坊主頭もよく似合っている。見た目は爽やかなスポーツマンであるが、どうにも女性には縁がないらしい。

 皐月自身は、彼女が欲しいと思ったことはない。

 心の中にずっと、一人の女性が残っているから。

 初恋の人。年上で綺麗な人。

 小学生の頃の初恋を忘れられないなんて、笑い話にもなりやしない。

「お前らこそ、鉄人が抜けてからずっとシスターズなんだろ」

 千歳達も中学二年まではあおばを含めたトリオであったが、あおばが修学旅行で彼氏を作ってしまい、それからはコンビになってしまったそうだ。

「ふんだ、あたしの彼女はちーちゃんだもーん。ねー」

「えぇ……」

「もう、そこはノッてよ!」

「あはは、私とみゆはお互いの心の隙間を埋め合う愛人関係みたいなものだから」

「愛人ってなぁ」

 話しながらだとラーメンがのびてしまう。ちょっとだけペースを上げようと思った矢先、千歳達のラーメンも出てきた。雑談は終わり。食事、食事。


「ごちそうさまー」

 代金を払い、外に出る。原付の横には自転車が二台。千歳達は自転車で来ていたようだ。

「じゃあキサ坊、俺、バイトあるから」

「お、がんばれ。後でガソリン入れに行くわ」

 成美は近所のガソリンスタンドでアルバイトをしている。彼がいる時間に行けば、タンクのギリギリまでガソリンを入れてくれる。団地からも近いし、ガソリンも安いし、成美抜きにしてもよく利用しているガソリンスタンドだ。

「じゃあなー」

 成美は一足先にヘルメットを被り、走り去っていった。団地とは違う方向。彼は二年前に市内のマンションに引っ越している。千歳も一軒家に引っ越したので、団地に残っているのは自分だけ。ただ、父に転職の話―知り合いの整備士が月野の近くで独立するらしい―が持ち上がっているそうなので、皐月が高校を卒業し、就職して家を出たら、父は月野の実家に戻るみたいだ。すでに就職している弥生も、そのタイミングで家を出るらしい。弥生が就職してからは、彼女の帰りが遅くなることも多々あるので、簡単な料理なら作れるようになった。作れるのは野菜炒めやカレー程度だが、インスタントラーメンしか作れないよりはましだ。

「あ、井上君、行っちゃったんだ」

 千歳達が店から出てくる。

「バイトがあるんだって」

「へー。どこでバイトしてるの?」

「消防署のとこのガソリンスタンド」

「ああ、あそこ。あたしも原チャリ乗ってるけど、顔なじみだからって安くしてくんないかな」

「ガソリンは無理だろ」

「あ、さっちゃん、ちょっと」

 ヘルメットを被ろうとしていると、児童公園のほうから千歳が手招きしてくる。

「何だ?」

「ちょっと、秘密のお話があって」

「あ、秘密の会話! 略して密会!!」

「変な略し方すんな!」

 深雪をあしらいながらヘルメットを脱いで、児童公園へ。

「どうしたんだよ、急に」

「さっちゃん、本当にモテないだけなの?」

「悲しくなるようなこと言うなよ。普通にモテねぇから」

「そうかな。さっちゃん、結構イケてると思うよ?」

「なんだ急に、気味悪い。褒めても何も出ねぇぞ」

 千歳の表情は真剣だ。冗談ではないらしい。

「あのときのこと、引きずってるんじゃないの?」

 あのときのこと。

 六年前の夏のこと。

 初恋の女性のこと。

「何言ってんだよ。そんな昔のこと……」

 忘れてしまうべきなのだろう。だけど、あんなの、忘れられるわけがない。

 そして、約束をしてしまったのだ。我ながら、馬鹿げた約束を。

「ふふ、顔に出てるよ。嘘が下手だね、さっちゃん」

 深刻そうな顔をしてしまっていたようだ。千歳はくすくすと笑うと、公園の出口に向かって歩いた。そこで振り返る。

「でも、さっちゃんのそういうところは好きだな」

 突然の台詞に少しぽかんとする。急に何を言い出すのやら、この女は。

「それだけかよ、千代田」

「それだけ。確認、しときたかったんだ」

 何の確認なのか。それを聞こうとする前に、千歳は公園を出て行った。彼女の後を追うように公園から出ると、千歳と深雪はもう自転車に乗っていた。

「じゃ、キサ君、またねー」

「就職、がんばって。決まったら教えてね。お祝い、してあげるから」

「ん、おう。期待しとくわ」

 二人は手を振ると、走り去っていった。一人残された皐月も、帰るべくヘルメットを被る。エンジンをかけて、ギアを繋いで。向かったのは北側。自宅とは違う方向。

 大角山の方向。

 なぜかはわからない。だが、自然とそちらへ向かっていた。




 六年前。




 皐月と霞は軒先に二人で座っていた。秋の風が心地よい。なんだかお互いに話を切り出しにくくて、ちょっと気まずい沈黙が場を覆う。

「……遅いのう、千歳達」

 口を開いたのは霞のほう。

「新月さんと一緒に買出しに行くんだって。巻雲さんも一緒だと思う」

「そうか。……しかし、皐月よ」

「ん?」

 霞がこちらを値踏みするように見つめてくる。そんなふうにじろじろ見られるのは恥ずかしいってば。

「今日はずいぶんとめかしこんできたのじゃな。似合うておるぞ」

「そ、そうかな?」

 どうやら変な格好じゃなかったようだ。姉には感謝。

「霞さんも、着物姿なの、なんだか久しぶりな気がする」

「そうじゃな。最近は洋服ばかり着ておったからのう」

「なんていうか、その」

 霞の服装で一番印象深いのはこの着物姿だ。初対面のときに着ていたからというのもあるが、お姫様めいた古風な美しさを持つ霞にはよく似合っていると思う。

「オレは、その着物が、一番、好き、かな」

 いつもなら恥ずかしくて言えなかったであろう言葉だ。だけど、今日でお別れだというのなら、思ったことは全部伝えておこう。

「そ、そうか? ……この服でよかったのう」

 霞が嬉しそうに微笑んだ。綺麗で、可愛らしい笑顔。見納めかもしれない。しっかりと目に焼き付けよう。

「……そ、そうじろじろと見るでない! 恥ずかしいじゃろう!」

 霞は照れ笑いを浮かべ、こちらをぺちぺちと叩いてくる。

 ああ、かわいいなぁ。

 だけど、これが最後。今日が最後。

「……皐月、泣いておるのか?」

 自然と涙が出ていた。いけない、こんな顔をしちゃ。最後の最後に、こんな顔をしちゃ。目尻を拭い、笑顔を浮かべる。

「ううん、なんでもないよ!」

 どう見ても強がりだ。それは霞もすぐに理解したようで、くすりと笑った。

「無理せずともよい。……皐月の笑顔を見ることができれば、わしはそれで満足じゃよ」

 霞がそっと、手をつないでくる。ひんやりした手。すべすべした手。

「……のう、皐月。わしは……」

「いたーッ!!」

 霞の言葉を遮るように、女の声がした。

 目の前には、カメラを持った大学生ぐらいの女がいた。


 大角山に向かう県道。そこを走る新月の車の中には、千歳と巻雲も乗っていた。助手席に巻雲、後部座席には千歳。千歳の隣にはディスカウントストアで買ってきたお菓子とジュース。

 BGMはアイドルソング。もう少しで大角山。

「……二月クンには、悪いことをしちゃったっすね」

 新月が口を開いた。

「お、おい、新月」

「千代ちゃんには、ホントのこと、言っとくっす」

「ホントのこと?」

「二月クン、霞さんが引っ越さなきゃならない理由、何て言ってたっすか?」

「え、それは……見つかったから、って……」

「そうっすよね。そう言いますよね」

 妙に気まずい沈黙。場違いなほどに明るいアイドルソング。妙な空間だ。車は大角山へと続く林道に入った。

「それは嘘っす。二月クンが嘘をついてる訳じゃないっすよ。霞さんが、嘘をついたんす」

「え!? ええっ!?」

 霞は嘘をつくような人だとは思えない。それも、皐月から離れるような嘘を。

「そして、それを勧めたのは――」

「新月!」

 巻雲が新月の言葉を遮った。

「何すか。マッキーも言ってたじゃないっすか。嘘を重ねてもしょうがないって」

「違うよ! アレ見ろ、アレ!」

「ん?」

 巻雲が指差した先。そこには一台のバイクがあった。ナンバープレートはここらのものとは違う。よそ者のバイクか。それがここに停まっているということは、ひょっとして。

「……話は後っすね。嘘から出たまことって言葉、知ってますか?」

 新月は答えを聞かずに車を停めて、外に出た。巻雲も続く。千歳もそれに続いた。

 嘘から出たまこと。

 この言葉が意味するもの。それは。

 確かに言えることは、霞が危ない、ということ。そして、皐月も。

 新月と巻雲、そして自分も、階段を駆け上がっていった。


「ホントに蛇女がいるなんて思わなかった! こんなとこまで来たかいがあったってものだわ!」

 女は嬉しそうにカメラを構え、霞の写真を撮る。

「ちょ、やめろよ!」

 皐月は霞を隠すように動き回るが、女はそれでもお構い無しだ。シャッター音が何度も響く。

「あーもう、邪魔だよ! どいたどいた!」

「誰がどくもんか! 何がジャマだよ!」

 女は顔をしかめると、カメラを下ろす。

「あのさぁ、私は彼女だけが目当てなの。キミの写真撮ってもしょうがないのよ」

「……彼女、嫌がってるだろ。写真撮って、どうするんだよ」

「決まってるじゃない。テレビ局でも、雑誌でも、新聞でも、こんな蛇女の写真、放っとくわけがないじゃない。それも美人ときた。一躍大儲けよ」

 やっぱり。そんな、金目的で、霞を嫌がらせるなんて、見過ごせるわけがない。

「いい値段がついたら、キミにもわけてあげるから。ね、どいて」

「そんな話聞かされて、なおさらどけるわけがないだろッ!!」

「何よ、もう! アンタに何の関係があるっていうのよ!」

「関係あるッ!!」

 霞の顔をちらりと見る。不安そうな、怯えているような顔。霞のそんな顔、見たくない。

「好きな人が嫌がってる姿を、黙って見てられる訳がないだろッ!!」

「好きな人? 好きな人って、この、蛇女?」

 女は少しだけぽかんとした表情を浮かべると、すぐに笑い出した。

「え、本気で言ってるの? 蛇女だよ、彼女。あはは、ないわ! ない!」

 大笑いしている女を見ていると、本気でむかついてきた。なんで笑われないといけないんだ。それも、赤の他人から。

 手が出そうになった瞬間、女が吹き飛んだ。慌てて横を見てみると、そこには霞がいた。眉を吊り上げて、顔は赤い。怒っている表情。尻尾が前にある。ひょっとして、尻尾で殴ったのか。

「い、た……」

 女は倒れたままうめき声を出すだけで、なかなか起き上がらない。あれだけの太さがある尻尾だ。相当な力なのだろう。

 霞は肩を怒らせたまま、大声を出した。

「好きな男が笑われておる姿を、黙って見ておれる訳がなかろうッ!!」

 聞いたことのない声色。本当に怒っている。

 というか、今、好きな男、って言ったのか。

 好きな男、と。

「二月ッ! 何ボーっとしてんのよ! カメラ拾え、カメラ!!」

 巻雲の声で我に帰る。とっさに女のほうを向いてみると、巻雲の言うとおり、カメラを落としていた。すかさず拾う。

「あ、あんた、何、人のを……」

「勝手に写真を撮った奴が言う台詞か、それ」

 女の前には、蜘蛛女の姿に戻った巻雲がいた。その後ろにはハーピーの姿に戻った新月。

「ひっ……」

「何ビビッてんのよ。アンタが見たかったのは、こういうのでしょーが」

「二月クン、フィルムのところ開けて、中身出しちゃってください。そうすればフィルム、ダメになるっすよ」

 カメラの背面にあるであろうオープンボタンを探して、フィルムの装填部を開ける、そして、フィルムを一気に引っ張り出した。

「あっ! 私のフィルム……」

「あぁ!?」

 巻雲の声には、まるでヤンキーのような迫力がある。上背こそ小さいが、その迫力は確かなものがある。横から見ているだけでも少し怖い。彼女を本気で怒らせるとこうなるのか。初対面のとき、あまり調子に乗らないでよかった。

「アタシはね、ダチが嫌がってるってのに写真撮りやがったバカが許せないのよ。それ以上ナメた口聞くと、ぶっ殺すよ」

 巻雲の指は外骨格のような爪と化している。前は普通の指だったと思うのだが、これが彼女の本当の姿なのだろうか。

「まぁまぁ。……貴女は、ここで何も見ていません。いいっすね?」

 新月の口調は穏やかだが、目は真剣そのものだ。爪先にある鋭い爪を見せびらかすような動きをしている。

 女は身の危険を感じたのか、何度も頷くと、すぐに階段へと駆け寄った。

「待てよ、忘れ物!」

 持っていてもしょうがない。皐月はフィルムを抜いたカメラを女に向かって投げ渡す。女はそれを受け取ると、凄い勢いで階段を下りていった。

「ふん、いい気味だわ」

「さっちゃん、霞さん、大丈夫?」

 心配そうな表情の千歳がおずおずと顔を出した。

「別に、なんともないよ」

「……わしも大丈夫じゃ」

「災難だったっすね。それにしても……二月クン、聞こえてたっすよ」

 新月がくすくすと笑う。巻雲もにやりと笑った。千歳も顔を赤くした。

 聞こえてたって、ひょっとして。

 好きな人ってくだりか。

「な、何の話だよ!」

「とぼけちゃって。ねぇ霞さん?」

「な、な、な、何の話じゃ!」

 霞の顔は真っ赤だ。きっと自分もそうなのだろう。だって言われたのだから。

 好きな人から、好きな男、と。

「ま、邪魔しちゃ悪いわね。新月、千代田、行くよ」

「はいはーい」

「さっちゃん、また後でね」

 巻雲達は手を振って、階段を下りていった。残されたのは皐月と霞。

 こんな騒動があった以上、霞がここに残るわけにはいかないだろう。前にもあったと言ってたし、二度あることは三度あるとも言う。一縷の望みが絶たれてしまった。

「……その、霞さん」

 あんまり長い間黙っておくのもまずいと思うので、すぐに話を切り出す。

「……うん?」

「さっきの、言葉、だけど」

「……うむ」

「本気、だから」

 先程言った言葉。好きな人が嫌がっている姿を黙って見てられる訳がないという言葉。それに嘘偽りはない。本気でそう思っているから、とっさに出てきた言葉。

「……どの言葉が、本気、なのかの?」

 霞はくすりと笑うと、こちらの目を覗き込んでくる。金色の綺麗な瞳。どきりとする。

 ああ、これ、言わせようとしているな。期待しているな。

 望むところだ。

「……好きな人、って言葉」

「……わしも、本気じゃぞ」

「……どの言葉?」

「好きな男、という言葉じゃ!!」

 霞がこちらを抱き締めてくる。突然のことに、心臓が口から飛び出そうになった。寿命が縮まった気がする。頭がぼーっとしそうな、いい匂いがした。

「ああ、そうじゃ……。ずっと、ずっとこうしたかったのじゃ……」

 霞の声はうっとりとしている。彼女の表情は恍惚としている。色気の漂う、妖艶な表情。

「花火を見た日から、わしのことを『友達』と言うてくれたあの日から、ずっと、ずっと……!」

 気付かなかっただけで、自分もきっとそう思っていたのだろう。霞に抱いていた感情は、あのときからずっと、好きだという感情なのだろう。

 霞の手に込められた力が弱まった。ほどなくして、抱き締められていた体勢から解放される。なんだか残念な気持ち。もっと抱き締められていたかった。

 だが、霞の行動は、こちらの予想の上を行った。

「……じっとしておれ。良いな?」

 頷きで返答。

 すると、霞はこちらに巻きついてくる。霞の鱗はひんやりとしていて、すべすべとしていて。霞の体温がすぐ側に感じられた。

 胸まで完全に巻きつかれ、身動きが取れなくなった。不思議と痛くはなかった。

「……皐月。わしは、そなたのことが好きじゃ。今まで生きてきた中で、一番……」

「……オレも、だよ。オレも、霞さんのことが、一番好き」

 最後かもしれない。言おうと思っていたこと、全部言ってしまおう。恥ずかしいとか、そんなのは関係ない。自分の気持ちを全部、伝えきらないと。

「霞さんが、蛇の体だとか、そんなのは関係ない。霞さんが人間だったとしても、鳥だったとしても、蜘蛛だったとしても、オレはきっと、霞さんのことを、好きになったと思う」

 霞の目尻に光るものが見えた。

「……オレも、ずっと、ずっと、こうしてたい。霞さんと離れたくない。だけど、だけど……」

「……皆まで言わずともよい。そう思ってくれるだけで十分じゃ。このようなことが、また起こらぬとも限らぬからな。……よい思い出になった。このことを思い出すだけで、わしはきっと、ずっと、笑顔でおれると思うぞ」

 霞は涙混じりの声で、こちらを抱き締めたまま、頭を撫でてきた。

 笑顔でいれる。嬉しい言葉だ。だけど、伝えておきたい言葉は、もう一つある。

「……約束する」

「……約束?」

「オレは、霞さんのことを、ずっと、ずっと、いつまでも、好きでいるから」

 今の嘘偽りのない気持ち。本心からの気持ち。一番伝えておきたかった言葉。

「……そなたは、本当に……。そのような約束、せずともよいのに……」

 言葉とは裏腹に、霞の声は嬉しそうだった。

「……これは、夢じゃよ。秋空の下の、白昼夢」

 霞はこちらの頬に手を添えて、上を向かせて目を合わせる。

「夢で交わした約束など、果たす必要はない。そなたが誰を好きになろうと構わぬ」

 霞が目を閉じたので、こちらも目を瞑る。

「……そう、これは夢じゃよ……」

 二人の顔が、影で重なる。

 なんだか体が熱くなって、頭の芯がぼーっとしてきて、何も考えられなくなって。

 霞の涙が、皐月の頬を伝って落ちた。

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