#7
「運動会、っすか?」
その日、いつものように霞のところを訪れていた新月だったが、霞から思いがけぬ言葉を聞いた。
「うむ。月末の日曜日にやるそうじゃ」
「それ、二月クンから聞いたんすかー?」
「いや。千歳といったか。皐月の友人からじゃよ。応援してあげれば、皐月も喜ぶじゃろうて」
「ふーむ」
どうやら皐月以外の付き合いもできたらしい。ちょっと気をつけたほうが良さそうな展開になってきた。
「わし一人というのも何じゃし、そなたも付き合わぬか?」
「二月クンを応援するのは決定なんすね?」
「友人を応援するのは当たり前じゃろう!」
友人、ねぇ。鈍感というか、なんというか。霞の態度を見ていれば、彼女が皐月に抱いている感情なんか、すぐにわかる。
「まぁ、いいっすよ。小学校の運動会とあらば、行かざるを得ないっす!」
「……そういえば、そなた……」
「別に年下趣味なんかないっすよ! ただ十二歳ぐらいの男の子の、半ズボンからすらりと伸びた脚がたまらなく好きなだけっす!」
「うわぁ……」
霞は眉根を寄せ、後ずさった。引かれるのは慣れている。自覚もしている。
自分の性癖のこともあるし、霞が運動会に行くというのなら、ついて行こう。霞を人ごみで一人にしておくのは不安だ。彼女に悪い虫が寄らないとも限らない。
「そういえば、その、ちとせちゃん、でしたっけ。二月クンの友達。どんな子っすか?」
「どんな子と言われてもな……。まだ一度しか会うてないし……。まぁ、可愛らしい女子じゃよ。幼馴染と言っておったな」
「へー。二月クンも隅に置けないんすねぇ」
皐月の幼馴染か。運動会の観戦を勧めてくるあたり、皐月よりは気が回るのだろう。
要チェック。新月は脳内でシャープペンをノックした。
その日、皐月たちは放課後に小学校の運動場へと集まっていた。集まっているのは皐月たちだけでなく、この学校の校区である上四日町と下四日町に住んでいる小学生全員だ。だいたい三十人前後だろうか。皐月と同じ六年生といえば、成美と洋一、それに千歳。あとは名前を知らない他のクラスの女子が二人。
集まっているのは上下四日町の生徒だけでなく、他の校区の生徒もそれぞれ校区別に集まっている。
集まっている理由は、運動会で行われる地区対抗リレーの選手決め。勝敗には関係のない余興の一つであるが、子供よりも両親がムキになるタイプの競技であり、選手選考もこのように実技で決めることになっている校区がほとんどのようだ。
地区対抗リレーは十二個の校区を六つにまとめたのち、各学年より一人ずつ選手を出す形になっている。一年生と二年生はトラックを四分の一周、三年生と四年生はトラック半周、五年生と六年生がトラック一周を走ることになっている。すでに五年生までの選手は決まり、残るは六年生だけ。
「キサ坊、エドワード、ドベが一位にアイス一本おごりな!」
「それ、なるちゃん有利でしょ。ねぇ、キサ君?」
「いーや、オレだって負ける気がしないね!」
アイスを賭けて、三人スタートラインに横並び。その横に女子も並んだ。走るのと泳ぐのには自信がある。アイス一本、もらった。
「位置についてー、よーい、ドン!」
保護者の合図で、一斉にスタート。アイスを賭けてきただけあって、さすがに成美は速い。だが、こっちだって負けちゃいない。いい勝負。
五十メートルを駆け抜けて、ゴール。少し遅れて、成美もゴール。洋一と千歳が同じぐらいにゴール。
「はー、くそ、キサ坊速いじゃねーか」
「へへーん、どんなもんだい」
息を整えながらVサイン。休み時間や放課後に蹴り野球やつき鬼はやってきたが、こうやって真剣に走るのは今日が初めてだ。アイス一本、いただき。
「じゃあ、リレーの選手は如月君でいい?」
「はーい」
「意義なーし」
そして、満場一致でリレーの選手を押し付けられた。まさかこれが嫌で手を抜いたとか、ないよなぁ。アイスを賭けていたから、それはないか。
「じゃ、如月君、よろしく。また来週、練習するからね」
「……はーい」
うわ、面倒だ。これ、やっぱり成美は手を抜いたんじゃないだろうか。
「じゃあ、選手も全員決まったことだし、これにて解散」
保護者の号令で、今日は解散。集まっていた生徒達は、そのまま校庭で遊ぶ者もいれば、帰る者もいる。他の校区の冷やかしに行く者も。
「はー、疲れた。みんなお疲れ様。じゃ、帰ろっか」
「待てエドワード。アイス」
「……自然にごまかしたつもりだったんだけどなぁ」
「どこがだ」
「よっしゃー、しのみや寄って帰ろうぜー」
成美と洋一について行くように、自転車置き場に向かう。すると、千歳が声をかけてきた。
「さっちゃん、おめでとう」
「めでたくないよ」
「めでたいよー。霞さんに、いいとこ見せるチャンスだよ?」
千歳のひそひそ声。思わず吹き出す。
「霞さん、運動会見に来るわけないだろ」
「わかんないよ? あ、日時は私が伝えておきました」
「……余計なコトを……」
「うふふ、千代田千歳はおせっかい焼きなのだ」
千歳はいたずらっぽくウィンクすると、女子の集まりのほうに向かっていった。っていうか霞に運動会の日時を教えるとか、あの後、霞のところを訪れたのだろうか。
霞が見に来るのなら、それはたしかにいい所を見せたくなるが、また面倒なことになりそうな気もする。新月とかはしゃぎそうだ。
それはそれで、楽しみであるが。
千歳は同じ団地の女子と何度か会話を交わした後、お使いを頼まれていたので、学校の近所のスーパーに向かう。同じ団地に住んでこそいるが、彼女達とはそこまで仲が良いわけではない。ちょっと性格が合わないというのもあるし、クラスがずっと違っていたのもある。
頼まれていたぶんのマカロニとホワイトソースを買う。お釣りは小遣いにしていいとのことなので、好物である柿の種を買って帰る。乾き物は昔からの好物だ。変わっているとはよく言われる。自分でもそう思う。
「あ、千代田さん? 千代田千歳さん、っすよね?」
自転車に乗ろうとしたところ、見知らぬ女性に声をかけられた。黒いショートヘアの、スレンダーな女性。童顔である。
「あ、は、はい。……あの、どなた、ですか?」
「あ、自己紹介が遅れたっすね。私、新月っていいます。霞さんの友達、って言えば、わかりますかね?」
霞の友人? ということは、彼女もひょっとして蛇女か何かなのだろうか。今は普通の姿だが、人間に化けている、みたいな。
「は、はい。大体は……」
「ちょっとだけ時間、いいっすか? 大丈夫っす、すぐ終わる話っす」
新月はにこやかだ。その表情からは悪意は感じない。霞の友人というのなら、信用していいだろう。
「は、はい。少しなら……」
「じゃあついて来てくださいっす」
新月が歩き出したので、彼女の後を追うように自転車を押して歩く。スーパーの前にある国道を渡り、アーケードを横切る。この辺りは人通りの少ない裏路地だ。
「じゃあ、まずは自己紹介っすね」
「自己紹介って、さっき……」
「こういうことっすよ」
新月はその場でくるりと一回転。煙が周囲を覆ったと思ったら、そこから現れたのは腕が烏めいた黒い翼になっている新月の姿だった。
「……霞さんの友達、ってことで、察しは、ついてましたけど……」
まさかハーピーとは思わなかった。とはいえ、蛇女である霞と比べると、嫌悪感は少ない。
「そーっす。種類は違えど、霞さんは盟友っす」
新月がアピールするかのようにぱたぱたと翼を動かした。
「あの、新月、さん。空、飛べるんですか?」
新月の姿を見て、真っ先に気になったところだ。
「あー、昔は飛べたんすけどね。長いこと飛んでないんで、飛び方忘れちゃったんすよ。ニワトリと同じっすね。今は電線とか飛行機とか、物騒ですし」
「な、なるほど」
って、納得している場合ではない。新月の話とは何なのだろうか。
「……そ、それで、お話って……」
「あぁ、はい。霞さんのことっす」
「……はい」
「私達は人間とは異なる存在っす。だから、うまいこと人間社会に紛れるか、世捨て人としてひっそりと生きるか。どっちかにしとかないと、厄介なことになるんすよ」
厄介なこと。それは想像できる。社会に発信できる能力のない子供ならまだしも、大人が霞たちのような存在を見つけたら、待っているのは晒し者。それを防ごうとして、新月は前者を、霞は後者を選んだのだろう。
「霞さんは世捨て人として生きる道を選びました。実際、彼女は私たち以外とは付き合いのない生活を送っていました。今まではそれで上手くいってたんす」
「今までは、ですか」
「はい。千代田さんは二月クン……如月クンの幼馴染らしいっすね。なら知ってると思いますけど、霞さんに、二月クンっていう友達ができました。それはいいことっす」
「……そして、私も友達になりました」
「はい。いいことっす。いいことっすよ。でも、厄介な方向に進んでいることも確かっす」
「厄介な方向、ですか」
「二月クンは誰かに霞さんのことをバラすような子じゃないってことはわかってます。千代田さんもそうでしょう。でも、人の口に門は建てられません」
「……私のこと、疑ってるんですか?」
「そこまでは言ってないっす。……でも、私は霞さんのことを大切に思っています。だからこそ、彼女には嫌な思いをしてほしくないんす。霞さん、世間知らずっすからね。少なくとも、今のままで人目に触れるのはよくないことっす」
新月は釘を刺しに来たのだろう。あまり関わるな、と。おそらくは霞を運動会に誘ったことか。確かに時期尚早だったかもしれない。
「……私だって……」
だけど、自分の思いを、他人に変えられたくはない。
「友達に嫌な思いをさせたくはありません。だけど、応援はしたいんです」
新月はため息をついて、人間の姿に戻った。
「霞さん、周りの人に恵まれてますね。私もあやかりたいもんっす」
新月が苦笑する。その言い方だと、彼女は周りの人に恵まれなかったのだろうか。
「まぁいいっす。これ、私のケータイ番号っす。何かあったら電話してください」
「……私に、ですか?」
「はい。二月クンよりも、千代田さんのほうがいろいろ気付きそうっすから」
新月はくすりと笑い、十桁の電話番号が書かれたプロフィール用紙を渡してきた。電話番号以外の項目も、丸っこい可愛らしい字で埋められている。それと、前髪で目を隠した少女と一緒に写っているプリクラが貼られている。友達か妹だろうか。
「それにしてもあの二人、鈍いと思わないっすか?」
「あ、それは思います。あれ、絶対両想いでしょ」
「ですよねー! 応援したいって気持ち、それは本当にわかるっすよ!」
新月の口調は先程までとは異なる、軽いものに変わった。
「時間取らせて悪かったっすね。ジュース、おごりますよ」
「い、いえ。そんな、大丈夫です」
「いやいや、若い子に何かおごるの、好きっすから。遠慮せず」
そう言うのなら、言葉に甘えよう。
アーケードの中に戻り、パン屋の横にある自販機で、缶のミルクティーを買った。新月も同じものを買う。
「じゃ、私はこれで。また運動会で会いましょ」
「運動会、来るんですか?」
「来ちゃダメっすか? まぁ、霞さんの付き添いで」
霞は世間知らず、と言っていたので、順当な判断ではないだろうか。
「じゃあ、またお会いしましょー」
新月はこちらに手を振って、スーパーの方向に歩いていった。バスで来たのだろうか。それかスーパーの駐車場に車を置いているのか。
一人になったところで、新月に言われたことを考える。
厄介な方向に進んでいる。霞に皐月という友人ができ、自分も友人になった。これ以上友人が増えないという保証はない。そして、霞の存在、正体が広まらないという保証も。
新月の言うことは一理ある。友人として当然の反応だろう。ならば自分も、友人として霞を守らないと。
千歳は新月のプロフィール用紙に目を通し、財布の中にしまうのだった。
九月末の日曜日。本日は晴天に恵まれ、辛木小学校の運動会が開催されていた。
辛木小学校の運動会は、赤組対白組というシンプルなもの。皐月と成美、千歳は白組、洋一は赤組だ。
皐月が出る種目といえば、徒競走に綱引き、ダンス。それに組体操と騎馬戦。これらは六年生全員が出る種目。そして、先日決まった地区対抗リレー。それもアンカー。余興の一種とはいえ、若干のプレッシャーを感じる。
時刻は昼前。組体操と徒競走、それにダンスは終わった。徒競走は二着。まぁいい出来である。グラウンドでは昼休み前、最後の種目である教師による学年対抗リレーが行われていた。こちらも余興である。
「はー、キサ坊、早く終わんないかなぁ」
「だねー。腹減ったよ」
勝敗には関係ないし、張り切っている教師を見ていてもあまり面白いものではない。空腹も手伝って、全く興味が沸かない。
運動会自体、待機時間のほうが長いし、応援しようにも知っている子はほとんどいない。退屈なものだ。成美と時間潰しにやっていた○×ゲームはすでに五戦目を数えている。
そういえば、結局霞は来たのだろうか。応援席はグラウンドの外側。そこには地区別のテントが並んでおり、その向こう側までは見えない。
霞が着ているとしたら、徒競走ではいいところ見せられたかな。ちらりと上四日町のテントに目線をやる皐月であった。
「はぁ~、半ズボン、半ズボン、ブルマー、半ズボン! やっぱ運動会はいいっすねぇ……」
変態がいる。目を輝かせ、生き生きとグラウンドを見つめる新月。どう見ても変質者だ。人間に化けた霞は思わずため息をついた。久々の変身だが、うまくできて何よりだ。今日は着物ではなくワンピースを着ている。先日、皐月が褒めてくれたワンピース。
グラウンドの片隅に霞と新月はいた。グラウンドを囲むように建てられている、保護者のテントのさらに外側。周りには上り棒に雲梯といった遊具の他に土俵がある。テントに入りきれなかったのか、結構な数の保護者がブルーシートを広げて座っていた。
「二月クン、わかりました?」
「……いや、残念ながらようわからんかったな」
ここからではテントが邪魔して、グラウンドの様子はよくわからない。来てみたのはいいが、これではなんだか無駄足になりそうだ。
「これ、プログラムもらってきたんすけど、六年生が昼までにやる種目はもう終わっちゃってるみたいっすね。私達が来たときには終わってたみたいっす」
「新月が遅刻するからじゃぞ」
「文句はあのポンコツに言ってくださいっ!」
新月の車は十年以上使われているらしく、そろそろ故障が目立ち始めているそうだ。今日もエンジンがなかなかかからなかったそうで、約束の時間に遅れている。送ってもらった以上、文句は言えないが。
「巻雲も来ればよかったのにのう」
「ダメっすよ。マッキー来たら、生徒と間違えられちゃいますよ」
巻雲は小柄だ。小学生に混じっていても違和感はない。それは本人も自覚しているのか、すぐに断ってきたそうだ。
『それでは、ただいまよりお昼休みに入ります』
「あ、もうお昼らしいっすね」
「ふむ。皐月や千歳はこの辺りを通るかのう?」
「そればっかりはなんとも。……あ、でも二月クン達が住んでるとこのテント、近くにありますね。ひょっとしたら通るかもしれないっすよ」
「ではそれを期待するとしようかの」
「期待だけじゃなくて、攻めなきゃダメっすよ」
新月は簡単に言ってくれるが、きっと皐月は友人と一緒にいるだろう。そこに声をかけて、変な雰囲気になったりしないだろうか。
そうこうしているうちに、生徒が思い思いのテントやブルーシートに向かいだした。皐月の姿を求め、必死に目をこらす。新月も違った意味で目をこらしていた。
……見つけた。予想通り、友人らしき少年と一緒にいる。どうしようか。声、かけるべきだろうか。
いや、せっかく来たのだ。皐月を励まさずに帰っては、完全に無駄足となる。それはわざわざ送ってくれた新月にも悪い―たとえ彼女が少年の体操着姿目当てであっても―。
「……皐月ーっ!」
声を出し、手を振る。皐月もそれに気付いてくれたようだ。友人に待ってもらったようで、こちらに駆け寄ってくる。
「霞さん!? ……ちーちゃんから聞いてたけど、本当に来たんだ……」
「うむ。……迷惑じゃったか?」
皐月は頭を左右に振る。そして、視線がこちらの足元に向けられたのがわかった。そして、すぐに戻ったのもわかった。
「……お昼ご飯食べたら、またこっちに来るよ。お父さんとお姉ちゃんが待ってるから、また後でね」
「新月ちゃんもいますよー」
「うん、また」
「そっけないっすねー。もっと喜んでくださいよ! 美人が二人も応援に来たんすよ?」
皐月は苦笑いで返事をすると、友人のほうに戻っていった。なんと説明しているのだろうか。知り合いとして、だろうか。友人として、だと嬉しいが。
「二月クン、体操服似合ってますねー。いやー眼福眼福」
「連れて来ないほうがよかったかのう……」
「そんなことを言うならお昼は渡しませんよ!」
「いや、半分冗談じゃ」
「残り半分は本気ってことじゃないっすか!」
新月の興奮した表情を見ていると、不審者扱いされないか不安になってきた。
ともあれ、グラウンドの隅の花壇に腰かけ、コンビニで買ってきた弁当を食べるのだった。
皐月は弁当を食べ終えると、腹ごなしに横になっていた。朝、弥生は文句を言っていたが、弁当は手の込んだものだった。彼女は凝り性なところがあり、こういうときには助かる。
一緒に歩いていた成美には、霞のことを前の学校にいた頃に世話になった人だと説明しておいた。幸い、変な顔はされなかった。一安心である。
「さっちゃん、かけっこ二位だったわね」
「うん、そーだよ。凄いだろ」
「ダメね。ダメ男ねぇ。二番手で満足してどうすんのよ」
弥生が大きなため息をついた。いや、万年最下位のあんたには言われたくないから。その言葉は胸にしまっておく。
「そうだぞ。男なら一番を目指せ」
「はいはい」
缶ビール片手の父。どうやら歩いて来たようだ。
「さっちゃん、霞さん来てる?」
千歳が耳打ちしてきた。
「来てた。土俵のところにいたかな」
「おおー。やっぱり人間に化けたりしてた?」
「まぁね」
人間に化けた霞は、とんでもなく綺麗だった。また先日着ていた白いワンピース姿だ。綺麗だし、可愛いしで、思わず目を逸らしてしまった。
「へー。人間の霞さん、きっとキレイなんだろうなぁ」
千歳はこれ、何か言わせようとしている。スルーしよう。
「じゃあ、ちょっとオレ、トイレ行ってくる」
「はーい。トイレ、ねぇ」
千歳がくすくすと笑った。何、この弱みを握られている感。成美は昼寝、洋一は姿が見えない。他の地区の友達のところに行っているのだろうか。ともあれ、先程霞の姿を見かけた土俵のほうに向かう。すると、花壇の縁に腰かけている霞と新月の姿があった。二人ともコンビニの弁当とペットボトルのお茶を持っている。
「あ、霞さん。ご飯食べ終わった?」
「うむ。のり弁当じゃったが」
「新月ちゃん、お金ないんすよ。高い弁当はかんべんしてください」
新月がけらけらと笑った。
「オレ、かけっこと組体操とダンスやってたんだけど、見た?」
「いいや、ちと遅れてしもうてのう。残念じゃ」
霞は申し訳なさそうにしている。来てくれただけでなんだか嬉しいから、そんな顔、しないでほしい。
「大丈夫だよ。オレ、昼からは綱引きと騎馬戦、あと地区対抗リレーに出るから。リレーは紫色のハチマキだよ。それ以外は赤い帽子」
「ふむふむ」
「順番だと、昼からすぐにリレーみたいっすね。あとは綱引きと騎馬戦っすか」
「では、さっそく応援せねばな。ところで、かけっこはどうだったのじゃ?」
「二番。一着の人とはちょっと離されたけど」
「それでも凄いではないか。皐月は足が速いのじゃな」
「足速いと、モテるんじゃないっすか?」
「ないから」
新月は悪戯っぽく笑うのだった。正直、モテるとか、そんな話は聞いたことがない。こういう話は早めに切り上げよう。あまり長居すると変に思われるかもしれないし。
「トイレに行ってくるって言ってるから、あんまり長くなると変だし、このへんで戻るね」
「あ、うむ。……その、ところで……」
霞が口ごもった。
「今のわしの姿、どうじゃ……?」
霞がおずおずと問いかけてきた。
人間に化けた霞の姿。確かに綺麗だし、可愛い。だけど、普段の霞を見慣れている身からすれば、違和感のほうが大きい。
それに、今は人間に化けているため、瞳の色も、瞳孔の形も、普通のものだ。
霞の金色の瞳。縦長の瞳孔。自分はそれが好きなんだなと実感した。
「確かに……キレイだけど」
霞が嬉しそうな表情を浮かべた。続けていいものか迷うが、言いきってしまおう。
「オレは、普段の霞さんのほうが、好きだよ」
すると、霞は呆気に取られたような表情になった。これ、外したな。恥ずかしい。新月もぽかんとしている。やっぱり外してる。
「……じゃあね!」
逃げるようにテントへと戻る。ああもう、恥ずかしいったらない。
「キサ坊、遅かったじゃんか。ウンコか?」
当たり前だが、成美のノリはいつもどおり。話していれば少しは恥ずかしさも収まるかもしれない。
「……そーだよ」
「うわ、ウンコマンだ」
低学年の頃に比べればマシになったが、学校で大をするのは抵抗がある。
「リレーの途中に漏らす訳にはいかないだろ」
「まぁなー」
すると、洋一が戻ってきた。どこに行っていたのだろうか。
「エドワードもウンコかよ」
「そーだよ」
「うわ、ウンコマンズだ」
「キサ君も? やーい、なるちゃん仲間外れー」
「やーいやーい」
洋一と肩を組んで、成美を指差す。
「全っ然悔しくねぇし!」
ぐうの音も出ない正論。
テントの中を見渡してみれば、千歳の姿がなかった。仲の良い深雪たちのところだろうか。それか、ひょっとして。
いや、今は霞のことを考えるのはやめよう。変な顔になっちゃいそうだから。
「いやー、二月クン、思い切ったこと言ったっすねー」
新月はさっきからずっとニヤニヤしっぱなしだ。
「普段の霞さんのほうが好きって、なかなか言える台詞じゃないっすよ」
本当に。人間に化けた姿を見せた相手が少ないこともあるが、そんなことを言われたのは初めてだ。自分の姿を、蛇女の姿を好いてくれた。
嬉しい。それ以外の言葉が出ない。
「もう、霞さんってば腑抜けちゃって」
「し、仕方なかろう……」
気持ちを落ち着かせるために、茶を口に含む。
「霞さん、新月さん、こんにちは」
すると、千歳が姿を見せた。当然だが、彼女も体操着姿。なかなか可愛らしい。これは天の助けかもしれない。千歳と話していれば、少しは気分も落ち着くだろう。
というか、新月の名前を知っている。面識はないと思ったのだが。
「あ、千歳か」
「こんちは、千代ちゃん」
「なんじゃ、新月のことを知っておるのか」
「はい。ちょっと前に会いました。紅茶おごってもらいましたよ」
「そういうことはもっともっと言ってやってください。新月ちゃんの気前の良さをアピールする機会っすから」
まぁ、確かに新月は世話好きというか、気前がいい。何も言っていないのに、自分のことを世話してくれているのだから。
「霞さん、さっちゃんが走ってるとこ、応援しました?」
「いや、遅刻してしもうてな。じゃが、リレーといったか、それは応援するぞ」
「なら、さっちゃんの力も倍増ですね。あと、騎馬戦。これ、男の子だけで、上の体操服脱いでやるんですよ。さっちゃんのセクシーな姿、ちゃんと見てあげてくださいね」
「上半身裸ッ!? それ、ホントに言ってるんすかッ!?」
別方向に燃料が投下された。新月が目を輝かせている。
「ああ、千歳。こやつは変態なのじゃ。放っておいてくれ」
「霞さんも楽しみでしょ! 二月クンが上半身裸なんすよ!?」
何も言わないでおこう。いや、確かに楽しみではあるが、大声で言うことでもないだろう。
「……私、言っちゃいけないこと、言っちゃいましたね」
「そのようじゃ」
新月は何を期待しているのか、鼻息が荒い。この様子なら、変質者としてつまみ出されても文句は言えまい。
「それじゃ私、友達のところに行きますから、これで。私も赤組なんで、応援してくださいね?」
「うむ。千歳も昼から頑張るのじゃぞ」
「はーい。新月さんは落ち着いてくださいね」
「そいつは無理な相談っす!」
千歳は苦笑して、お辞儀の後に去っていった。
「霞さん! 昼過ぎには帰るつもりでしたけど、予定変更っす! 騎馬戦まで見ましょう!」
「わしは別に構わぬが……。巻雲と約束があると言っておらんかったか?」
「駅まで送るだけっす! マッキーは足が六本もあるんすから、歩いていってもらいましょう!」
「後で何を言われても知らぬぞ……」
まぁ、直接何か言われるのは新月だ。騎馬戦といえば最後の種目なので、最後まで見て帰ることになる。それは嬉しいことだ。
「そういえば、千代ちゃんの生足も良かったっすね……。大人しそうな外見に似合わず健康的で……」
「何でも良いのか、そなたは」
「失礼っすね! 何でもいいわけじゃないっす! 可愛ければ何でもいいってだけっすよ!」
「ほとんど同じではないか」
新月は少年だけでなく少女もいける変態だということを改めて実感した霞であった。
『地区対抗リレーに出場する生徒は入場門に集合してください』
「あ、そろそろじゃない」
「うん。行ってくる」
「四日町を背負ってんだ、気張ってこいよ」
「了解。せっかく出るんだし、負けたくはないよ」
あれだけ面倒だと思っておきながら、いざ本番になると負けたくなくなるって、我ながら簡単な性格だと思う。
皐月は保護者のいるテントから出ると、他の生徒より一足先に昼休みを終えた。靴を脱いで、入場門のところで地区毎のハチマキを受け取る。上下四日町チームは紫色だ。
「お、キサ君も選手じゃん」
声をかけてきたのは衣笠あおば。千歳の友人で、ベリーショートのボーイッシュな少女だ。あだ名は同じ苗字のプロ野球選手にあやかっての「鉄人」。これは親の代から続いているあだ名だそうで、男女問わずに呼ばれている。
「げ、鉄人も走るの」
あおばはその外見に違わず、運動神経が良いとのことだ。転校してから体育の授業は運動会の練習ばかりだったので、その実力を見る機会はなかったが。
「そーだよ。フフフ、二組はキサ君だけだからね。絶対負けないよ」
「それはこっちの台詞だよ」
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。テントへと生徒が戻っていく。
『それでは、地区対抗リレー、選手の入場です』
放送と共にグラウンドに入る。スタート地点について、一年生がスタートするのを待つだけ。
「位置についてー、よーい」
ピストルの音が鳴り、一年生が走り出す。そこから二年生にバトンが渡り、今のところは五番手。三年生、四年生。
五年生のところで、上四日町は三番手。と思ったら一人抜いた。一位はあおばの住んでいる大黒町(だいこくまち)。あおばと共にスタート地点に並び、バトンを待つ。緊張してきた。
五年生の走者は速い。大黒町との差を詰めて、皐月にバトンが渡される。バトンを貰ってスタートするのは、あおばとほぼ同時。走ってみると、あおばは確かに速い。でも、負けたくない。差は離れず、かといって縮まず。
「おらー、キサ坊ーッ! 鉄人に負けんなーッ!」
赤組テントの前からは成美の声。わかってる。これで負けたら何を言われるかわかったものじゃない。あおばにも応援が届いたようで、ペースが上がった。負けるもんか。
あおばとの差は縮まることなく、上四日町のテントの前に差し掛かる。応援のなかで、一つの声がはっきりと聞こえた。
「皐月、そこじゃっ! がんばれっ!!」
霞の声。
彼女の声を聞いた瞬間、力が増してくるのがわかった。彼女の思いに応えるために、もっと強く腕を振って、もっと速く地面を蹴る。あおばとの差が縮まった。残り四分の一周。ゴールテープが見えてきた。
最後の直線。ラストスパート。それはあおばも同じようだ。負けるもんか。今はほとんど同着だ。あと少し。もう視界にあおばはいない。
ピストルが鳴った。
「うあーっ、負けた……ッ」
先にゴールテープを切ったのは、皐月だった。あおばとはほんのわずかの差。
「へへ……どんなもんだい」
「リードしてたのに抜かれるとか、なっさけないなぁ、ホント……」
あおばと共に、トラックから離れたところで前屈みになり、息を整える。こんなに全力で走ったのは久しぶりだ。勝てて何より。
何よりも、これで霞にいいところ、見せられたな。
皐月は一息つくと、上四日町のテントに視線をやった。霞、あの中にまぎれこんだのかな。確かにテントの前で霞の声が聞こえた。弥生に見つかったりしたのかな。そうだとしたら、霞も大変だろうな。
弥生に絡まれている霞の姿を想像すると、少し笑みがこぼれた。
運動会も終わり、現在は閉会式。そこまでいることもないので、霞と新月は車に乗り込んでいた。助手席に座り、慣れない手つきでシートベルトを締める。
「霞さん、そうやっておっぱいを強調して、新月ちゃんへの当てつけっすか」
「うん?」
確かにシートベルトで胸元は強調されているが。これをつけないといけないというのだからつけているだけだ。
「いやー、面白かったっすねー。特に騎馬戦! 眼福眼福」
「明らかに酷い顔をしておったぞ、そなた」
「あはは、新月ちゃんは女の子っすから大丈夫っす。男の子だったら、警察呼ばれてたでしょうね」
よくわからない理屈だ。新月は三回ほどキーをひねり、エンジンがかかった。不規則な、どこか不安になる振動。
「……新月、これ、大丈夫なのか?」
「あー、しばらくしたら落ち着くっすよ。それよりも、霞さん」
「うん?」
「二月クン、走ってるとこ、カッコよかったっすね」
「……うむ」
皐月が懸命に走っている姿は、本当に格好良かった。その姿には、胸を打たれた。
「わしの応援、聞こえたかのう?」
「聞こえてますって。霞さんの応援の後、二月クン、わかりやすいぐらいペース上がったじゃないっすか」
確かに、霞が応援して以降、皐月のペースは上がった。それはラストスパートというよりは、自分にいいところを見せようとしてくれたのかも。だとすれば嬉しいのだが。それは自意識過剰か。
「あと、霞さんが応援してたとき、女の子が不思議そうな顔してこっち見てたんすよ。あれ、きっとお姉さんっすよ。皐月クンのお姉ちゃんだから、卯月ちゃん?」
「そのままではないか。そうか。確かに家族はあの場におるじゃろうなぁ」
夢中になっていて、誰が皐月の姉かはわからなかった。リレーが終わったら、そそくさと出てしまったし。人使いが荒いという皐月の姉。話を聞く限りでは、母親代わり。
「挨拶しといたほうがよかったんじゃないっすか?」
「まさか。向こうも困ろうて」
前の車が動き出したので、新月もそれに続く。
「……霞さん」
新月の真剣な口調。
「そろそろ、二月クンへの想い、はっきりさせたらどうすか」
「……何を」
「前に、深入りしないほうがいい、って言ったっすよね。そろそろ、頃合っすよ」
それから新月は一言も喋らなかった。車外の風切り音と、カーステレオの音楽だけが響いた。
今日の夕食は外食である。近所の中華料理屋で、四人前のコース。この中華料理屋は美味い。当たりだ。
「そういえばさっちゃん」
弥生はエビチリを取りながら話を切り出してくる。
「今日、さっちゃんのこと応援してる、すっごい綺麗なお姉さんいたよ。知り合い?」
それ、霞のことだ。やはり上四日町のテントにいたのか。
「あー。ちょっと心当たりはある」
鶏の唐揚げを取る。
「なによ、あんな綺麗なお姉さん、どこで知り合ったのさ」
「ゲーセンで。対戦やってたらいい勝負になって、ドーナツおごってもらった」
さすがに本当のことは言えないので、あらかじめ考えておいた嘘をつく。この辺りにゲーセンといえばショッピングセンターか、高校生のたまり場になっているところしかない。あとは、しのみやの中に古いゲームがいくつか。ゲーセンに来る霞というのはちょっと想像がつかない。新月は容易に想像できたが。
「えー、そんなことあるのかしら」
「色男は得だな、えぇ?」
父はビールの入ったグラス片手にいい気分になっているようだ。顔が赤い。
「それからゲーセンで会ったら対戦するぐらいだよ」
「それであんなに熱入った応援するー?」
弥生は悪戯っぽく笑った。そんなに熱が入っていたのか。嬉しいけど、見てみたかった気もする。
今度会ったときには、応援してくれたことにお礼を言おう。霞の好きなお菓子も持って行って。
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