#2

 翌日。皐月は弥生と一緒に昼食の野菜炒め入りインスタントラーメンを食べ、高校野球の決勝戦を観ていた。プロ野球チーム、ファルコンズがある土地柄故か、ここらには野球好きが多い。それはこの姉弟も例に漏れない。

「あー、今の振っちゃうかなー」

 糞ボールを振ってしまい、三振となってしまった打者に対して弥生が毒づく。自分は運動音痴の癖に、よく言うものだ。去年の地域対抗ソフトボール大会なんか酷かった。打席では三振、守ればエラー。即戦力外となり、皐月が代わりに出ることになったのだった。皐月も球技は得意ではないが、姉よりはマシということで。

 さて、いい時間。霞との約束を果たさねば。

「お姉ちゃん、ちょっと出かけてくる」

「ん、どっか行くの? ジャスコ?」

 そういえば近所にあったような。近くに大きな店があるのは便利でいいと思う。

「違うよ。ちょっとブラブラしてくる。暇だし」

 霞と会うとはさすがに言えない。適当にお茶を濁しておこう。

「暇ならお姉ちゃんのゲーム手伝いなさいよ。わかんないとこあるんだから」

「それぐらい自分で考えなって」

 ラーメンの器を流しに持って行き、昨日と同じように麦茶を準備する。

「さっちゃん、どっか行くんなら、ついでに卵、十個入ったやつ。あとケチャップ買ってきてよ。切らしてるの」

「はいはい」

 卵とケチャップ。ということは夕飯はオムライスだろうか。姉の作るオムライスは美味い。期待しておこう。

「小銭持ってる? 持ってるなら立て替えといて。レシートもらいなさいよ」

「はいはい」

「はいは一度でよろしい!」

 卵とケチャップが買える程度の金なら持っている。

「お、このピッチャーいいなぁ。ファルコンズ取らないかなぁ」

 障子越しに姉の声が聞こえてくる。夏の高校野球が始まってから何回聞いただろう、この台詞。ちょっと無失点に抑えるとすぐに言うんだから。

「じゃ、行ってくるねー」

「はーい。夕方までには帰りなさいねー」

 自転車に乗って、昨日と同じルートで霞のところへ向かう。

 小学校の裏を通り過ぎたとき、道端に駄菓子屋を見つけた。軒先のガチャガチャに小さな子が群がっている。

 せっかくだし、霞に手土産でも持って行ってもいいだろう。自転車を停めて、駄菓子屋に入る。店の中には駄菓子がずらりと並んでいた。アイドルのブロマイドやスーパーボール、くじ引きなんかもある。この手のくじ引きは当たった試しがない。アイスにも心が動かされたが、持って行くまでに溶けてしまいそうだ。アイスの誘惑に耐え、適当な駄菓子を百円分購入する。スナック菓子、味付けの梅干し、飴玉。無難なチョイスだと思う。

 駄菓子屋から出ると、むわっとした熱気が襲い掛かってくる。結局店内に戻り、六十円のヨーグルト味のアイスを買ってしまうのだった。

 アイスをかじりながら自転車をこぎ、霞の祠の下に辿り着く。アイスの棒はポイ捨てせずに袋の中に入れておこう。昨日と同じように階段を上り、一息つく。今日は昨日と違って風がないので、非常に蒸し暑い。汗をかいてしまったので、タオルで拭いておこう。汗かいてちゃ、なんだかカッコ悪いから。

「かーすーみーさんっ」

 祠の外から声をかける。少しの沈黙の後、扉が開いた。

「……皐月か?」

 霞は昨日と同じ服装であった。出てきたときは怪訝そうな表情を浮かべていたが、皐月の姿を見た途端、彼女の表情は笑顔に変わった。

「霞さん、こんちは」

「……いやはや、本当に来るとはのう」

 霞が階段に腰掛けたので、隣に座る。今日は風がないので、中も蒸し暑いのかもしれない。

「だって、指きりしたでしょ。今日も来るって」

「……そうじゃな。すまぬ。てっきり来ぬものと思っておった」

 霞が頭を下げた。なんだか居心地が悪い。

 きっと、霞は過去にも同じような約束をされたのだろう。そして、その度にすっぽかされてきたのだろう。だから、落胆しないよう、来ないものと決めてかかっていたのだろう。だろう、が続く、完全に想像だけど、霞が約束を信じてくれていなかったことは気にならない。

 だから、霞に頭を下げて欲しくない。

「いいから、顔上げてってば。オレ、霞さんと話したかったし」

 ちょっと恥ずかしい台詞だった。だけど、人恋しかったのは確かである。

 ともあれ、皐月の言葉で、霞は顔を上げた。笑顔である。迷惑じゃなかったようで、ほっと一安心。

「そうじゃな。約束、したからな。皐月は良い男じゃのう」

 霞が頭を撫でてきた。だからこういうことは恥ずかしい。

「もう、撫でないでってば」

「むう、嫌じゃったか?」

 霞の手を払いのける。嫌ではなかったのだが、まぁ恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。

「別に嫌って訳じゃないけど……」

「ではよいではないか。減るものでもあるまい」

「恥ずかしいの! いい加減にしないとお菓子あげないよ?」

 なんだか長くなりそうだったので、駄菓子を盾に脅迫してみる。

「む、菓子か」

「せっかく買ってきてあげたんだから」

「ふむ。では仕方ないのう。皐月ほど可愛い男の頭を撫でるなど、なかなかないのじゃがなぁ」

 可愛いとか言ってるけど、スルーしておこう。また長くなるし、あんまり可愛いとか言われたくないし。

 ただ、皐月の容姿はそれなりに評判が良い。特に弥生の友人の間では、弟を譲って欲しいという話が結構出ていたりするのだ。無論、皐月が知る由もないが。

「……そういえば霞さん、食べ物とか、どうしてるの?」

 ふと気になったことだ。こんなところに一人で暮らしていて、それに人の姿をしていない霞がどうやって食べ物を調達しているのか。

「ああ、あれを見てくれ」

 霞が部屋の隅を指差す。部屋の隅には缶詰がいくつか置いてあった。

「缶詰?」

「友人がたまに持ってきてくれるのじゃ。それを食うておる」

「なるほど、缶詰かー」

 缶詰なら長持ちしそうだ。料理の必要もないし、缶切りだけで食べられるし。

「ちと、こればかり食っておるのも恥ずかしいがの」

「変なとこ気にするんだね」

 霞が苦笑した。ともあれ、持ってきた駄菓子を床に広げる。駄菓子の派手なパッケージは霞の目を奪うのに十分なものであった。この様子だと、他の友人は買ってきたことがないらしい。ということは、大人なのだろうか。大人が駄菓子を買わないとは限らないが、買うことは少ないと思う。

「ふ、ふむ。これが菓子か?」

「うん。オレの好きなやつばっかだけど」

 霞にスナック菓子を一つ手渡す。棒の形をした美味しい菓子だ。霞に渡したのはたこ焼き味。たこ焼き味といってもソース味のようなものなのだが。

「で、では、いただくとするぞ」

 霞がおっかなびっくり袋を開ける。中から出てきた茶色い棒に面食らうものの、観念したかのようにかじりついた。

「どう?」

 咀嚼を終えた霞は、なんだか不思議そうな顔をしていた。

「味が濃いのう……。食感も妙な感じじゃし……」

 あ、外したかも。

「じゃが、気に入った」

 霞は微笑み、もう一口かじる。外さなかったようだ。ほっと一安心。

「そう? オレも好きだよ、それ」

 無難ながらも自分の好きな駄菓子ばかり買ってきたのだ。霞が気に入ってくれると、なんだか嬉しい。

「ところで皐月、兄弟はおるのか?」

「え? うん。お姉ちゃんが一人」

「そうか、皐月は弟なのじゃな」

「そうだよ。こき使われてばかりだけど」

「ははは、弟じゃからな」

 こき使われているといっても、皐月の仕事といえば風呂掃除とお使いぐらいのものなのだが。気まぐれで自分のお菓子を食べられたり、漫画を勝手に持って行かれたり、テレビのチャンネルをすぐに変えられたりしたりはしている。

 なお、姉は家事が好きらしく、辛いと言っているところを見たことがない。いや、皐月が見たことがないだけで、実際は辛い思いをしているのかもしれないが。

「まぁ、お姉ちゃんが家事やってくれてるから、あんまり文句も言えないけど」

「うん? 母親は?」

「お母さんは六年前に死んじゃったんだ。それからお姉ちゃんが家事やってるんだよ」

「……あ、すまぬ」

 霞はちょっと気まずそうな表情を浮かべた。

 母親が亡くなったのは七年前のこと。小学校に上がる前のことなので、ろくに覚えていない。ただ、葬式の前から後までずっと泣いていたらしい。墓参りに行くと、いつも姉からからかわれる。皐月からすれば、母親は居ないのが当たり前なのだ。居なくなってからのほうが、記憶に残っているのだから。

「大丈夫だよ。もう慣れたから」

「それでも、皐月ほどの年頃で母親がおらぬというのも悲しい話じゃな。そなたの姉も苦労しておろう」

「そうかな? 大変だな、とは思ってるけど」

「たまには労ってやるべきじゃな。肩でも揉んでやれば、喜ぶかもしれぬぞ?」

 そういえば、姉に面と向かって礼を言ったことはない。なんだか恥ずかしいが、せっかく霞に指摘されたのだし、忘れないうちにやってみるといいかも。

「うん。それもそうだね。帰ったらお礼、言ってみるよ」

「うむ。善は急げ、じゃ」

 霞は微笑みながら、スナック菓子を一つ、手に取った。


「ではな、皐月」

「うん。また明日」

 霞に手を振って、階段を降りる。あれから彼女とした会話は、前にいた学校での友達の話。霞にとってはわからない話だったかもしれないが、彼女は笑顔で何度も相槌と頷きをくれた。人恋しかった、と言っていたが、それは本当だったようだ。あんなに楽しそうに話を聞いてくれると、明日も来ようという気にさせてくれる。

 階段の途中で振り返ってみると、見送ってくれていた霞と目が合った。彼女は笑顔で、もう一度手を振った。

 自転車に乗り、小学校の時計台を見てみれば、午後四時。まだ時間はあるし、来た道とは別のルートを辿ってみよう。団地は周囲よりも高い建物だから、迷っても大丈夫だろう。最悪、交番かコンビニに駆け込めばいいし。とりあえず駄菓子のゴミが入った袋を駄菓子屋の軒先のゴミ箱に捨てておく。

 小学校の横の路地に入ってみる。少し走ってみれば、学校のような建物が見えた。部活なのだろうか、夏休みのこんな時間にも関わらず、テニスコートにはたくさんの生徒が居る。ユニフォームが違う生徒が混じっているので、練習試合か何かだろうか。背丈から察するに、高校だろう。その向かいには神社がある。道路から見た感じでは結構立派なものだ。しばらく走ってみると、国道に出た。大きな郵便局に、スーパーとバス停。スーパーとバス停はつながっているようだ。バスセンターなのか、乗り場が複数ある。高校生が何人かバスを待っていた。

 あ。卵とケチャップ頼まれてたんだった。忘れていたらなんと言われていたかわからない。スーパーに入って、目的物を買う。いつも捨てているレシートも忘れないように。

 スーパーから出る。横断歩道があるし、国道を渡ってみよう。横断歩道の信号が青になるのを待っていると、見たことのある少女が隣に立ち止まった。小柄でお下げ髪。隣の部屋の千歳だ。皐月が忘れていた幼馴染。向こうもこちらに気付いたのか、ちらちらとこちらに視線をやっている。声、かけてみようかな。

「……あの、『ちーちゃん』?」

「! ……うん。そうだよ、『さっちゃん』」

 ちーちゃんと、さっちゃん。昔呼び合っていた愛称だ。やっぱり千歳だった。言われてみれば、ぼんやりと面影がある。

 信号が青に変わり、通りゃんせのメロディーが流れてきた。自分だけ自転車に乗るのもなんなので、自転車から降りて、押して歩く。

「えっと、昨日はごめん。お姉ちゃんから言われて、ちーちゃんってことに気付いた」

「う、ううん、声かけられなかった私も悪いよ! それに私、結構大きくなってるし、苗字も変わってるから、気付かないよ、普通」

 千歳が引っ込み思案なのは変わっていないようだ。ちょっと安心する。

 ちょっと会話が途切れて、気まずい感じ。

「荷物、籠に入れよっか?」

 千歳の荷物はそんなに重くなさそうだが、話の種に。

「え、いいの?」

「うん。せっかくだし」

 千歳の荷物を受け取り、自転車の籠に入れる。お使いなのだろうか、皐月と同じビニール袋だ。

「あ、さっちゃん、こっちのほうが涼しいよ」

 横断歩道を渡り、右折しようとした皐月だったが、千歳が指差す先にあるのはアーケード。ちょうど正面。千歳に連れられるように入ってみれば、屋根があるうえに店の空調が漏れていて、アスファルトとは違う、石の床と併せてとても涼しく感じられた。この季節にこれはありがたい。

「学校、キレイなの?」

「うん。西高田小(にしたかだしょう)よりもキレイだよ」

 西高田小といえば、二人がかつて通っていた小学校である。一年生から三年生までの校舎と四年生から六年生までの校舎が分かれており、二人が通っていた頃は、低学年の校舎は木造の古いもので、高学年の校舎は鉄筋コンクリートのそこそこ新しいものだった。

「そっか。あ、低学年の校舎は建て替えられてキレイになったよ。オレが四年になったとたんに」

 建て替えは皐月が三年生になるぐらいに始まり、四年生になった頃に終わった。建て替えの間はプレハブの教室で我慢したのに、完成した新しい校舎には入れず、なんだか損をした気分になったことを覚えている。低学年の頃は高学年の校舎に憧れていたのだが、高学年になってみれば低学年の校舎が羨ましく感じてしまった。思い通りにはいかないものである。

「そうなんだ。あはは、ついてないね」

 千歳が笑った。笑顔はなんだか可愛らしい。

 昔の学校のことを話していたら、アーケードを抜けた。アーケードの中には駄菓子屋なのかおもちゃ屋なのかわからない店とか、ゲーム店なんかがあった。後々お世話になるかもしれないので、覚えておこう。

 アーケードを抜けると、むわっとした熱気が襲い掛かってくる。団地の姿も大きくなってきた。もうすぐだ。

「そういえば、金曜日は花火大会があるよ」

「花火大会?」

 今日は水曜日。明後日か。

「うん。そこの辛木川で」

「へー、そうなんだ」

 辛木川といえば団地の近くにある川だ。ひょっとしたら、部屋からも見れるかもしれない。

「私は友達と一緒に見るんだけど、どうする? 一緒に見る?」

「……友達って、女子だろ」

「そうだよ?」

「やだよ。どうして知らない女子と花火見なきゃいけないのさ」

 千歳以外知らない女子ばかりとか、絶対アウェイに決まっている。何を喋れというのか。

「あはは、それもそうだね」

 千歳はそんなに残念じゃなさそうだ。冗談みたいなものだったのだろう。

 団地に着いた。籠から自分の荷物と千歳の荷物を取り出して、階段を上る。

「あ、さっちゃん、もう大丈夫だよ?」

「いいよ。ついでだし」

 ここで千歳に渡すのもなんだかカッコ悪い気がする。重たいものじゃないし、部屋も隣だし、なんてことはない。

 千歳の足取りは軽やかだ。これが慣れというものだろう。千歳は大人しそうな見た目の割には運動神経が良かった記憶があるのだが、それは変わっていないようだ。部屋の前で千歳の荷物を渡す。

「はい、荷物」

「うん。ありがと。クラス、一緒だったらいいね」

「そうだね。じゃ、また今度ね」

「うん、バイバイ」

 千歳に手を振って、自宅に帰る。幼馴染である千歳とクラスが一緒だと有難いのだが、はてさて。

「ただいまー」

「はーい、おかえりー」

 靴を脱いで、卵とケチャップを冷蔵庫に。ついでに麦茶をコップに注いで一気に飲み干す。この暑いさかりに冷たい麦茶は本当に美味い。コップを水洗いして、居間に入る。エアコンの冷風が気持ちいい。居間では姉がゲームに興じていた。昨日データが消えたRPGだ。

「またやってるの、それ」

「クリアしないと負けのような気がしてきたのよ」

 弥生の気持ちもわからなくもない。何度もセーブデータが消えているのだ。もはや意地だろう。

「で、卵とケチャップ買ってきてくれた?」

「うん。冷蔵庫」

「やればできるじゃない。忘れてるものと思ってたわ」

「お使いぐらいできるって」

 忘れかけていたことは言わないでおこう。

「レシート出しといてね。後でお金渡すから」

「お駄賃ちょうだいよ」

「何言ってんの。お使いぐらいで。ま、端数ぐらいはサービスしたげるわ」

 弥生はくすくすと笑い、セーブしてから電源を切り、背伸びをした。弥生は背こそ高いが色気はない。具体的に言えば胸が小さい。

 ……って、なんでそこで霞さんの姿が浮かぶかな。確かに彼女は胸が大きいけど。

「さーて、そろそろご飯炊こうかな」

 今から夕飯の準備らしい。その前に。

「あ、お姉ちゃん、ちょっと待って」

「んー?」

 弥生の後ろに回り、肩を揉む。

「うひゃっ!? な、何よ、急に!」

 突然のことに驚いたのか、弥生が変な声を出す。うん、確かに唐突だった。

「いや、その……」

 いざ言おうとすると恥ずかしい。

「何よ、はっきり言いなさいよー! 気味の悪い!」

「いや、いつも、ご苦労様、って」

「へ?」

 予想外の言葉だったのか、弥生の目が点になる。あまり見たことのない、ちょっと面白い表情だ。

「もう、なんなの急に! やだやだ、こりゃ明日は雨だわ!」

 弥生は笑いながら、いつもよりも早口でまくし立てた。いつもの弥生とはちょっと違う感じ。照れているのだろうか。うん、そういうことにしておこう。

 その後、弥生はいつにも増して上機嫌だった。

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