蛇女にラブ・ソングを・・・

あびす

#1

 夏休みも残り半月を過ぎた、とある日の昼下がり。

 その少年は居間で気だるそうに寝返りを打った。長いこと横になっていたせいか、枕代わりの二の腕にはうっすらとゴザの跡がある。彼の名は如月皐月(きさらぎ さつき)、小学六年生。癖毛混じりの短い髪に、それなりに整った顔立ちは、中の上、といったレベルか。どこのクラスにも一人や二人は居そうな、そんなレベル。

 窓は全開、扇風機の風量は最大。それでも、彼に届くのは生ぬるい風だけ。ここは公営団地の五階で、風通し自体は良いのだが。今年の残暑はなかなかに厳しい。

 扇風機のモーター音に混じって聞こえてくるのは、点けっ放しにしているテレビから流れている高校野球の中継。そして、下の広場から聞こえてくる、子供の遊び声。なんだか凄く寂しくなってきた。

 皐月は父の仕事の都合で、この夏休みの間にかつての住居から車で一時間ほど離れた、ここ辛木(からき)市に引越してきたのだった。それから数日が経過したが、暑さもあってか、特に外出することもなく、ダラダラと日々を過ごしている。引っ越したことによって、かつての友達とのつながりはすっかり絶たれてしまった。高校生である姉は、使っているバスが変わっただけなので、今日は部活に行っている。引っ越しても友達とのつながりを保てるのだから、姉が羨ましい。

「打ったー! 大きい、入るか……入ったーッ!」

「おー」

 気の抜けた声が出る。テレビでは二アウト、四番バッター敬遠からの劇的な逆転ホームラン。どちらのチームも地元勢ではないので特に感慨もないのだが。それにしても、本当に何もする気にならない。いつもやっているロールプレイングゲームも、昨日エンディングを見てしまったので、今日は遠慮しておこう。今日はこれから何をしようか。宿題というのは無しで。今日やるぶんは終わっているので、そんなに焦ることもないだろう。

 ……あんまりにも暇だから、少し外出してみようか。部屋に居ても暑いだけなんだから。

 そうと決めたら早く動こう。のんびりしていると、またすぐにだらけそうだ。高校野球は二対三。八回も終わったし、このままだとさっきホームランを打ったほうが勝つだろうな。テレビと扇風機の電源を切って、窓を閉める。

 冷蔵庫から麦茶ポットを取り出して、ラベルを剥がしたペットボトルに注ぐ。タオルを巻きつけて、輪ゴムで縛り、ささやかな保冷。財布と一緒に小さなリュックへ放り込む。自転車の鍵を持って、外に出る。部屋の鍵をかけて、階段に向かおうとしたら、隣の部屋に入ろうとする少女がいた。同じぐらいの歳に見え、ちらりと見えた横顔はなかなか可愛い。手には白いビニール袋をぶら下げている。お使いか何かの帰りだろうか。せっかくだし、挨拶しておこう。

「こんちは」

「あ……こんにちは」

 少女はおずおずと返事をすると、そそくさと部屋に入ってしまった。表札には、千代田、と書かれている。近所に同年代の子がいるとは思わなかった。引っ越した後の挨拶を父任せにしていたのは良くなかったかも。

 皐月は階段を降りていく。五階まで階段というのは正直きつい。自転車の鍵を外し、団地の敷地から出る。

 ここ辛木市は、人口四万人ほどの地方都市だ。とはいっても、引っ越す前に住んでいた月野(つきの)町よりは栄えている。二十四時間営業のコンビニなど、月野にはなかったのだから。皐月にとって馴染み深いコンビニといえば、名前が数字のコンビニでも、青いコンビニでも、緑のコンビニでもない。ましてや黄色でもなければ植物のコンビニでもない。二十二時に閉まる「コンビニ」という名前の個人商店だ。

 細い路地を抜けて、国道に出る。歩道橋の下を渡り、右手には数字のコンビニ。そのまま直進すると、来月から通うこととなる市立辛木小学校があった。まだ新しい感じのする、小奇麗な校舎だ。以前通っていた小学校はボロボロだっただけに、たとえ半年しか通わないといっても、なんだか安心する皐月であった。それに、学校までは自転車で十分もかからなかった。歩きだと二十分ほどだろうか。学校が近いのは嬉しい。

 小学校の時計台を見てみれば、時刻は十五時前。まだ時間はある。もう少しうろうろしてもいいだろう。小学校の横を通って、もう少し山のほうに行ってみる。今日はいい天気なだけに、小学校のプールで泳いでいる生徒は多い。ちょっと羨ましいが、まだこの学校の生徒ではないのだ。泳ぐのは好きだが、ここは我慢。

 学校の横を抜け、山のほうへと向かうにつれ、民家は少なくなっていき、周囲は水田ばかりになっていった。緑色の細い葉が、風を受けて揺れている。

 ある程度進んだところで、大きな道。標識を見てみると、さっき渡った国道のバイパスらしい。そこを渡ると、大きな建物が道を挟んで二つ見えた。看板には浄水所、それと老人ホームと書いてある。そして、長閑な田園風景のなかに、山へと登る細い林道が見える。林道に少しだけ入ってみたが、このまま進むと道に迷いそうだ。ここらで引き返そう。

 Uターンしようとしたところで、路肩に粗末な階段が見えた。木で作られた粗末なもので、地面と同化してしまっているところも少なくはない。階段は結構な段数があるようで、頂上は見えない。

 上には何があるのか、ちょっと気になってきた。上へと続いている電線は見えないので、人家という可能性は低そうだ。神社か何かだろうか。

 見に行ってもいいかもしれない。人の家だとしたら、門のところで引き返そう。皐月は道の端に自転車を停めると、鍵をかけてから階段を上り始めた。


「ふう……」

 どれぐらい歩いただろうか。皐月の予想通り、階段は結構な段数があり、ずいぶんと疲れてしまった。途中からは階段すらもなくなっていたが、誰かが歩いた跡はあるので、それを辿り続けた。振り返ってみれば、小学校どころか、離れたところにある川すらも見える。風が心地よく、しばらく休憩してもいいだろう。リュックからペットボトルを取り出して、麦茶を一口飲む。まだ冷たい。

 階段を上りきった先にあったものは、木造の小さな祠だった。ずいぶんと古いもので、苔に覆われているところも少なくない。やはり、神社か何かだろうか。だが、鳥居も狛犬もない。

 とはいえ、何かが祀られていることには変わりないだろう。

「こんなのじゃ、神様もかわいそうだよな」

 皐月は財布から五円玉を取り出すと、祠の扉の前にそっと置き、二回お辞儀してから手を二回叩き、もう一度お辞儀。願い事は、新学期から友達ができますように。

「ふむ、珍しい客じゃな」

 女の声。皐月は思わず目を開け、周囲を見渡す。見える範囲には誰も居ない。空耳か。でも、それにしてははっきりと聞こえた。

「ふふ、こっちじゃ、こっち」

 声の方向は祠の中から。まさか、こんなところに誰かが住んでいるだなんて。思わず身構える。

「そう構えずともよい。何も取って食う訳ではないぞ」

 祠の扉がそっと開く。中から顔だけ出してきた女は美しかった。切れ長の鋭い目。瞳の色は金色。艶やかで長い、絹糸めいた黒髪。前髪は眉のあたりで切り揃えられており、女優やアイドルというよりは、お姫様といったほうが的確な感じの、どこか古風な美しさだ。

「こんな場所に住んでおるからのう、たまに人恋しゅうなるときがあるのじゃ。折角じゃし、話し相手になってくれぬかの?」

「話し相手?」

「うむ。そなたの時間が許せば、じゃがな」

 時間には余裕があるはず。だが、こんなところに住んでいる女性だ。間違いなく変わり者だろう。変なことにならないだろうか。

 でも、ちょっとどきりとするほど、綺麗な人だ。なんだか気になる人である。

「……話すぐらいなら、いいけど」

 結局、そう答えてしまった。まぁ取って食う訳ではないと言っていたし、走るのには自信があるから、いざとなっても逃げられそうだし。いくら大人相手でも、女性には負けないと思う。スポーツをやっていたりしたら別だが、彼女にそんな雰囲気はない。

「では、中に入ると良いぞ」

 女は祠の中に引っ込んだ。別に、外で話せばいいのに。ちょっと疑問に感じつつも、祠の中に入る。中は薄暗く、光源といえば窓から差し込む光のみだ。日陰なうえに割と風通しが良く、外よりも涼しいのは嬉しい。

 女は着物を着ていた。赤というには少しくすんでいて、小豆色というほうが相応しいか。そして、着物越しでもわかるほど、彼女の胸は豊満であった。思わず視線が向かう。

 ……って、ドコ見てんだ、オレ。

 皐月はなんだか恥ずかしくなって、女の胸から目を逸らした。

「わしは霞(かすみ)と申す。そなた、名は何と?」

「オレ? ……如月皐月、だけど」

「皐月か。変わった名じゃのう」

「まぁ、五月生まれだし」

 以前、父から冗談混じりに聞かされたことだ。姉は三月生まれだから弥生(やよい)なんて名前だし、両親のネーミングセンスには疑問が残る。完全に姉ありきの名前だ。

「ほれ、そんな入り口におるでない。もそっと近う寄るとよいぞ」

 霞は笑顔を浮かべながら手招きをする。その無邪気な笑顔を見るに、人恋しかったというのは嘘ではないのだろう。どうやら悪い人ではなさそうだ。少し近付いてみる。

 すると、異様なものが目に入った。緑色の、長いものが。

 そう、それは蛇の胴体。それも、人の胴体ほどの太さがある。大蛇と言っても差し支えないだろう。

「わっ!? 霞さん、そこ、大きな蛇がいるよ!?」

「蛇?」

「そう、蛇! 大丈夫なの?」

 慌てる皐月をよそに、霞は平然としている。平然としているどころか、口元には笑みすら浮かんでいた。

「……ふふ、大丈夫じゃ。なぜならば」

 霞はそこまで口にすると、皐月の近くに歩み寄った。

 ……いや、歩み寄った、というのは語弊があるかもしれない。

「これは、わしの脚じゃからな」

 霞が着物の裾をほんの少しだけめくる。彼女の膝があるべき場所には、緑色の蛇の胴体があった。先述の部分は歩み寄ったのではなく、這い寄ったと言ったほうが正確であろう。

 そう、霞の脚は、蛇の胴体であった。

 彼女のことを一言で言うなら、蛇女。

 ゲームで見たことがある、ラミアと呼ばれるモンスター。

「うわああああっ!?」

 皐月は腰を抜かして後ずさる。入り口、入り口のほうへと。

「お、お化け……」

 震える声で、ようやくその単語を搾り出す。

「むう、妙齢の女を捕まえて、お化け、とは、ちぃと失礼ではないかえ?」

 霞は少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、皐月の元へと這い寄ると、にぃ、と笑ってみせた。彼女の犬歯があるべき場所には、長く鋭い、牙めいた歯が生えていた。

 このタイミングで牙を見せてくるということには、嫌な予感しかしない。まさか、テレビで見た大蛇みたく、丸呑みに?

 そんなことが思い浮かぶと、霞の金色の瞳はどこか恐ろしくて。

 次第に目の前が暗転していった。


「おお、大丈夫じゃったか」

 目を開けると、そこには霞の顔があった。心配そうな顔で、こちらを覗き込んでいる。後頭部にひんやりとした感触がある。それを確かめようと上体を起こそうとしたら、霞がそれを止めてきた。

「しばらく気を失っておったのじゃ。もう少しゆっくりせい」

「気を失ってた?」

「そうじゃ。……ちと、驚かせすぎたかの。すまなんだ」

 霞は申し訳なさそうに額を掻いた。その表情と仕草は本当に悪く思っているようで、どうやら自分の心配は杞憂だったようだ。

 というか、その仕草を見ていると、悪い人―人というのも変かも―ではなさそうだ。そういえば、お化け、なんて言ってしまったとき、霞は少し寂しそうな顔をしていた。確かに、誰でもお化け呼ばわりされては、いい気はしないだろう。ましてや人と違う外見を持つ霞だ。そう考えてみれば、彼女には悪いことをしてしまったのかもしれない。

「……あの、霞さん」

「うん?」

「さっきはその、ごめんなさい。その……凄く、怖がったりなんか、しちゃって」

「……気にするでない。怖がられることには慣れておるよ」

 霞は優しい声と共に、皐月の頭を撫でた。それはなんだか恥ずかしくて。

「な、撫でないでよ」

 なんて呟いて、顔を横に向ける。すると、緑色のものが目に入った。まさか、後頭部のひんやりしたものって。こっそりと触ってみる。それはすべすべしていて、ひんやりしていて。

 これは、霞の脚なのか。だとすれば、今の状況は。

 膝枕。

「~~~ッ!?」

 この状況を確認してから、一気に胸の鼓動が高まったのを感じた。顔、赤くなってるだろうな。

 恥ずかしくて、慌てて跳ね起きる。霞はその様子を怪訝そうに見つめていた。

「どうかしたか?」

「べ、別に、なんともないよ」

「随分と顔が赤いが……ははん」

 やっぱり。霞が悪戯っぽく笑う。

「さては膝枕に照れおったな?」

 図星。

「そ、そんなことないよっ!」

「そう否定せずともよい。顔に書いておるぞ。全く、からかい甲斐があるのう」

「うー……」

 霞はまだ笑っている。なんだか恥ずかしくて、ついついむくれてしまう。

 そういえば、ついさっきまでは霞のことを怖く思っていたが、今ではそんな印象はない。まだちょっとだけドキドキしているが、これは怖さというよりも恥ずかしさだと思う。

「はは、すまぬすまぬ。反応が面白うてのう」

 霞はひとしきりくすくすと笑った後、自分の目の前を指差した。ここに座れということか。とりあえず、霞の正面に座ってみると、彼女は頭を下げてきた。

「久々に他人と話して、少々はしゃぎすぎてしもうた。いや、面目ない」

「い、いいよ、別に。終わったことだし……」

 皐月としても先程までのことは忘れてしまいたい。気を失ったのは情けないし、膝枕されていたのは恥ずかしいし。

「……それにしても、このような昼間にここに来るとはな。そなた、この辺りの人間ではないのう?」

「え? うん、ちょっと前に引っ越してきたばっかりだけど」

「じゃろうな。この辺りの人間なら、ここにはそうそう来ぬからのう」

「……なんで?」

「それは、わしの体を見ればわかるじゃろう?」

 霞が自分の脚を指差した。蛇の胴体。確かに、霞のような存在がここにいるということをあらかじめ知っていたなら、自分もここには来なかったと思う。元々、怖いのは苦手なのだ。

「……うん。ごめんなさい」

「何を謝る必要がある。事実じゃよ」

 霞はくすくすと笑った。霞と実際に話してみれば、彼女は恐ろしい存在ではない、ということがはっきりとわかった。霞は悪い人ではないと思うし、気絶してしまった自分を介抱してくれたあたり、むしろ優しい人だと思う。それでも外見で損をしている部分は大きいのだろう。

「たまに、知り合いが来てくれるのじゃがな。それ以外でここを訪れる者など、肝試し目的の連中ばかりじゃ。最近はそれも来ぬな。まったく、根性無しが増えたものよ」

 確かに、肝試しで霞を見てしまったら、凄く驚くと思う。先程は実際に気絶してしまったのだから。

「それでも、先の戦争が終わる頃までは、親しゅうしてくれる者がおったのじゃがな」

 戦争というと、太平洋戦争のことだろうか。数日前にテレビで特番をやっていたな。そして、終戦記念日に合わせて毎年同じアニメをやっている。そして毎年同じ場面で姉弟揃って泣いてしまう。ともかく、霞の外見は戦争を経験したような年齢には見えない。二十代半ば、といったところだろうか。

「え、戦争って、五十年以上前のことだよ?」

「もうそんなに経つのか。……どうした、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」

「いや、霞さん、おばあさんには見えないな、って……」

「これ、女性に年齢のことを聞くでない。失礼じゃぞ」

 霞はくすくすと笑って、皐月の頭をこつん、と叩く。

「……あ、ごめんなさい」

「よいよい。わしは年を取らぬのじゃ。それにしても、若すぎず年寄りすぎず、ちょうどよいところで止まってくれたものよ」

 霞が自慢げに髪をかき上げる。まぁ、霞は美人だから、どんな年齢でも大丈夫だと思うが。

「さて、話が変わってしもうたの。何じゃ、戦争が終わった頃かのう。ここらで人さらいがあったのじゃ」

  霞は年を取らないというのも気になるが、元々の話も気になる。

「人さらい?」

「戦争が終わって、色々と物騒じゃったからな。それがわしのせいにされてしもうてのう。なんでも、西洋には蛇女が子供をさらうという言い伝えがあるようじゃし。無論、わしはやっておらぬ。じゃが、反論するのも面倒になってな。それ以来、子供はここに近づかぬようになった。親も子供が可愛いのじゃ。仕方のないことじゃよ」

 霞はどこか寂しそうに語った。その声色からは嘘の臭いはしない。

「……かわいそう、だね」

「仕方のないことじゃよ。何せこの身体じゃ。何もせぬと言うても、説得力はなかろうて。皆、驚くばかりじゃよ。先程の皐月のように、な」

 そんなことを言われると、怖がってしまったのが申し訳なく思えてくる。

「……ごめ」

 そこまで口にしたところで、霞は皐月の言葉を遮るかのように人差し指を立てた。

「先程から言うておろう。謝る必要などない。それに、皐月はわしとこうして話してくれておる。それだけで十分じゃよ」

 霞はもう一度笑う。それは先程までのからかうような笑いではなく、どこか嬉しそうな笑みだった。

「こうして他人と話すのは久し振りでな。あんまり嬉しゅうて、ちぃとはしゃぎすぎてしもうたのじゃよ。もう一度謝ろう。先程はすまぬ」

「……べ、別に、気にしてないよ。オレも、久し振りに他人と話したりなんかしたら、ついついはしゃいじゃいそうだし」

 気にしてない。その一言で、霞の笑みには安心感が混じった。その表情に嘘偽りは見えず、純粋に喜んでくれているようだ。

 やっぱり、霞は悪い人だとは思えない。

 それなのに、見た目と事件のせいで、誰も会いに来ることはない。たまに来るのは自分を怖がりに来る人だけ。もし自分がそんな境遇に追い込まれたら、到底耐えられそうにない。霞は笑っていたが、その笑みには寂しさが混ざっていたようだったし、本当は凄く寂しかったんじゃないのだろうか。

 それに、霞の境遇は、話し相手が家族以外に居ない自分とよく似ている。

 実際に話してみるとなんだか楽しかったし、せっかくだから――。

「……あの、霞さん」

「うん?」

 霞が小首を傾げた。その仕草はなんだか可愛らしくて、少しだけ目を奪われた。

「あの、明日も……来ていい?」

「明日も? 別に……構わぬが。どうしてじゃ?」

「どうしてって……その、家にいてもヒマだし」

「……それだけか?」

 霞は言葉の続きを待っている。確かに理由はもう一つあるし、そちらのほうが大きい。だが、それを言うのは恥ずかしい。やっぱり暇だという理由にしておけばよかった。

 だけど、暇だけだって理由だと、暇潰しに来るものだと思われるかもしれない。それか、同情によるものと思われるかもしれない。それは嫌だ。

 霞のことが可哀想だという思いはあるが、それは二の次、三の次。

 ……ええい、ままよ。

「……霞さんが、オレのことをからかってるとき。そのときはとっても楽しそうだった。だけど、昔のことを話してるとき。そのときはとっても寂しそうだった。だから……」

「……だから?」

 霞は言葉の続きを促している。これははぐらかせない。ああもう、恥ずかしいったらない。

「……オレも、一人ぼっちは嫌だから。霞さんも、嫌なんだろうな、って思う。自分が嫌なことは、他人も嫌だと思うから。だから、霞さんの、話し相手に、なりたいな、って。そう思ったから」

 なんとか言い切った。訳わかんなくなって、変なこと言ってないかな。

 霞の反応を伺ってみれば、なんだか所在なさげに目を逸らし、頬を掻いている。

「……なるほど。変わり者じゃの、そなたは」

「……う」

 変わり者。確かにそうかもしれない。なんだか恥ずかしくなって俯くと、頬にひんやりとした感覚。皐月の頬を包み込んでいるのは、霞の両手。それは、ひんやりしていて、すべすべしていて、皐月の上気した頬には気持ちよかった。

 霞はそのまま皐月の顔を持ち上げて、視線を合わせる。彼女の金色の瞳は綺麗だった。薄暗いせいか、縦長の瞳孔が広がっている。

「じゃが、嬉しいぞ。たとえ気持ちだけであったとしても、な」

 霞が微笑む。その声は嬉しそうだ。嫌な思いはさせていないようで、まずは一安心。そして、皐月の思いは気持ちだけなんかじゃない。

「気持ちだけなんかじゃないよ。……約束する」

 指きりのつもりで、右手の小指を出す。霞はしばらくその小指を見つめたあと、意図を察したのか、笑顔を浮かべた。そして、同じく右手の小指を絡めてくる。

 霞の細くすべすべした指。少しどきりとした。

「……えっと、ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーら、はーりせーんぼーん、のーます」

 節に合わせて腕を上下させる。指きりなんかしばらくやってないな。何年ぶりかな。

「ゆーびきーった!」

 その一言に合わせて、手を離す。霞はその指をしばらく見つめていた。なんだか嬉しそうに、頬を緩めて。

「……霞さん、どうかした?」

「いいや、なんでもない」

 霞が微笑んでいるのを見るのは、なんだかとても嬉しい。そして、霞はやっぱり美人だと思う。流石にテレビ越しに見る女優やアイドルほどではないと思うが、生で見てきた女性のなかでは一番美人なのではないだろうか。下半身は置いておいて。

 嬉しそうな霞を少しどきどきしつつ見ていたら、夕焼け小焼けのメロディーが聞こえてきた。

 十七時だ。

「……む、もう夕方か」

「わかるの?」

「何年ここにおると思っておる。あの音が聞こえれば夕方。それぐらい気付くわ」

 霞が得意げに胸を張った。自分が言うのもなんだけど、こういうところはちょっと子供っぽいかも。

「そろそろ帰ったほうが良いのではないか? 家の者も心配しておるじゃろう」

「そうだね」

 父はともかく、姉は帰ってきているだろう。確かにそろそろ帰らなければ。

「それにしても、随分と長いこと気絶しておったのう」

「その話はもういいでしょ!」

 気絶したのは恥ずかしいし、介抱してもらったのは恥ずかしいし。皐月としては忘れてしまいたい。

「ははは、すまぬすまぬ」

 霞が口元を押さえてくすくすと笑った。

「これだけは言っとくけど、今は怖くないからね。……じゃあ、また明日ね」

 誤解されたくないので、一言だけ付け加えておく。霞のことは、今では全然怖くないし、不気味でもない。彼女は外見こそ人間と異なるが、中身は人間と変わらないのだ。人を外見で判断するのは良くないことである。

「うむ。……『また明日』な」

 荷物を持って、祠を出る。夏の陽は長い。まだ明るく、蝉の声もまだ聞こえる。

 階段を少し降りたところで振り返ると、霞が見送ってくれていた。

 目が合うと、霞は恥ずかしそうに目を逸らした。


 帰りがけに小学校の時計台を確認してみたら、十七時三十分だった。なら、自宅に着いた今は四十分過ぎぐらいか。駐輪場には姉の自転車もあった―彼女は学校行きのバス停まで自転車で行っている―。

「ただいまー」

 鍵は開いていた。台所では、姉の弥生が夕食の準備をしている。彼女は三歳年上の高校一年生。部活は声楽部。三月三十一日に産まれたので、戸籍上では四月二日産まれとなっている。早生まれはかわいそう、という理由らしい。皐月と同じく、癖毛混じりのショートヘア。背は高くて細身である。容姿は中の上程度だ。親戚が言うには、皐月と結構似ているらしい。実感は湧かないが。

 六年前に母親を亡くしてから、弥生は祖母と協力して如月家の家事をやっていた。父の実家を離れ、こちらに引っ越した今となってからは、完全に彼女一人で家事をやっている。小さい頃から家事を手伝っていただけあって、今ではずいぶんと手馴れたものだ。

「おかえりー。珍しく外に出てたじゃない。どこ行ってたの?」

「小学校の場所確認して、あとはそのへんブラブラしてた」

 ペットボトルに残っていた麦茶を飲み干すと、容器を洗って、空のペットボトル置き場に置いておく。その横にはラベルを剥がしたペットボトルが何本か並んでいる。ちょっと貧乏臭い気がするが、さっきみたいなちょっとした外出などで役に立っているので文句は言えない。

「今まで引きこもってたのにね。どういう心境の変化?」

「引きこもりゆーな」

 まぁ、引きこもり状態だったことに間違いはないのだが、他人に言われるとちょっとイラッとする。

「そういえばさ、出かけたんなら、千歳ちゃんには会った?」

「ちとせ?」

「そ。覚えてない?」

 千歳という名前には覚えがある。若宮千歳。昔、近所のアパートに住んでいた同じ歳の女の子だ。言うならば幼馴染。大人しくて引っ込み思案な性格のうえ、母子家庭だったので、からかわれていたことも多かった。そこに助け舟を出す程度には仲が良く、遊ぶ機会も多かった。そんなわけで、顔はぼんやりと、名前ははっきりと覚えている。

 彼女は小学二年生の頃に母親の仕事の都合で引越し、それからしばらく文通をしていたが、じきに途絶えた。そういえば、引越し先は辛木だった記憶がある。

「千歳って、若宮さんとこのちーちゃん?」

「そうそう。あの子、割と最近にお母さんが再婚したそうなのよ」

「へぇ。じゃあ苗字変わったの?」

「うん。千代田、って苗字」

「それ、お隣さんじゃん!」

 思いっきり出会っていた。如月なんて姓は滅多にないから、向こうは気付いてたんだろうな。声でもかけてくれればよかったのに。

 まぁ、彼女は人見知りな部分があったので、声をかけてこなかったのもわかる。彼女の性格があまり変わっていないことに、ちょっと安心している自分がいた。

「あたしも最近知ったの。父さん教えてくれなかったんだもん」

「そっか、あれ、ちーちゃんか」

「何だ、会ってたの」

「昼間にちょっと。挨拶だけしたけど。今度会ったら声かけてみようかな」

「それがいいわよ。何せ、あんた達、仲良かったもんね」

 よく一緒に遊んでいた昔のことを思い出したのか、弥生がくすくすと笑った。当人があまり覚えていないことをよく覚えているものだ。

 弥生が台所のほうを向いたので、夕飯まで時間を潰すとしよう。新聞のテレビ欄を見ると、今日は野球中継も、面白い番組もやっていないので、夕飯までゲームをやってもいいだろう。ビデオデッキの隣から本体を取り出して、テレビの正面にコンポジットケーブルを繋ぐ。カセットは挿さったままだ。

「鯖をー、味噌でー、煮ちゃーうのー」

 台所からは弥生の歌が聞こえてきた。彼女は料理中に適当な自作の歌を歌う癖がある。声楽部なだけあって、歌は上手いと思うが、作詞作曲のセンスがあるかというと、首を傾げざるを得ない。

 というか夕飯は鯖の味噌煮か。

「るーるるー。お味噌ー、お味噌ー、おーみーそー」

「味噌言い過ぎだよ」

 やけに上機嫌であるが、弥生はいつもこんな感じである。つっこむだけ無駄なので、ゲームをやろう。電源を入れると、音声は聞こえるが、画面はちらついている。最近よくある症状だ。

「やっぱ一回端子抜くとダメだなぁ」

 黄色の端子の下にティッシュペーパーの塊を挟んで、接触具合を微調整する。少し触ると、タイトル画面が映った。いい加減に新しいケーブルを買ってもらおう。

 タイトル画面でボタンを押すと、セーブデータ画面。三つあるセーブデータのうち、皐月のデータはある。父のデータもある。だが、一番上の弥生のデータは消えていた。

 このロムはどうも外れらしい。新品で買ったというのに、データが消えるのはこれで三度目だ。それも、どれも弥生のデータ。

「……あの、お姉ちゃん」

「なァーにー?」

「お姉ちゃんのデータ、また消えてる」

 その言葉を聞いた瞬間、弥生の歌声は止まった。

「さっちゃん。どうやらあたしはあんたを殺さねばならないようね」

 弥生が料理の手を止め、こちらに包丁を向ける。

「オレのせいじゃないだろ!? っていうかそれ、包丁持ったまま言う台詞じゃないって!」

 その日の夕食は、皐月のおかずだけ妙に少なかった。

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