そのに
「しゅっぱーつ!」
チコリーはふわりと風に乗ります。
ママがガーデニングに凝っているので庭は年中で花いっぱい。
空を見上げると、文句なしの快晴です。今日は梅雨の晴れ間だそう。
中学校への道は分かっているつもりになっていますが、チコリーは可哀想なほど方向音痴。
でも、本人はそれを自覚していません。
鼻歌まじりに庭を飛んでいると、三橋家の門をくぐって誰かが入ってきました。
お隣の橘家の長女、
「よお。どこ行くんだ?」
君香はひょいっと指でチコリーの背中をつまみあげました。
「やーめーてー! 私はこれからせん、じゃない、いそがしいの! 大学をずる休みしてる君香とは違うの!」
チコリーは両手を振り回して暴れ出します。
「ずる休みじゃなくて休講な。そうかそうか。忙しいならしかたがないなあ。じゃあ、これもいらないか」
君香はそう言うとチコリーを離し、ポケットの中から何やら取り出しました。
袋に入ったクッキーを見るや否や、チコリーの目がきらきらと輝きます。
「ほしいっ!」
チコリーは両手を頭上高く上げ、君香の掌の上でぴょんぴょんと跳ねました。
「いいよ。昨夜、妹が大量に焼いてたからもらったんだ。まだまだいっぱいあるぞー」
君香はそう言いながら星の形のクッキーを小さく割り、「少しづつ食えよ」とチコリーに渡します。
「ありがとう!」
チコリーはクッキ―のひとかけらだけを残し、後はポシェットの中へ。
「散歩か?」
早速クッキーを食べ始めた妖精に、君香は尋ねます。
チコリーは思い出したようにこう言いました。
「そうだ! 昨日まで健太、ため息ばーっかりついてたの! でもね、昨日、学校から帰ってきたら何事もなかったみたいに元気になったんだ」
君香は妖精の話を黙って聞いています。
「だから中学校に潜入して何があったか調べるの。君香は何か知ってる?」
チコリーが小首を傾げると君香は少しだけ考えてから、一人頷きます。
「よし。頑張ってこーい!」
君香に言われてチコリーは、「何かあるんだね!」と目をきらきらと輝かせ、クッキーを一気に平らげました。
それから、中学の方向へ飛び立ちます。
「そっちじゃねえ! あっち!」
大声で君香が呼ぶので、チコリーは振り向きます。君香が指をさしていたのは、目指そうとしていた方角とは正反対。
「あー、そうそう。そうだった。まちがえちゃった。いってくるねー!」
チコリーはとびきりの決め顔を君香に見せ、今度こそ飛び立ちました。
家の門をくぐり、住宅街を抜けると商店街が見えてきます。
道の両脇にずらりと並ぶさまざまな店は、チコリーの動きを止めるのにはぴったり。
まず、チコリーを誘惑してきたのは、『ひゃっきん』でした。
お菓子の柄のマスキングテープがずっと気になっていたので、店を見た途端、彼女は本来の目的も忘れて自動ドアへ近づきます。
しかし、自動ドアはチコリーに反応しません。
「はっ?! だめだめ!」
チコリーは我に返り、頭をぷるぷる振ると、慌てて『ひゃっきん』から離れました。
「ふう、危なかった」
額の汗を拭い、妖精は再び飛び立とうとして、ぴたりと停止。
『ひゃっきん』の斜め向かいにあるカラフルな外観の店からは、甘い香りが漂ってきます。
それは、キャンディーやグミなどを量り売りしているお菓子屋さん。
以前、ここでママに買ってもらったグミを魔法で大きくしていっぱい食べようと思ったら、失敗してグミがどんどん巨大化して死にかけたこともありました。
そんなことがあったものの、あの味は忘れられません。
チコリーはごくりと唾を飲み込み、そちらに飛んでいき、ドアの前で動きを止めます。
ドアには札がかかっており『定休日』と書かれてありました。
「なぁーんだ」と言いつつ、チコリーはよだれを拭いました。頬についたままだったクッキーの欠片がぽろりと地面に落ちます。
この危険地帯を過ぎてしまえば誘惑はありません。あとは八百屋、魚屋、肉屋などしかないのですから。
チコリーはお菓子が主食なのです。
「よお、チコリー。前にあげた人参の葉っぱ、使い心地はどうだった?」
そう声をかけてきたのは、八百屋の親父。
「とっても役に立ったよ。消しゴムのカスを掃除するのに重宝してる」
チコリーの言葉に「そりゃあ良かった!」と親父はうれしそうに笑います。
「あら。チコリーちゃん。今日は一人なの?」
お買い物中の奥さんにも声をかけられました。顔なじみの人です。
チコリーは大きく頷くと、ご機嫌で口を開きます。
「うん。ちょっと健太の――」
チコリーはそこまで言うとハッとして口で両手を覆いました。内緒のミッションはあまりべらべらと人に話すものではありません。
「私、急ぐの! また来るね!」
チコリーはそれだけ言うと、八百屋の親父と奥さんに手を振って飛び立ちました。
太陽の光を浴びてブローチがきらりと光りました。まるで勲章のよう。
どんな宝石よりもぴかぴかできれいで、これをつけているとカラスにさらわれるのではないかとひやひやします。
でも、そんなハラハラ感が冒険っぽさを醸し出しているとチコリーは思うのです。
チコリーはご機嫌で商店街をぐんぐんと進んでいきました。
商店街を出たところで、ふと思いつきます。
「もっと、秘密っぽい道を進もう!」
チコリーは名案を閃き、大通りから外れた道を進むことに決めました。
無自覚な方向オンチは、無敵でもありますが、無謀もであるのです。
ブロック塀に囲まれた古びたアパートが立ち並ぶ通りを過ぎ、線路のすぐそばを進むと、住宅街と川に挟まれた道に出ます。
チコリーは辺りをキョロキョロと見回します。
三橋家のある住宅街とは違い、こちらは年季の入った家がずらりと並んでいました。
彼女は今、自分がどこを飛んでいるのかさっぱり分かりません。
普段は健太の肩の上かお母さんのバッグの中なので、眠っていても目的地に着いてしまいます。
でも、チコリーは『普段から周囲の景色を観察しているから、迷わない』という謎の自信がありました。これも方向オンチ特有の思考。
「うーん。何だか見たことのない景色になってきたなあ」
チコリーは辺りを見回しながらそう呟きました。
道端で老人が立ち話をしていたり、庭の花を手入れする中年男性がいたりと馴染みのない風景が広がっています。
チコリーは急に不安になって、住宅街を素早く通り抜けようとしました。
とにかくここさえ抜ければ何とかなると思っているのですね。
ふわりふわりと飛んでいる妖精の姿を見て、老人たちは「とうとうお迎えが来たんじゃ」と呟きます。
老人達の不安を帯びた視線を一身に浴びながら、チコリーは住宅街の切れ目を見つけました。
ようやく見知らぬ住宅街を出て、勝手にこっちが北と決めつけた方角をぐんぐん進みます。
☆
さすがに飛び疲れて休憩をすることにしました。
たまたま見かけた小さな公園に入り、ベンチの上にふわりと舞い降ります。
ポシェットからクッキーのかけらを取り出し、もくもくと食べました。その姿は食事をするリスのよう。
クッキーを食べ終えると辺りを見回します。初めて来た公園。さすがの方向オンチもちょっぴり不安になります。
「ま、いっか。中学校はあっちの方角だしね」
チコリーは自分を励ますように言って北を指さしますが、そっちは南。北(本当は南ですが)を目指せば、中学校にたどり着けるのだと思い込んでいます。
お腹がいっぱいになるとチコリーは大きなあくびをしました。
ちょうどベンチは木陰になっているので、ここだけ涼しくて気持ちが良いのでしょう。
二度目のあくびをすると、チコリーの瞼は重くなってきます。
ちょっとだけ、ちょっとだけ眠ってもいいか。
チコリーはそう自分を甘やかして、躊躇なく夢の中へダイブしました。
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