第百三十七回 晋漢は兵を退けんことを議す

 成都王せいとおう司馬穎しばえい五鹿墟ごろくきょで漢軍に決戦を挑むにあたり、諸将が憤激する様を見て勝利を確信していた。将兵ともに勇躍して軍を進めたものの漢軍の猛攻を支えきれず敗北を喫し、その衝撃により病床について軍務を執れない有様となった。

 そのため、戦より三日が過ぎても諸王侯さえ謁見できず、晋軍の中では流言蜚語りゅうげんひごが湧いて人心が不安定になりつつある。

 陸機りくきは諸王侯が心を離して軍勢が霧散することを懸念し、病床の成都王に言上する。

「漢賊は変わらず郡境にあって挑発をつづけております。しかし、大王の病臥びょうがにより吾らが出戦せぬゆえ、先の敗戦に怯えていると漢賊どものわらいを受けております。これでは士気にも影響いたします。そのうえ、諸王侯の間で議論が紛々と沸き起こっており、一旦に離心すれば盟約も忘れ、それぞれに鎮所に引き上げて軍勢が霧散するに至りましょう。そのような事態に陥れば、大王は洛陽らくように戻って聖上と齊王せいおう司馬冏しばけい)にどのように復命ふくめいなさるおつもりですか」

は怠っているわけではない。百十万の大軍と三百余の上将を率いてわずか二、三十万の漢賊を平らげられず、攻めれば挫かれて敗戦を重ね、何らの功績も建てておらぬ。これまでの戦を顧みて慙愧ざんきの念を如何ともしがたく、懊悩おうのうして方策を定められぬのだ」

 成都王の言葉を受けて陸機が言う。

「それならばこそ、すみやかに陣頭に出て将兵の心を落ち着かせ、軍中に蔓延する懈怠けたいの気を打ち払われるべきです。勝敗は兵家の常、必勝などというものは存在いたしません。兵法では『敗北は勝利のきざし、勝利は敗北の兆し』と申します。幾ばくかの敗戦を経たとて漢賊もまた多くの兵馬を喪っており、吾が軍勢はいまだ漢賊に四倍します。何ゆえに自ら勝てぬと思い込んで弱気になっておられるのですか」

 陸機に励まされた成都王は戎衣じゅういを纏うと将兵に臨んで訓令し、諸将を召して軍議を開く。

「孤はいささか病みついて軍務を執れなかった。今や漢賊は猖獗しょうけつを極めており、にわかに一掃することは難しい。事態を破る奇謀を諸王侯より求めたい。劇賊どもを平らげる謀計があれば、誰であろうと慎み隠すことなく申し述べよ。これは孤の一身に関わるだけでなく、天下国家の利害に関わる。漢賊の平定は永く偉業として称賛されることとなろう」

 青州せいしゅう刺史の苟晞こうきが進み出て言う。

「今や季節は仲夏ちゅうか(旧暦五月)に入り、炎熱の時候となりました。兵を用いるべき時節ではございません。無辜むこの民への酷害を禁じることを条件に漢賊と和睦してしばらく将兵を休めるべきです。その後、涼秋を待ってふたたび軍勢を発し、漢賊と雌雄を決するのがよろしいでしょう。また、和睦がなった際には、張賓ちょうひん諸葛宣于しょかつせんうが禁じたところで賊将どもは追撃してくるでしょう。ここから三十里(約16.8km)ほどのところに高鶏泊こうけいはくという地があります。下草は深く木々が茂って林をなし、伏兵を置くに適しております。そこに火器火薬と兵士を潜ませて待ちうけ、漢賊が攻め寄せてくれば一斉に起って火を放ち、混乱したところを四方から討つのが上策です。王彌おうび劉霊りゅうれい劉曜りゅうよう石勒せきろくどもに孟賁もうふん烏獲うかくの勇があろうとも吾らの包囲を破れますまい」

▼「高鶏泊」は『旧唐書くとうじょ竇建德傳とうけんとくでんに「我れの聞くならく、『高雞泊は 廣袤こうぼう數百里,葭薍からんは奥を阻む』と」という一文があり、山東さんとうの飢饉に乗じて潜伏に都合がよいと述べられている。東西(広)南北(袤)数百里に渡る葦や荻が生える湿地帯が広がっていた。

▼「烏獲」は秦の武王に仕えた力士、通常は「烏獲の力」で大力を言う。『史記しき秦本紀しんほんぎには「武王は力有りて戲を好み、力士の任鄙じんぴ、烏獲、孟說もうえつは皆な大官に至れり」とある。

道将どうしょう(苟晞、道将は字)の高才は常人の及ぶところではない。この計略によれば奇功を挙げられよう」

 成都王は即座に和睦を求める書状を認めると漢の軍勢に人を遣わす。

「時候は炎天の夏になり、疫病がまさに起ころうとしている。両軍は戦を止めて軍勢を返し、夏の酷暑を避けるべきである。これはただ吾が軍の利のみならず、両軍将兵の生命に関わる。この申し出を受けて同じるのであれば、吾が軍は即日にぎょうに軍勢を引き上げる。よくよく熟慮して回答せよ」


 ※


 劉聰りゅうそうは書状を一読すると諸将を集めて協議に入る。

「たしかに炎熱の時候となり、この時期の野営進軍は兵法の禁忌とされている。晋軍からの申し出は渡りに舟、受けるのが吉であろう」

 劉聰の言葉を聞いた諸葛宣于が進み出て言う。

「この申し出は二つの理があります。受けるのがよろしいでしょう」

 傍らより一部の将帥が異見を出す。

「成都王は吾らを一呑みにしようと侮っていたところにたびたびの敗戦を喫し、愕いて和睦を求めているのです」

「これは吾らを畏れてのことではなく、晋の朝廷に事があったのやも知れませぬ。しばらく和議を容れて懈怠を待ち、その隙に攻めかかれば大勝を得られましょう」

 劉聰は笑って言う。

「まだこの和睦の全貌が見えておらぬな。軍師と吾にはまた別の姿が見えておるのだ」

 漢より晋への返書は次のようなものであった。

「大王の軍勢が鄴に退かれた後、吾らも軍勢を平陽へいように返して異心を持ちますまい」

 使者が晋の軍営に戻ると、成都王に返書を呈して言う。

「劉聰は和睦を受け入れましたものの諸将がそれに反対し、ついに諸葛宣于が劉聰に賛成したことで和睦に決した次第でございます」

 返書を一読すると成都王は陸機と苟晞を召して言う。

「劉聰は大略に通じており、和睦を受け入れたという。しかし、賊将どもはこれを僥倖ぎょうこうとして詭計を企てていよう。必ずや約定を破って追撃して来る。王彌、劉霊、劉曜、石勒の四賊はもっとも戦意盛んなるがゆえ、吾らの計略に陥ろう。元帥は急ぎ軍勢を発して埋伏を整えよ。本軍は準備を終えた後に陣を払って退く」

 陸機はすぐさま北宮純ほくきゅうじゅん宋配そうはい王昌おうしょう胡矩こく朱伺しゅし童奇どうき没骨態ぼつこつたい獨孤雄どくこゆうたち四路の軍勢を発して高鶏泊の西のくさむらに伏せ、さらに包廷ほうてい周并しゅうへいの二将とその軍勢を泊中に伏せて備えさせる。それらの将兵には漢軍が伏所に入った後、四面の草木に火を放つよう言い含めた。

 五路の軍勢が高鶏泊に向かった後、さらに石超せきちょう牽秀けんしゅう郅輔しつほ林成りんせい晋邈しんばく息援そくえん許雄きょゆう衙博がはくが率いる四軍を高鶏泊の東の林に伏せるよう命じる。皮初ひしょ夏暘かようが率いる軍勢も、包廷と周并の軍勢に対する形で同じく泊中に伏せる。これも漢軍を見れば草木に火を放つ任を与えられた。

 すべての軍勢が伏所に向かった後、苟晞は長沙王ちょうさおう司馬乂しばがい)と東海王とうかいおう司馬越しばえつ)の軍勢を率いて遊軍となる。残る成都王は張方ちょうほう祁弘きこうの両先鋒と諸王侯を率いて陣を払い、殿軍でんぐんとなった。その一方で漢の軍営に軍勢を発する旨を言い遣る。


 ※


 漢の諸将は報に接して口々に言う。

「すみやかに軍勢を発して追撃すべきです。大勝すれば、成都王をはじめとする晋の諸王侯は吾らを虎のように畏れることとなりましょう。この機会を捨ててはなりません」

 劉聰はそれを抑えて言う。

「そうではない。忠信を欠いて人は心服せぬものだ。すでに和睦を許した以上、追撃すれば信に背く。大丈夫だいじょうふは人と約すれば食言などせぬ」

 諸将は劉聰に追撃を禁じられるとうべなって退く。ただ、王彌、劉霊、劉曜、胡延攸こえんゆうの四将は幕舎への道すがら言う。

「将が外にあっては君命をも受けぬ時がある。いやしくも国家の利益になるならば、独断専行も許されているのだ。区々くくたる小信を守って大功を捨てるなど許されぬ」

 ついに劉聰の禁を破ってそれぞれ五千、都合二万の軍勢を率いると晋軍の後を追っていく。轅門えんもんの軍士たちは中軍に駆けて告げ報せ、諸葛宣于は人を遣わして止めようとするも、軍勢はすでに発して影も形もない。

 傍らの姜發きょうはつが言う。

「必ずや敵の陥穽に陥ろう。すぐさま援軍を発して救い出さねばならぬ」

 それを聞いた劉聰は不快げに突き放した。

「吾が命を破って軍勢を発したのだ。救援など無用、打ち捨てよ」

 張賓がそれを制して言う。

「そうではありません。四将は軍の総領であり、一人でも欠けば士気は地に堕ちます。それを知ればこそ陸機が軍勢を返して攻め寄せ、危機に瀕するおそれがあるのです」

 劉聰は諸将に問う。

「誰ぞ四将の救援に赴く者はあるか」

 ちょうど近くにいた石勒せきろく楊龍ようりゅう関防かんぼう胡延晏こえんあんの四将が声に応じて名乗り出る。

 劉聰は四将に軽騎を率いて後を追うよう命じ、四将は風をいて陣を発ったことであった。

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