第百三十八回 漢将は晋の伏に遭いて敗らる

 蜀漢の滅亡より四十五年を経た晋の永嘉えいか二年(三〇八)、漢の元熙げんき五年の仲夏ちゅうか五月の下旬、晋漢は五鹿墟ごろくきょに戦を交わすも酷暑の時候に入って両陣中では疫病が蔓延しはじめていた。

 これ以上の滞陣をつづけて将兵の生命を損なうことは無益であると青州せいしゅう刺史の苟晞こうきが献策し、ついに両軍は和睦して軍勢を退くこととなった。

 成都王せいとおう司馬穎しばえいをはじめとする晋の諸王侯は漢軍の追撃に備えて高鶏泊こうけいはくに伏兵を置くと、自ら殿軍でんぐんとなって陣を払い、ゆるやかに軍勢をぎょうに返していく。

 その背後では漢の四将、王彌おうび劉霊りゅうれい劉曜りゅうよう胡延攸こえんゆうが勇をたのんで追撃の軍勢を急がせる。漢の謀主の張賓ちょうひんは四将が軍を発した後にそれを知り、石勒せきろく楊龍ようりゅう関防かんぼう胡延晏こえんあんの四将を救援に差し向け、不測の難に備えた。

 諸葛宣于しょかつせんうがそれを聞いて言う。

「追撃に出た四将が伏兵に遭えば、被害は尋常ならざるものとなりましょう。すみやかに後詰ごづめの軍勢を救援に向かわせねばなりません」

 その命により張敬ちょうけい曹嶷そうぎょく夔安きあん孔萇こうちょう桃豹とうひょう黄臣こうしん関山かんざんが一万の精鋭を率いて進発し、さらに張實ちょうじつ趙概ちょうがい黄命こうめい王如おうじょ廖翀りょうちゅう胡寧こねい関心かんしんも一万の軍勢を率いて後につづいた。


 ※


 先行する王彌たちはすでに十余里を進んでなお晋軍の後尾を見ず、さらに軍を急がせる。その時、砲声が天に響いて張方ちょうほう祁弘きこうの伏兵が前を阻んだ。

「王彌に劉霊、すでに和睦がなったにも関わらず、約を踏みにじって奇襲をかけるとは、人の信など微塵もない狗畜生いぬちくしょうめが。お前たち胡虜こりょの性など測らずとも明らか、吾らはお前たちを阻むためにここに備えておったわ。早く軍勢を返して和睦の約定を全うし、人にわらわれぬようにするがよい」

 張方の悪罵に王彌と劉霊が罵り返す。

「お前たちは吾らを畏れて逃げ出したまで、和睦などであるものか。妄言を叩くな」

 すぐさま馬をって攻めかかる。晋の副将の馬瞻ばせん孫緯そんいも馬を出して迎え撃ち、そこに石勒と関防たち、ついで張敬と黄臣たちも追いついた。

 晋の四将は漢将の多勢に懼れをなした風を装い、高鶏泊を指して軍勢を退く。

 王彌たち四将は馬に鞭して後を追い、そこに姜飛きょうひが駆けつけて叫んだ。

「軍師のご命令だ。晋軍は必ずや重ねて伏兵を置いており、その陥穽に落ちるなとのことだ。逃げる晋兵は打ち捨てて兵を返せ」

 四将は制止も聞かず馬を馳せ、駆け去っていく。劉曜が馬上で独語する。

「晋兵が吾らを計るならば伏兵を置くより他にない。懼れるに足りぬ」

 やむを得ず関防たちも馬を拍って後につづく。五、六里(2.8~3.3km)も進んだ頃には道の両側は草木が盛んに茂って見通しが利かず、伏兵を埋めるに頃合の場所に追い到った。

 劉曜が叫んで言う。

「そこに伏兵がいるぞ。諸将は馬を止めて先に進むな。先鋒は注意されよ」

 その言葉が終わらぬうちに砲声が天に響いた。


 ※


 伏兵を予想していた漢兵は素早く退いたものの、すでに背後の草木が燃え上がっている。火勢は凄まじく火焔は天を突くかと見紛みまがうほど、道の両側には山が迫り、左右の逃げ道もない。

 王彌たちは意を決して前に進み、衝き抜けんと図る。

 今や晋の伏兵も姿を現した。石超せきちょう牽秀けんしゅうは張敬と夔安を阻み、息援そくえん晋邈しんばくは黄臣と曹嶷を食い止め、許雄きょゆう衙博がはくは関謹と楊龍に相対し、郅輔しつほ林成りんせいは孔萇と桃豹を迎え撃つ。さらに皮初ひしょ夏暘かようの騎兵が汲桑きゅうそう楊興寶ようこうほうの歩戦を封じる。

 そこに張方と祁弘が諸将を率いて前方より攻め寄せ、王彌、劉霊、劉曜、石勒、関防、楊龍、胡延攸、胡延晏、姜飛たちが先頭に立って迎え撃つ。高鶏泊の西からは晋の副将の葉榮しょうえい龔同きょうどうが攻め寄せてそれを呉豫ごよ趙鹿ちょうろくが押し止める。

▼「龔同」は『通俗』『後傳』ともに「襲用」とするが、誤りと見て改めた。

 張實、黄命たちが加勢に駆けつけたものの、北宮純ほくきゅうじゅん朱伺しゅし王昌おうしょう没骨態ぼつこつたい包廷ほうてい周并しゅうへいに防がれて踏み込めない。東西の両口に晋漢の将が入り乱れた乱戦となり、馬蹄ばていが揚げる塵埃じんあいで草木の色も覆い隠された。

 漢将が奮戦して支える間に後詰の大軍が到来せぬかと懸念し、苟晞こうきは十人の晋将を加勢に差し向ける。晋将たちは四方に散ると縦横に駆けて乱戦の巷を掻き回した。

 漢将たちは火が林を舐め尽くす前に火が及ばない谷間に身を避け、攻撃に備える。


 ※


 この時、漢の軍営にある張賓と姜發は幕舎を出て東南の空を睨んでいた。火は天にいて雲を紅に染め上げている。

 それを目にした張賓は嘆息して言う。

「陸機の陥穽に嵌ったか」

 姜發は刁膺ちょうよう支雄しゆう関河かんか関山かんざん胡延顥こえんこうと二万の軍勢を率いて加勢に向かった。高鶏泊に到れば、先行していた張實たちが北宮純らの晋軍と斬り結んで路口を争っている。

 姜發が叫ぶ。

「入口でさえこれほどの火勢となれば、泊中は推して知るべしだ。晋兵を退け、味方を救い出せ」

 自ら先陣を切って晋兵に衝きかかり、張曀僕ちょういつぼく胡延模こえんぼ支屈六しくつりくたちもつづいて斬り込んだ。

 乱戦の中で胡延顥は没骨態を斬り殺し、張實は童奇どうきを突き殺す。晋の軍列が乱れると一路の道を切り拓き、漢の将兵はこぞって泊中に殺到する。

 遊軍を務める晋将の包廷はこの漢兵を阻もうとして支雄に討ち取られた。

 それより漢兵は晋兵の包囲を斬り破って谷間で闘う漢将たちを救い出す。しかし、劉曜、劉霊、張敬、呉豫の姿がない。

 姜發はそれを知って言う。

都督ととくと先鋒たちは敵の包囲に陥ったか。遅れては命が危うい。誰ぞ今すぐ救いに向かえ」

 それを聞くと、汲桑、楊興寶、胡寧の三将が走り去る。それにつづいて劉膺りゅうよう、胡延模、支屈六、趙鹿、張曀僕も駆け去った。


 ※


 呉豫たちは敵の包囲を外から崩すべく突入を繰り返し、そこに刁膺、支雄、関山たちが駆けつけて斬り込みをかける。それでも、晋兵の包囲は鉄桶のごとく緩まない。

 包囲の内では四人の漢将が死戦をつづけ、劉曜は三本の矢を身に受け、張敬は一矢で額を破られても怯むことなく晋兵たちを斬りたてる。

 苟晞は麾下の軍勢を指揮して包囲を縮め、四将の命は風前の灯火ともしびも同然となった。

 そこに外から汲桑、楊興寶、胡寧たちが軍列を乱し、張曀僕たちも馬を馳せて斬り込んでいく。にわかに崩れかかる晋の軍列の中、苟晞は包囲をつくろいながら弓弩きゅうどの斉射を命じる。

 矢箭は雨のように降り注ぎ、攻め寄せる漢軍が乱れたつ。楊興寶は身に二十を越える矢を受けた。


 ※


 苟晞の指揮が外に向いた隙を突き、劉曜は包囲の内より軍列に斬り込む。外から攻める漢軍が時とともに数を増し、苟晞は包囲の内の漢将たちを討ち取るべく馬を拍った。

 劉霊はひたすら外に向かって攻めつづけており、後を顧みる暇もない。そこに苟晞が一軍を率いて攻めかかり、鎗を振るって劉霊の左腿を一突きする。負傷した劉霊は怒って苟晞に突きかかろうとするも、苟晞は軍勢とともに退き、代わって高潤こうじゅんが迎え撃つ。

 劉霊は鎗傷の痛みに闘えず、楊興寶が駆けつけて高潤を引き受ける。高潤の一鎗が楊興寶の肩を突くも大鎚だいついの一撃を受けて馬より落ち、返す大鎚で頭蓋を砕かれ落命した。

 そこに漢将たちが駆けつけ、ともに西口を目指して落ち延びていく。

 汲桑が殿軍となって進むところ、刁膺が夏暘によりとりことされているのを目にした。たちまち駆け寄って大斧で夏暘の乗馬の脚を断ち、夏暘は大いに懼れて逃げ奔る。

 刁膺は解放されると汲桑とともに夏暘の後に追いすがるも、姫澹きたんが馬を寄せて前を阻み、夏暘を救って走り去った。


 ※


 苟晞は諸将に命を下して言う。

「漢将たちは負傷するか、そうでなければ疲弊しておる。すみやかに追撃すれば擒にできよう。勲功を立てんと欲する者は追い討ちに討て」

 宋配そうはい郭黙かくもくたちが後を追うも、石勒は周拝しゅうはいを斬り、関山が夏鎮かちんの首級をね飛ばす。反撃に怯んだ晋兵たちは軍を返して退き去った。

 苟晞が陸機りくきに問うて言う。

「勝勢に乗じて漢の軍営に夜襲をかければ劉聰りゅうそうも討ち取れよう。如何なされるか」

 陸機はその献策をなみして成都王に言う。

「功を挙げたとて深追いしてはなりません。勝敗に規則はなく、彼我の優劣は常なりません。この一戦に漢賊を打ち破れば大王の威名はあがりましょう。漳水しょうすいの戦勝にて韓陵山かんりょうさんの敗戦を雪ぎ、高鶏泊の戦勝にて五鹿墟での連敗を雪げます。漢賊は少しく将兵を損ないましたが、勇将をすべて挫いたわけではありません。自重すべきです。まずはこの勝勢により漳水を渡って凱旋し、秋を待って再挙するのが上策です」

 成都王はその言をれて諸軍を蕩陰とういんに召集した。

 蕩陰の地は広く柳林が高く茂り、水運の便もあって夏を過ごすに適していた。馬を廻らせて武芸を磨くにも好適であるため、晋の軍勢はこの地に軍営を置くと定めたことであった。

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