第百三十四回 諸葛宣于と陸機は陣を闘わす

 劉曜りゅうようの後を追って将台から下りる劉聰りゅうそう諸葛宣于しょかつせんうを顧みて言う。

陸機りくきは先に敗北を喫し、今回は吾らが攻め寄せなければ闘陣を諦め、攻め寄せれば必ずや猛将を先頭に立てて破ろうとするであろう。丞相じょうしょうも不測を警戒して晋人を軽んじぬようにされよ」

「臣は祖父より伝授を受けて陣法の秘術を網羅しております。この陣は玄妙にして敵人の予測を許しません。たとえ往日おうじつ項羽こうう伍子胥ごししょが蘇ったとて、易々とは破れますまい。太子は安心して晋軍を網中に誘い込むことに専念して下さい。網にかかった魚は臣がすべてとりことして御覧に入れます」

 劉聰は頷くと指麾にあたるべく陣に向かった。

 晋の盟主である成都王せいとおう司馬穎しばえいもまた、陸機とともに将台にあって漢の布陣を検分していた。その陣は整然として乱れがない。深く嘆息すると呟いて言う。

張賓ちょうひんの布陣は前にも増して怜悧れいりあらわし、実に良将の材といえよう。いつになればこの者を平らげられるのか」

 傍らの間諜が言う。

「今日の布陣は張賓ではなく漢賊の正軍師、右丞相ゆうじょうしょうがおこなったようです。この者は姓を諸葛、名を宣于、字を修之しゅうしといい、知略に比肩する者なき漢主の腹心であると言います。大晋の大軍を知って出馬してきたと見えます」

「それならば、必ずや諸葛孔明しょかつこうめい遺訓いくんを受けた者であろう。決して攻め込んではならぬ。諸将に伝えてみだりに攻めかからぬように厳命せねばなるまい」

 傍らの陸機が言う。

「諸葛宣于など畏れるに足りませぬ。この陣は先の八陣はちじんの図とは異なり、五行ごぎょう正運せいうんの陣と申します。しかし、太乙たいいつ一気いっき渾天こんてん太極たいきょく五法ごほうの諸陣と大同小異であり、特別な変化があるわけではありません。それに、孔明が特別に伝授した玄妙な備えがあるわけでもないようですから、破るのも難しくはありますまい。むしろ、敵陣など無視して漢賊どもを誘い出すことに専念し、吾らの陣に攻めかからせれば必ずや擒にできましょう」

 言うと、陸機は将台を下りて諸将に命じる。

「今日の戦はこれまでの戦と同じではない。漢賊には劉曜と石勒せきろくが加わっておる。これらを破った者には賞として上公の爵を授けるであろう」

 諸将は軍令を受けてそれぞれの陣についた。


 ※


 成都王は親将の石超せきちょう牽秀けんしゅうを引き連れて陣頭に進み出る。左は張方ちょうほう、右は祁弘きこうが脇を固める。漢の陣頭には劉曜が単身で立ち、劉聰の左右には張雄ちょうゆうたち数人しかいない。

 それを見た陸機が侮って言う。

「吾が雄兵百二十万、上将は三千人、この軍勢があれば山をたおし、城を踏んで平地にできよう。それにも関わらず、お前たちは畏れも知らずに挑戦する。これを頑狂がんきょうと言わずに何と言う。このようなものは勇気とは呼べず、ただ理を知らぬ者の所為に過ぎぬ。最後にお前たちに勧める。すみやかに軍勢を退いて投降せよ。さすれば、命を許して左國城さこくじょうをそのままに残し、宗祀そうしをつづけさせてやろう。いささかでも遅滞するようであれば、漳水しょうすいの戦のように多くの人命を喪うこととなろう。そうなっては悔いても及ばぬぞ」

 劉曜が罵り返す。

「吾が皇兄(劉聰)はかつて洛陽らくようにあって成都王の知遇を得たがゆえ、お前の軍勢を破るに忍びず魏縣ぎけんに退いていささかの面目を立ててやっただけのことだ。今や吾が大漢は再興して天の時に応じて人心にしたがい、向かうところに敵なく、攻めれば必ずくする。それにも関わらず、身の程を知らぬお前は吾らと勝敗を争おうというのか。今となってはお前を許さず、擒として万段に断ち割ってくれようぞ」

 成都王が怒って言う。

羯賊けつぞくの小童めが、大晋の親王を侮辱するとは礼さえ知らぬと見える。先鋒はすみやかに馬を出してこの逆賊を擒とし、叛乱の罪を正せ」

 張方は命を受けると大刀を抜きつれて漢の軍列に斬りかかり、劉曜は竹節ちくせつ銅鞭どうべんを振るって刃を食い止める。

 それより陣頭にあって刀鞭を打ち交わし、白刃は雪片のように翻って銅鞭は流星のように孤を描く。しばらく戦いがつづくうち、陣頭に立つ祁弘も鎗を引っ提げ馬を出す。

張子正ちょうしせい(張方、子正は字)よ、しばらく刀を引いて吾がこの小賊を擒とするのを待っておれ。先には日暮れにあって取り逃がしたが、今日は必ずや生きながら擒としてくれよう」

 劉曜は偽り逃れる好機と見て、祁弘が馬を寄せてくると怯えたような表情を浮かべて馬を返す。漢陣に向かって駆け出した劉曜を見るや、張方と祁弘は勇んで後に追いすがった。


 ※


 陸機も劉曜が逃げ出したと思い込み、黄旗を揚げて攻撃を命じる。

 苟晞こうき夏暘かよう陳午ちんご高潤こうじゅんたちは東陣に、王浚おうしゅん王昌おうしょう胡矩こく孫緯そんい王甲おうこうたちは北陣に、姫澹きたん李弘りこう姫巧きこう管清かんせいたちは西陣に、李矩りく夏雲かうん郭黙かくもく郭誦かくしょう駱臻らくしんたちは南陣に、それぞれ攻め寄せていく。

 張方と祁弘は劉曜を追って漢陣の中軍に斬り込もうとしていた。

 劉聰、諸葛宣于は劉曜が逃げ戻ってくるのを見ると西南角の陣に逃げ込み、劉曜もその後につづく。張方と祁弘が後を追って進むと、関謹かんきん関心かんしんが大刀を手に陣頭で士卒の乱戦を禁じている。西陣の後ろでは戦意を抑えきれない孔萇こうちょう桃豹とうひょうが軍勢を背後に二人を睨みつける。

 張方と祁弘も剛勇の猛将、周囲を数多の漢軍に囲まれても平然と西南角の陣に斬り込もうとした。

 その時、将台上の張賓が紅白の旗を揚げると、漢兵たちは弓弩きゅうどをとって射放った。ただ、矢箭を放つのみで陣から前に進もうとはしない。

 晋の二先鋒は勇を奮って漢陣の軍列に衝き入ろうとしたものの、漢兵たちは鎗先を揃えて攻め入るを許さず、まるで堅城のようにつけ入る隙がない。逆に二人が率いる軍勢は周囲より雨のように矢を射かけられ、斃れる兵が数え切れない。

 張方と祁弘に続いて漢陣に攻め込んだ四路の軍勢も、同様に漢の軍列を割れずにいた。

 そこに、漢の軍列を乱して攻め入るよう陸機からの指示が飛び、砲声を合図に五路の軍勢が一斉に攻めかかる。晋漢両軍の攻防は午の刻から未の刻(正午から午後二時)までつづいたものの、漢兵は防牌ぼうはいを並べて矢を防ぎ、無防備に攻め込んだ晋兵はかえって矢傷で死傷する者がおびただしい。

 晋将たちもつけ入る隙のない漢陣への攻撃にみ疲れ、陸機はそれを察して雍州ようしゅう刺史の劉沈りゅうちん荊州けいしゅう刺史の劉弘りゅうこう廣州こうしゅう刺史の陶侃とうかん武威ぶい太守の馬隆ばりゅう河間王かかんおう司馬顒しばぎょう)の部将の郅輔しつほを加勢に差し向ける。

 それを見た諸葛宣于が言う。

「ついに晋軍を撃滅する好機が到来したようです」

 漢陣の中、諸葛宣于の背後に一本の白旗が掲げられ、ついで将台上の張賓も同じ白旗を掲げる。漢の諸将は攻め寄せる晋軍を迎え入れるように陣形をひらき、ここまで漢の軍列を乱せなかった晋軍は吸い込まれるように攻め込でいく。

 ついで張賓が紅旗を掲げて翻した。

 間髪置かず劉霊りゅうれい王彌おうび関防かんぼう趙染ちょうせん、石勒の五軍が攻め込んだ晋軍に襲いかかり、外陣の胡延晏こえんあん姜飛きょうひ関謹かんきん関河かんか楊龍ようりゅう黄臣こうしん刁膺ちょうようの軍勢が背後を襲う。それより晋漢両軍は漢陣の際で乱戦となり、腹背に敵を受けた晋の諸軍は巨龍が戦場をのたうち回るように見えた。

 両陣営の将官たちは将台の上で固唾かたずを呑み、凄惨な戦の成り行きを見守ったことであった。

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