第百十二回 陸機は陣を布く

 緒戦に思わぬ一敗を喫した成都王せいとおう司馬穎しばえい陸機りくきに言う。

「漢賊は狡猾で戦に長けていると聞いてはおったが、噂通りの勇猛に加えて計略にも長じておる。後軍に逃れなくては討ち取られておったやも知れぬ。如何にして破るべきであろうか」

「今日の戦では吾らの将が多く兵力も懸絶しているがゆえ、漢賊の軍師の張賓ちょうひんがまともに戦わず、詭計で中軍を乱したに過ぎません。大王の御馬ぎょばを愕かせたのは将兵が防禦を誤った罪によるものです。漢賊の陣容を仔細に観れば、王彌おうび劉霊りゅうれいは匹夫の勇を誇るに過ぎず、今日の戦勝に必ずや心驕りましょう。明日、韓陵山かんりょうさんの麓に陣を布いて野戦を誘えば、王彌、劉霊をおびして生きながらとりことして御覧に入れましょう。あの二人さえ討ち取れば、劉聰りゅうそうに打つ手はなくなります」

 陸機はそう言うと、東山の上に将台を設けて諸王侯を招き、戦を観覧させることとした。その下は四方を軍勢が固めて敵の突入を許さない備えを設けている。厳重に固められた将台には張賓も詭計の施しようがない。

 成都王が言う。

「漢賊の張賓も軍の進退に長じている。油断すれば必ずや隙を狙ってくるだろう。元帥はよくよく用心して布陣し、賊を破る工夫をせよ」

「臣は元帥の重職を担っております。必ずや万端を尽くして漢賊どもを一戦に根絶し、二度と内地を侵せぬようにいたします。決して推挙の御恩に背きますまい」

「漢賊を平定すれば、元帥の功績は漢の霍光かくこうを超えて陳平ちんぺい張良ちょうりょうにも劣るまい」

 諸軍は韓陵山の麓に移り、軍営を置いて元帥の命令を待ち受ける。陸機は諸軍に命じて柵塁を設けて十六の陣地を形作らせた。

 五方ごほう四維しいを合わせた九宮の正位を分かち、さらに六丁ろくてい六甲ろくこう六辛ろくしん六壬ろくじんの二十四気に倣った二十八宿の変合の形を整える。

▼五方は方位に五行を割り当てたもの、中央に土を配し、東西南北に木金火水が割り当てられる。

▼「四維」は東西南北の間に相当し、北西をけん、南西をこん、南東をそん、北東をごんと言う。

▼「九宮」の解釈はさまざまあるが、後段を勘案すれば、中央を中宮ちゅうぐうとし、東西南北をしんかんの四宮とし、四維による乾坤巽艮の四宮を合わせて九宮と呼ぶと考えられる。つまり、五方と四維を合わせて九宮、ここでは中央と八方を合わせた九つの陣を区画したと解釈すればよい。

▼「六丁、六甲、六辛、六壬」を逐語的に考えれば、六丁、六甲はそれぞれ男女六人ずつ合わせて十二の神将を指し、六壬は遁甲盤とんこうばんのような式盤しきばんを用いた占法の一種、六辛は不詳とせざるを得ない。しかし、それらを合わせて二十四気とされていることから、二十四気を四分した一まとまりを指したものと理解するのがよい。

▼「二十四気」は二十四節気と解される。二十四節気は春夏秋冬をそれぞれ六つの節気に分ける。春は立春りっしゅん雨水うすい啓蟄けいちつ春分しゅんぶん清明せいめい穀雨こくうの六節気、夏は立夏りっか小満しょうまん芒種ぼうしゅ夏至げし小暑しょうしょ大暑たいしょの六節気、秋は立秋りっしゅう処暑しょしょ白露はくろ秋分しゅうぶん寒露かんろ霜降そうこうの六節気、冬は立冬りっとう小雪しょうせつ大雪たいせつ冬至とうじ小寒しょうかん大寒たいかんの六節気からなる。この場合は戦場の変化を節気の変化に擬えていると推測される。

▼「二十八宿」は天を二十八に分けた区分を言う。東方はかくこうていぼうしんの七宿、北方はぎゅうじょきょしつへきの七宿、西方はけいろうぼうひつしんの七宿、南方はせいりゅうせいちょうよくしんの七宿に分けられる。これらは天体である以上、季節により位置が移り変わる。「二十八宿の変合の形を整える」と記述されていることから、この場合は九宮の区分上に配置した陣を星に擬え、節気つまり戦場の変化に応じて組み替えられるように備えたと解される。

 陸機は布陣を終えた後、豫州よしゅう刺史の劉喬りゅうきょう南平なんぺい太守の應詹おうせん樂陵がくりょう太守の邵續しょうぞく武威ぶい太守の馬隆ばりゅうたちに号令し、軍勢を率いて韓陵山麓の要所を占め、将台の防禦を命じた。

 さらに、齊王せいおうの親将である董艾とうがい王義おうぎ劉眞りゅうしん韓泰かんたい荊州けいしゅう刺史の劉弘りゅうこうに糧秣の警備を委ね、新野王しんやおう司馬歆しばきんは軍勢とともに将台直下で警護の任に就く。漢軍を陣に誘い込む任には張方ちょうほう祁弘きこうの二先鋒が二万の軍勢を率いてあたることとなった。


 ※


 陸機の策が定まると軍使が戦書を持って漳水しょうすいの河畔にある漢の軍営に向かった。戦書には次のように記されていた。

「明日、吾らは韓陵山麓に布陣して待つ。大軍を畏れぬのであれば、この陣を攻め破ってみせよ。敵わぬと思うのであれば、面貌めんぼう脂粉しふんを塗って女のように飾り、軍門に降って拝礼するがよい。それならば吾らは軍を抑えて戦をすまい。いずれもできぬというのであれば、左國城さこくじょうに逃げ戻って民を戦に巻き込むな。諭旨をよくよく承知するがよい」

 戦書を読み終わり、張賓は劉聰に言う。

「晋の大軍が厳戒を敷いて待ち構えていれば、仕掛けて勝つのは至難の業です。陸機が戦を求めるのは吾らにとって僥倖ぎょうこう、かえって晋軍を打ち破る策も立つというものです」

 戦書を持参した軍使を呼び出して告げる。

「お前たちの元帥の陸機は呉の重臣であった陸遜りくそんの孫でありながら、今や義を失って晋に仕え、恥を忘れてこのような大言を吐いている。明日、吾らは韓陵山の麓で挑戦に応じ、陣法の技倆を競うこととしよう。正々堂々の勝負であるゆえ、詭計は用いぬ。また、陣を破られた側は降伏することとする。お前たちの元帥にもそのように伝えよ。決して言を食まぬよう言い伝えておくがよい」

 同様の返書を認めると、軍使に持ち帰らせた。


 ※


 翌日、劉聰と張賓は軍勢を分けて五陣を形作り、順に晋軍が布陣する韓陵山に向かった。また、使者を晋陣に遣わして口上を伝えさせる。

「特に漢の元帥が自ら出馬して布陣する。陸元帥が陣法を競いたいのであれば、吾らが布陣を終えた後にこぞって攻め寄せてくるがいい。その時にいずれが上手か明かになろう」

 漢の軍使がその書状を呈すると、陸機は返書を書いて寄越す。

「吾が大王は堂々たる大国の皇子である。胡族ごときを相手にあえていつわりの言をなして信を失うことなどあろうか。お前たちの布陣に乗じて攻めかかるような真似はせぬ。望むとおりに布陣を終えた後、堂々の戦で攻め破ってくれよう。安心して布陣するがよい」

 軍使より書状を受け取った張賓は、韓陵山の西に軍を停めて布陣を始める。晋の陣営では、先鋒を務める張方と祁弘が軍門に控え、布陣を終えるや否や攻めかかろうと備える。

 張賓たちは金鼓の音が鳴り響くのを聞いて晋軍が布陣を始めたと知り、高台に上ってその様子を見物することにした。

 百万の軍勢は韓陵山の東の野をおおうようにうごめき、まだどのような陣を敷くのかは分からない。陸機は軍勢を四十二箇所に分け置き、布陣を終えると軍営に退いた。

 晋の陣頭には二隊の精鋭が配置されている。

 左の軍勢では大刀を手に金の兜を輝かせた一将が秋霜しゅうそうのように冷然と馬を立てている。軍旗には「晋國しんこく剿寇そうこう左先鋒させんぽう張方」と大書されている。その名は関西の虎将として漢の将帥にも知られている。

 また、右の軍勢では中山ちゅうざんの黒鬼かと見紛みまがう一将が北海ほっかいの黒龍のごとき大馬に打ち跨っていた。軍旗には「晋國剿寇、右先鋒ゆうせんぽう祁弘」と大書されている。こちらも塞北で不敗を誇る名将として名を知られる。

 張賓はその二隊を見て言う。

「これらは吾らの攻撃に備えているだけのこと、陸機の布陣には含まれていない。周りに林立する五色の旗幡きはんこそが陸機の布陣であろう」

 居並ぶ諸将はそれを聞き、眼を凝らして仔細に眺めようとしたことであった。

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