十二章 晋漢大戦:闘陣

第百六回 齊王司馬冏は成都王司馬穎を招いて漢寇を計る

 李雄りゆうせいを建国した蜀から長江を下った先にあたる荊州けいしゅう、その刺史を務める劉弘りゅうこうは、李雄の進攻を懸念し、洛陽らくように使いを発して上奏した。

「軍勢を発してすみやかに李雄を平定せねばなりません。放置してはこれに倣って叛く者が天下に満ち溢れましょう」

 上奏は百官に下されて議論されたものの、先に同じく諸説紛々するだけであった。孫恂そんじゅん齊王せいおう司馬冏しばけいに勧めて言う。

「流民の頭目に過ぎない李雄が妄りに尊号を自称しております。理においては討伐して罪を問うべきです。しかし、李雄の支配はすでに固く、成都せいとに根本を立てて要害の地を占めており、討伐は容易くございません。聞くところ、成都王せいとおう司馬穎しばえい)は兵を集めて大王と雌雄を決さんとしているとのこと、これを利用されるのがよろしいでしょう。『詔を下して成都王を征西大元帥せいせいだいげんすいに任じ、荊州刺史の劉弘とともに李雄を討伐して蜀を恢復せねばなりません』と聖上に上奏するのです。成都王が蜀を平定したならば、成都に留め置いて中原に戻らせず、李雄に敗れれば軍勢を失い、いずれにせよ大王と威権を争えはしますまい」

 齊王はその言に従って諸王と百官を集め、ともに蜀の平定を議した。顧榮こえいが言う。

「この期に及んで蜀の平定を論じるのは先後を取り違えた議論というものです。病にたとえれば、胡漢こかん劉淵りゅうえんは根が深くて命に関わる癰疽ようそのようなもの、蜀は痛みが軽く命に別状のない疥癬かいせんのようなものです。それにも関わらず、劉淵を捨て置いて李雄の罪を問うのは癰疽よりも疥癬の治療を先にするようなものです。これでは良医とは申せますまい。先頃、漢が羌賊きょうぞくを率いて平陽へいよう太原たいげんを奪ったと告急の上奏が幾度も送られました。しかし、趙王ちょうおう司馬倫しばりん)は乱を利用して己の謀をなし、ついに討伐の計画は取りやめられました。これは劉淵にとって僥倖ぎょうこうでありました。この誤りが今や大患となったのです。近頃、常山じょうざん鉅鹿きょろく兗州えんしゅう邯鄲かんたんの諸郡が手もなく奪われ、瀛州えいしゅうより救援の要請はあれども出兵を許されませんでした。日ならずして劉淵が率いる胡漢の軍勢は黄河の南まで攻め寄せて参りましょう。これこそ命に関わる癰疽に違いなく、病毒は心腹である洛陽まで及ぼうとしているのです。この癰疽を治療せず、疥癬の如き李雄を先にする理がありましょうか。李雄は自ら守る賊であり、蜀を得て満足しております。長江を下って荊州をも欲する大望はありません。大王におかれましては、急ぎ大軍を整えて劉淵を平定し、その後に李雄を討伐されるのが安国の大計とお考え願わしゅう存じます」

 顧榮の駁論を聞いた齊王は百官に問う。

「それでは、その余の者たちはどのように考えるか」

 百官は口を揃えて言う。

「李雄は蜀の地を盗んで尊号を僭称しておりますが、その軍勢は数万を過ぎず将帥も数人です。蜀の太守が平定の方策を誤ったがゆえ、僥倖により志を得ただけのことです。聞くところ、胡漢の軍勢は精鋭揃いで戦えば必ずち、攻めれば陥れないことがないと申します。大王が諸親王と軍勢を会して進軍を阻まなくては、畿内の許昌きょしょう、洛陽の地さえも襲われかねません」

 江統こうとう劉殷りゅういんが言う。

「天下にあって三尺の童でさえ、晋朝は不幸にも兄弟けいてい叔姪しゅくてつが殺し合い、外はこれに乗じて叛乱していると噂しております。このままでは安寧は得られますまい。それにも関わらず、諸親王が互いに憎み合っているのは、禍が我が身に及ぼうとしているのを知らぬ行いです。愚見によれば、害された汝南じょなん、趙の諸親王がかかった禍を後車の戒めとせねばなりません」

 齊王が言う。

「それでは、この事態にどう対処すべきか。軍勢を発して蜀の李雄を平定しようとすれば、劉淵が山東さんとうから河南かなんに攻め寄せよう。劉淵を平定しようにも、その軍勢は強盛を誇って易々とはいかぬ。いずれも万全の成功は期しがたいように思える。見解があれば申せ」

 劉殷が言う。

「これは国家の大事、容易く議論が定まりは致しますまい。大王は聖上に上奏して詔を乞い、ぎょうの成都王に入朝を命じてともに議論されるのがよろしいでしょう。吾ら朝廷にある百官が議論したところで、成都王が首肯しゅこうせねばすべて無に帰します。この大事がならねば国家に大きな害をなすやもしれません」

 齊王は百官の議論に従い、晋帝の司馬衷しばちゅうに上奏して成都王の入朝を促す詔を乞うた。その詔書を携えて鄴に向かい、宣旨せんしを成都王に伝える任は腹心の孫恂に委ねられた。


 ※


 孫恂が鄴に入って謁見すると、詔書を読み終わった成都王が問う。

「朝政は齊王が司っているにも関わらず、聖上は何ゆえにを召して議論しようと望まれるのか」

 孫恂はさらに齊王からの書状を呈して言う。

「齊王からも書状を預かっております。胡漢の劉淵はすでに趙燕ちょうえんの地を奪って今や魏郡ぎぐんをも侵しつつあります。それだけでなく、蜀の流民を率いる李雄は成都を盗んで尊号を僭称せんしょうするに至りました。この事態を受けてともに天下の大事を議論するため、下官げかんは齊王の命により詔を奉じて大王の入朝を願いに参りました。大王が晋朝の宗廟そうびょう社稷しゃしょくを憂えておられるならば、入朝して大計を定め、賊徒を平定して頂けますよう。出駕しゅつがの労をいとわず、すみやかに発して頂ければこれに過ぎる幸甚はございません」

 成都王は孫恂の言を聞き終わると、しばらく賓館で休息をとるように命じて慰労の酒宴を仕度させた。

 その一方で盧志ろしに事を諮って言う。

「齊王が詔に書状まで添えて孤の入朝を促すとは解しがたいことよ。理由は何であろうか」

「吾が先に小怨を捨てて高志を行われるようにお勧めしたのは、いずれ齊王と大王がむつまじく対面する好機も得られようと思ってのことです。急ぎ入朝して齊王と謀を同じくし、大軍を発して劉淵を退けられれば、大王の芳名は万代に伝わって不朽となりましょう」

 成都王はその言に従い、盧志、石超せきちょう牽秀けんしゅうらを率いて孫恂とともに洛陽に向かった。

 晋帝への朝見の礼を終えると齊王府に移り、迎えた齊王が言う。

「今や蜀は流民の手に陥り、漢虜かんりょは燕趙の地を乱しておる。これにより各地の郡縣からの上奏は止むことがない。小賊の劉聰りゅうそうの軍勢は勢いを増して日ならず黄河を南に渡らんとしておる。州郡の守将はその勢いを阻めず戦々せんせん恐々きょうきょうとしているに過ぎぬ。この事態により、特に王弟に入朝を求めて方策を議論せんとしたのだ。王弟の智謀はよく知るところ、事態を裁断するには余人を以って代えがたい」

胡賊こぞくの劉淵が尊号を僭称してすでに日は久しく、麾下の軍勢は四十万を下りません。その将の多くは蜀漢の遺臣にして将家の子弟、百戦を経て端倪たんげいできぬ大敵です。平定するにあたっては、天下の軍勢を召集してあたらねばなりますまい。明日、諸親王と八座はちざ公卿こうけい大臣だいじんを召し出し、朝議に可否を諮って方策を募るのがよろしいでしょう」

▼「八座」は『晋書しんじょ職官志しょくかんしによると、「後漢ごかん光武こうぶは以て三公曹さんこうそう歲盡さいじん考課こうか、諸州郡の事をつかさどらせ、常侍曹じょうじそうを改めて吏部曹りぶそうと為して選舉せんきょ祠祀ししの事を主らせ、民曹みんそう繕修ぜんしゅう功作こうさく鹽池えんち園苑えんえんの事を主らせ、客曹きゃくそう護駕ごが羌胡きょうこ朝賀ちょうがの事を主らせ,二千石曹じせんせきそう辭訟じしょうの事を主らせ、中都官曹ちゅうとかんそうに水火、盜賊の事を主らせ、合わせて六曹ろくそうと為す。れいぼくの二人をあわせて之を八座と謂う」とある。枢要の任にある大臣と理解すればよい。

 齊王はその言に従い、翌日には成都王と揃って入朝し、宣旨を乞うて大臣を召集し、ともに齊王府に入って胡漢劉淵を平定する大計を議論することとなった。


 ※


 首座にある齊王と成都王が言う。

「諸侯、四方の鎮所は言うに及ばず、だい拓跋部たくばつぶりょう段部だんぶ氐貉ていらくの夷族など附属する者たちの軍勢まで召集して胡漢の劉淵を平定せねばならん。諸卿のうちに異論あるものはないか」

▼「氐貉」は西の氐族ていぞくと東の濊貊わいばくを指し、様々な異民族を言ったものと解するのがよい。らくばくは通用する場合があり、『後漢書ごかんじょ東夷列傳とういれつでんに用例がある。

 衆議紛々とする中より、江統が進み出て言う。

「外州の諸侯はそれぞれに心が異なります。昔、袁紹えんしょうが十八路の諸侯を糾合しても董卓とうたくを打ち破れませんでした。そのうえ、夷族は吾ら華人と異なり、心底は計り知れません。不意に叛乱を起こさないとも限らず、頼みとはできないのです。また、諸侯のうちにこの大任に進んであたる者がおりましょうか。愚見によれば、二王が叛乱の平定を首唱し、諸親王が自ら軍勢を率いて会すれば四十から五十万の軍勢となりましょう。諸親王を和睦せしめてその心を一にし、軍勢をともに進めて互いに救い合えば胡漢を平定して失誤はありますまい」

 それでも衆議は紛々として定まらず、議論が連日つづいても大計は決さない。ついに百官の中より一人の官人が進み出て叫んだ。

「劉淵は離石りせき左國城さこくじょうから軍勢を起こして平陽へいようを掠め、鉅鹿、常山、邯鄲、瀛州、兗州えんしゅう汲郡きゅうぐんの地をつづけざまに陥れ、郡縣を席捲せっけんして地を蚕食さんしょくしております。ついに中原をも襲おうとしているにも関わらず、官兵にはその鋭鋒を阻む者なく、時局は窮まりつつあります。この時にあたって事態を制するには、智謀を尽くす士と勇猛敢死の将を欠いてはなりません。吾が国の守将はみな命世の英雄でありましたが、胡漢に敵対して勝った者がありません。これを熟慮するに、すべて孤軍にて胡漢の軍勢と争い、掎角きかくせいをなす諸侯の援けを得て戦わなかったがゆえの蹉跌さてつでした。胡漢の軍勢の強勢なるがゆえばかりではないのです。これらをあわせて考えれば、江中郎こうちゅうろう(江統)の進言に従って諸親王が自ら軍勢を率い、その中から元帥を選んで胡漢の平定を委ねれば、諸親王の軍勢も相和あいわして同心するでしょう。江中郎の議論がもっとも当を得ているのです。他の議論は無為に日を費やす長広舌を過ぎず、国家の大事を誤るものです。江中郎の善言に一決されねばなりません」

 百官が愕いて見れば、それは経筵けいえん諫議官かんぎかん陸機りくきであった。

▼「経筵諫議官」は晋代の記録にない。「経筵」は君主と臣下が経世済民を論じることを言い、「諫議官」は諫言を進める官の意であるから、諫議大夫かんぎたいふのような諫官と考えればよい。

 成都王は陸機の言が理路整然としているのを聞き、その胸中に見識を備えていると評価した。陸機を堂上に上げて席を薦め、重ねて言う。

陸士衡りくしこう(陸機、士衡は字)の名は平素より江東こうとう英儁えいしゅんと聞き及んでおる。必ずや高い見識を備えておろう。胡漢の兇賊を平定するにあたってその良策により成功を収められれば、功績は第一となろう」

「臣は敢えて妄りに国事を論じはいたしません。しかし、御下問に答えさせて頂くのであれば、劉淵の軍勢は三十万をやや越えるほど、それを偽って六十万と号しております。七路の諸侯の軍勢を会すれば、二十万になりましょう。これで胡漢にあたろうとしたところで、敵の三分の一に及ばぬと思い込んで寒心し、賊を畏れて捗々はかばかしい戦果は得られません。万一、軍勢を覆されれば士気は下がって国を破る原因ともなりましょう。先の江中郎の言によって詔を下し、親王の軍勢を召集して根幹とし、さらに諸侯を輔佐とするのです。親王の中から一人を盟主に任じて諸軍の印をつかさど惣兵そうへい都督ととくとし、すべての軍勢をその指揮下に置いて中軍を固め、実績のある上将から左右の先鋒を定めれば、胡漢の討伐にあたる形は整いましょう。出兵した後、惣兵の軍令に従わぬ者は容赦せずに刑戮すれば行軍は整斉せいせいとして戦って敗れることはございません。あわせて、遼代りょうだい雲燕うんえんの騎兵で胡漢の帰路を断ち、山東さんとう山南さんなんの軍勢により平陽からの糧道を阻み、関中かんちゅう河右かゆう淮南わいなんこうようけいせいへいの軍勢を中軍として迎え撃てば、胡漢に張良ちょうりょうの智謀と項羽こううの勇猛があったとて何事もできますまい」

▼「惣兵都督」は兵権を帯びる最高責任者、元帥にあたる。

▼「遼代雲燕」は、遼は遼水りょうすい沿岸、代と雲は陰山いんざん南麓、燕は現在の北京周辺を指し、いずれも鮮卑族せんぴぞく諸部の拠るところとなっていた。

 齊王と成都王はその言に理を認め、盟主を定めて討伐にあたらせようとした。成都王が言う。

「この討伐にあたる盟主は容易な任ではない。威徳ならび立って名誉は衆人に抜きん出た者でなくてはなるまい。諸鎮の将帥や外姓の諸侯をこの任にあてるわけにはいかぬ。必ずや吾が司馬氏より盟主を選ばねばなるまい。諸親王の到着の後に議論して選ぶのがよかろう。しかし、誰を盟主に任じたものであろうか」

 齊王が言う。

「この大任は人よりいささか優れているといった程度の者では務まらぬ。文武の才を兼備して衆人が服する者でなくてはならぬ。しかし、名実ともに世に知られた者であれば、異姓の諸侯であっても構うまい」

 居合わせた朝臣たちは、齊王と成都王の腹心である孫恂と盧志を推薦されては具合が悪いと考え、口を揃えて上言する。

「元帥の任は兵術陣法をそらんじて臨機応変の才に長じ、文武を兼備してよく敵を謀る智謀と軍勢を指麾する威厳がなくてはなりません。臣らの見るところ、陸士衡に勝る適任者はありますまい。その能はまさにこの大任に堪えるもの、その上、陸氏は三代の将家であって武芸にも練達しておりましょう。胡漢の平定にあたってはこの人をいて元帥に任じるべき人はございません」

 二王は朝臣が陸機に心服していると思い、晋帝に上奏して陸機を天下の惣兵、征西せいせい大元帥だいげんすいに任じ、印綬いんじゅと剣それに令牌れいはいを下げ渡した。元帥府は鄴城の中に設けることに定め、諸親王と諸侯は一月のうちに鄴に参じて胡漢平定の方策を定めることとなった。

 その一方、荊州刺史の劉弘に詔を下し、襄陽じょうよう樊城はんじょうの軍勢をその指揮下に置き、胡漢平定に大軍を発した隙に蜀の李雄が東下するのを防ぐように命じた。それより成都王は鎮所である鄴に戻って元帥府を建設し、また講武場を整えて胡漢討伐の軍勢を迎え入れる準備を進めた。

▼「令牌」は道教の儀礼に用いられる護符、官吏に授けられる事例は明代まで下る。『明史みんし輿服志よふくし符牌條ふはいじょうに「五城ごじょう兵馬へいば指揮しきた日ごとに令牌を領し、東西南北中城に木、金、火、水、土五字の號を分領せり」とある。

 ついに晋朝と漢の決戦が始まろうとしていたことであった。

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