第九十四回 李特は年号を建つ

 李蕩りとう衙博がはくを逃がしたことを大いに怒り、軍勢を率いて跡を追う。上官晶じょうかんしょうたちもそれにつづいて徳陽とくようまで進んだものの、ついに及ばなかった。

 李蕩が言う。

「お前たちは間道かんどうから進んで葭萌関かぼうかんを奪い取り、漢中かんちゅうに戻る官兵を阻んで衙博をとりことせよ。そうすれば、関中かんちゅうの軍勢は二度と蜀の方角を向かないであろう」

 諸将は馬を駆ってさらに追ったが、二十里(約11.2km)も行ったところで斥候が戻って告げ報せる。

「衙博が関に入って防備を固めております」

 李特は嘆いて言う。

「惜しくも衙博を取り逃がしたか。毛植もうしょく襄珍じょうちんにしてやられたわ。あの二人さえおらねば、生きながら擒にできたものを」

 李蕩が嘆きを聞いて言う。

「衙博を逃がしたとて何ほどのことがありましょうや。腹癒せにあの二人だけでも擒としてやりましょう。実に腹の立つ奴ら、吾が真っ先を駆けて打ち破って御覧に入れます」

 すぐさま本営の軍勢を分けて巴西はせいの地に攻め入った。

 毛植と襄珍は李蕩の軍勢を支えきれぬと見てとり、一戦も交えず城を挙げて投降する。李特はその投降を受け入れるよう命じ、やむなく李蕩は二人を慰撫して緜竹めんちくに軍を返した。

 李蕩は軍律に厳しく途上でも民物を秋毫しゅうごうも犯さず、郡縣は喜んで帰服したのであった。


 ※


 その後、流民たちは葭萌関に攻め寄せた。三度に渡って攻めかけたものの、官兵の守りは厳しく苦戦がつづく。そこに蹇順けんじゅんたちが加勢に駆けつける。

 それを見た衙博は、自らには援軍がなく、いずれは窮して降らざるを得なくなると考え、ついに関を捨てて関中に引き上げた。

 葭萌関を占領した李蕩は李特に捷報しょうほうを発する。

 李特は巴西の毛植たちを投降させて新たに一万の軍勢を得た。ついに益州えきしゅう刺史、都督梁雍諸軍事ととくりょうようしょぐんじを自称して官属を置き、奪った各地に鎮守させる。さらに年号を建初けんしょ元年と称して境内に大赦をおこなった。

▼「都督梁雍諸軍事」は梁州、雍州の軍権を委ねられた者が帯びる官職、常置ではなく叛乱や異民族の侵入に対するために必要に応じて置かれる。派遣されて州刺史の上に立つ場合と、現任の州刺史より有能の者を選んで複数の州を束ねる事例が見られ、呉平定の際に王濬おうしゅん都督ととく益梁二州えきりょうにしゅう諸軍事しょぐんじに任じられたが、益州刺史との兼任であった。この場合、李特は益州から北の梁州つまり漢中とさらに北にある雍州を狙う意志を露わにしたと解される。

 降将の毛植、襄珍に命じて各地の兵民を招き集めさせ、あわせて軍議を開いて徳陽を討つことと定めた。

 徳陽の守将である撫軍ぶぐん将軍、刺史の張徴は賊軍が攻め寄せたと聞くと将佐の劉商りゅうしょう瞿免くめんに命じ、高地に拠って険要の地を占め、流民を防がせる。

 数日後、李特が軍勢を率いて攻め寄せるも、張徴は険しい高地から矢石を放ち、流民に死傷者が多く出た。

 流民の士気が衰えたと見るや、張徴は夜襲をかける。李特は散々に打ち破られて二十里(約11.2km)も退かざるを得なくなった。


 ※


 李特はふたたび軍勢を進め、兵を二つに分けて高地に拠り、陣地を築いて徳陽との対峙に入った。まずは李蕩に命じて東山の頂に軍営を構えさせ、自らは対する西山に軍営を構える。

 張徴はそれを知ると劉商と瞿免に命じた。

「流民が吾らに倣って高地に陣を布こうとしている。これは地の利を知らぬものだ。東道から攻め寄せて死戦を挑まれれば、吾らの寡兵なるがゆえに勝敗は測りがたい。しかし、軍営を分けては兵が減り、破りやすくなっただけのことだ。お前たち二人は三千の歩兵を率いてただちに西山にある李特の軍営に向かえ。吾が騎馬を率いて攻めかかり、その砲声を聞けば軍営に斬り込め。四面に火を放って焼き払え」

 二将は命令を受けて陣を発った。翌日、張徴は李特の軍営に攻めかける。

「山道は道幅狭く険阻であるゆえ、張徴の騎兵は一時に攻め寄せられまい」

 そう考えた李特は防備も固めない。午の刻(正午)に張徴の軍勢がにわかに攻め寄せると、慌てて迎え撃った。

 陣を布いて戦鼓を打ち、官兵の左右から砲声を挙がった途端、劉商と瞿免の軍勢が攻めかかる。風上から軍営の至る所に火が放たれた。李特は愕き懼れ、任道じんどう羅准らじゅんを救援に向かわせたものの、狭い山道では一斉に攻めかかれず、かえって劉商たちの歩兵に退けられた。

 羅准が馳せ戻って言う。

「もはや支えきれません。東道から一斉に斬り出し、東山の軍と合流せねば立て直せません」

 李特が言う。

「山道は険しく日はすでに落ちた。東道に斬り出せば多くの兵を喪うだろう。険要の地に拠って敵を支え、李蕩の援軍を待って挟撃すれば敵を破れよう」

「なりません。険に拠っては囲まれて困窮するのみ、援軍も近寄れなくなります」

 李特は羅准の言葉を納れず、さらに西の険要の地に拠る。張徴が率いる官兵はその周囲を囲んだ。


 ※


 東山の軍営から逃れた流民が西山に駆け込んで叫んだ。

「父君は張徴に包囲されており、西山は危機に瀕しております」

 李蕩はその言葉を聞くや、自ら西山に向かう。十里(約5.6km)も行かないうちに道は険しく狭くなり、人一人、馬一頭をようやく通すほどの幅になった。

 司馬しばを務める王辛おうしんが言う。

「急ぎ四方に人を遣わして道を探させ、軍を通せる道を探さねばなりません」

 李蕩は拒んで言う。

「父が危機に瀕している。道を探す暇などあろうか。吾は子の身であれば、父のために命を捨てる時なのだ」

 馬から飛び降りるや、長矛ちょうぼうと利刀を両手に先頭に立ち、山道を進む。

「お前たちが大義を思うのであれば、吾につづいて後ろを支えよ。敵には吾があたる」

 李蕩の叫びを聞いた流民が陸続と後につづく。それより二、三里(1~1.5km)も行くと、隘路を抜けて道が広がる。先を見れば、千人ばかりの官兵が道を阻んでいた。

 李蕩は真っ先駆けて馳せ向かい、左手に刀、右手に矛を振るってあるいは斬り、あるいは突き、片端から打ち倒していく。官兵はその勢いに畏れをなし、混乱して逃げ奔る。

 官将の瞿免が鎗を手に前を阻めば、怒りに李蕩のまなじりは裂けて号呼が山に響く。顔に刀を斬りつけると、矛を返して刺し殺す。官兵はいよいよ怖れて近づく者もなくなった。

 劉商の弟の劉音りゅういんが李蕩に斬りかかったものの、矛を腹に受けると背を見せて逃れ去る。劉商は弟が倒れているのを見るや、斧を振るって突き進む。

「賊徒ども、無礼を働くな。鎗を捨てて殺されるのを免れよ」

 その声は届かず、李蕩は命を捨てて襲いかかる。

 李蕩が一人で奮戦するものの、劉商の斧を肩に受けて刀を取り落とした。斧は鎧を傷つけたものの、痛手を与えるには至らない。

 李蕩が偽って退くと、劉商は逃がすまいと後を追い、専心するあまり足元を失ってつまずき倒れる。李蕩は電光のごとく駆けて立ち上がる暇も与えず鎗を突く。

 劉商はただの一突きに命を落とした。


 ※


 張徴は李蕩の軍勢が加勢に攻め寄せて隘路で戦がつづくと聞き、自ら援けに駆けつけた。諸将が戦死したと聞くと、兵士たちを叱って叫ぶ。

「歩戦ごときで賊兵のほしいままにされるとは、なんたる醜態か」

 兵に命じて弓を並べ、一斉に矢を射かけさせた。官兵は死を怖れずに突き進み、矢が雨のように射かけられる。流民は官兵の勢いを支えきれず、李蕩も身に十餘の鎗傷やりきずを受け、満身に箭を受けた。

 まさに全滅かと思われた時、王辛の軍勢が追いついて鬨の声が天を震わせる。

 李特はこの声を聞いて羅准、任道とともに囲みに斬り込み、包囲を抜けた。

 官兵は山道の前後に敵を受けて総崩れとなり、ある者は谷に落ち、ある者は互いの武器で傷つけあって死傷する者が数え切れない。ここに至って官兵たちはほとんど全滅に至り、張徴は千人の敗兵を率いて間道より逃れ去った。

 李蕩が重傷を負って流民に多くの死傷者が出たのを見ると、李特は涙を流して言う。

「徳陽を抜けずかえって多くの兵士を喪い、まして父子ともに命を落としそうになった。貪欲により誤ってしまったのだ。張徴を捨てて軍を返し、後悔してはならん」

 王辛が進み出て言う。

「今や張徴は将兵をともに喪い、士気は下がって再起も難しいでしょう。この機に生きながらとりことせねばなりません。逃げるを許し、余衆を糾合して報復に来れば、後患となりましょう」

 李特はその言葉に従い、軍勢を整えるとただちに徳陽に攻め寄せた。

 張徴は幾度も出戦したものの流民を破れず、支えきれぬと見るや城を捨てた。李特は城に入って軍勢を休めようとしたが、李蕩が言う。

「張徴は蜀の智将、今幸いに破れて険要の地を失い、心胆ともに喪っておりましょう。この機に火急の勢いで追い、禍根を断つべきです。復讐を許してはなりません」

 ついに傷をおして軍勢を率い、上官晶じょうかんしょう、王辛、任道、羅准たちとともに水陸の二路に分かれて後を追い、溶水ようすいでその背に追いついた。

 張徴は川から上がろうとするところに李蕩の矢を受け、馬から地に倒れ落ちる。そこに任道が駆け寄って首級を挙げた。上官晶は張徴の子の張存ちょうそんを擒にして家眷かけんとともに城に送り返す。

 李特は張徴の忠心を追念し、父の屍とともに故郷に葬るよう張存に命じた。

 ここにおいて李特の徳を称揚し、帰服する者がつづいて出た。李特の威勢は盛んになり、蹇順を徳陽に留めて鎮守を命じ、東の墊江でんこうを攻め落として従え、李特はまた涪城ふじょうを占領し、さらに少城しょうじょうを陥れて常俊じょうしゅん費遠ひえんを斬り殺したことであった。

▼「墊江」は『後傳』『通俗』ともに「熟陽じゅくよう」とするが、該当する地名は見当たらない。『晋書しんしょ李特りとく載記さいきの「騫碩を以て德陽太守と為し,碩は地を略して巴郡はぐんの墊江に至る」という一文により「墊江」に改めた。

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