第八十四回 劉聰は議して瀛州郡を攻む

 漢の元帥を務める太子の劉聰りゅうそう邯鄲かんたんを落として民を安撫し、とりことした張翮ちょうかい龐洪ほうこう図籍とせきを添えて平陽へいよう捷報しょうほうを発する。それより酒宴を開いて諸将と慶賀し、三軍に賞罰をおこなった。

 その後、張賓ちょうひんに今後の進路を問うて言う。

「今や邯鄲より西北の地の十中八九は吾らの有に帰した。ただ瀛州えいしゅうの一郡だけが残っており、放って置けぬ。瀛州は武垣ぶえんの北にあって九河きゅうかが集まり、五壘ごるいの郷があって東は海に近く、西は太行たいこうに接し、南は滹沱河こだかが流れ、北には高原が広がっている。地勢は拓けて南北交通の要衝、まさに四戦の地と言えよう。ここを取れば幽州ゆうしゅう冀州きしゅうの間を切断し、洛陽らくようをはじめとする河南かなんの兵を防ぐに足りる。逆に晋が軍勢を派遣して守れば、北の幽州、東の冀州と連結して南に洛陽の援軍を仰ぎ、脅かしがたい。すみやかに軍を進めて奪わねばならぬと考えるが、軍師の見解はどうか」

▼「武垣は『後傳』『通俗』ともに「武恒」としているが、誤りと見て改めた。『魏書ぎしょ高允傳こういんでんの校注に「武恒子ぶこうし」という爵位の用例があるが、「武垣」の誤りではないかとされている。武垣縣は『晋書しんしょ地理志ちりしでは河間國かかんこくに属しており、位置から見ても瀛州に隣接する。なお、瀛州は北魏ほくぎ太和たいわ十一年(四八七)に定州ていしゅうと冀州の郡を割いて設置されたため、晋代には存在しない。

▼「五壘の郷」の意味は不詳。『隋書ずいしょ経籍志けいせきしに兵書として『黃石公こうせきこう五壘圖ごるいず一卷』が挙げられており、営壘の設置に関わる用語と推測される。同義とするなら「警戒厳重な郷村」の意に解せようが、推測の域を出ない。なお、黃石公は漢の高祖こうそ劉邦りゅうほうに仕えた張良ちょうりょうに兵学を教えた神仙と伝えられる。

「瀛州に間諜を送って探ったところ、防備の厳しさは他所の比ではありません。太守の郭京かくけい郭嘉かくかすえ、用兵に優れて詭計に富みます。その上、守将を務める呂苔りょたい呂虔りょけんの孫、副将の李眷りけん李典りてんの孫にあたります。この二人は孟賁もうふん賈育かいくの勇があり、人々は畏れて彭越ほうえつ樊噲はんかいにも劣らぬと噂しております。さらに参軍には馮具ふうぐという者があり、よく双鎗を使いこなします。この者は馮紀ふうきの裔にあたり、文武の才を兼ねて深遠な計謀を秘めていると聞きます。くわえて、副軍ふくぐん都護とご曹勤そうきん楊留ようりゅうがおり、曹勤は歩戦に練達して遭遇した騎兵はみな逃げ出し、楊留は虎狼のごとき猛気を発して猛獣でさえ襲わないと言います。これらの者たちはいずれも将家の子弟であり、他郡の守将に比類する者がありません。瀛州を攻めるならば入念に準備をせねばならず、軽率に攻めかかるわけには参りません」

▼「李眷」は『通俗』では「李椿」とされる。『後傳』に従って改めた。

▼郭嘉の子は郭奕、孫は郭深の名が伝わる。

▼呂虔の子は呂翻、孫は呂桂の名が伝わる。

▼李典の子は李禎、孫の名は伝わらない。

▼馮紀については調査したが不詳。

 劉聰はいぶかって問う。

「軍師の識見は高く度量は広く、これまで敵を前に怖気づいたこともない。ここまで数郡を攻め、苦もなく劉喬りゅうきょうを奔らせて龐兄弟をちゅうした。それにも関わらず、何ゆえに瀛州の数人ばかりを恐れるというのか」

「怖気づいたわけではありません。『己を知り、敵を知れば百戦して百勝する』と言います。それによって測れば、瀛州を攻めて確実に破れるとは思えず、ここで蹉跌さてつを来たしては世人にわらわれましょう」

 張賓が言うと、劉霊りゅうれい王彌おうびが進み出て言う。

「吾ら大漢の軍勢は左國城さこくじょうを発ってより、攻めて陥とさず、戦って敗れたことがありません。どうして呂苔一人を畏れましょう。まして、李眷ごときに何事ができましょうか」

「お前たちの言は間違っている。恐ろしいのは戦勝を恃んで心驕り、事に臨んで軽率におこなうことなのだ。それゆえに吾は瀛州攻めには躊躇せざるを得ぬ」

 二人は食い下がる。

「お考えが過ぎましょう。吾ら二人の先鋒がまずは呂苔と李眷をとりことし、瀛州城下まで軍を進めて御覧に入れます。万一、軍功を挙げられなければ先鋒の牌印はいいんを返納して兵卒となり、罪を償いましょう」

 劉聰は二人の壮語を聞いて大いに喜び、諸将に軍令を発して言う。

「吾は妄りに戦をしたいわけではない。しかし、瀛州は吾らにとって北境の要衝、取らずに済ますわけにいかぬ。お前たちが封侯の賞を得たいなら、その機会はここにある。古より『虎穴を探らねば虎子を得ず』と言う。一致協力して不世出のいさおを世に建ててみせよ」

 諸将は応諾して退出していく。二万の精鋭を劉霊、王彌に与えて先鋒としたほか、瀛州攻めの陣容は次のようなものであった。


  先鋒 劉霊、王彌

  左軍 関防かんぼう黄臣こうしん

  右軍 張實ちょうじつ関謹かんきん

  護軍 楊興寶ようこうほう夔安きあん

  遊軍 胡延晏こえんあん胡延攸こえんゆう


また、曹嶷そうぎょく桃豹とうひょうを邯鄲に留めて留守に任じた。

 軍勢が進発しようとした時、漢主かんしゅ劉淵りゅうえんの命を受けた楊龍ようりゅう廖全りょうぜんが糧秣を引いて到着した。劉聰が再会を喜んで久闊きゅうかつじょするところに、先触れの軍士が駆け込んで告げ報せる。

苟晞こうきが軍を返さず、兗州えんしゅうを奪い返されるおそれがなくなったため、黄命こうめい関山かんざんは二万の軍勢を率いて軍勢に加わり、瀛州攻めの一翼を担わせて頂きたいとのことです」

 張賓はその報告を聞いて言う。

「楊龍、廖全、黄命、関山の四将が加われば、吾らは有利に戦を進められます。この郡は必ずや陥れられましょう」

 関山と楊龍に兵站の監を命じると、十五万の大軍が邯鄲より瀛州を目指して動き出した。

 風に翻る旌旗せいきは日をおおい、林立する戈戟かげきは白々と霜のように光る。軍勢は二路に分かれて滔々とうとうと進み、一路瀛州を目指して整然と進んでいった。


 ※


 郡界まで到った頃、漢軍の進攻を覚った瀛州の哨戒兵が駆け戻って太守の郭京に告げ報せる。郭京は総兵主師そうへいしゅしの呂苔を召して軍議を開き、漢軍を迎え撃つ方策を定めた。

▼「総兵主帥」という官は晋代にはない。州兵の総指揮官と考えるのがよい。

 その席で李眷が言う。

「胡賊どもは怖れも知らず州境を侵しました。一兵たりとも生かして返してはなりません」

 馮具が進み出て言う。

「聞くところ、漢の将兵には驍勇の者が多いとのこと、軽視してはなりません。計略を定めて対処すべきかと愚考いたします」

 郭京がそれを聞いて言う。

「馮具の言が正しい。漢賊は戦勝を重ねて士気が高く、その鋭鋒は生易しいものではあるまい。下官げかんの計るところ、まず総兵(呂苔)は軍馬を率いて恒河こうかの渡しに赴き、柵塁を立ててその渡河を許してはならぬ。さらに一軍を盤古溝ばんここうの隘口に遣わしてその前途を阻めば、漢兵がいかに多かろうとも対岸に渡るを得まい。漢賊が恒河を渡らなければ、瀛州は泰山たいざんのように安定していられよう」

▼瀛州の近隣に恒河と呼ばれる河川はない。ここでは、邯鄲から瀛州に向かう間に河川があり、そこを越えなくては瀛州の城下に到れない位置関係にあり、盤古溝はその河幅が狭まって渡し場ではないものの渡渉できる地点と考えればよい。

 呂苔はその策に従うこととし、曹勤と楊留に一万の兵を与えて盤古溝の守りに就かせ、自身は馮具とともに二万の精鋭を率いて恒河の渡しに向かった。また、郭京、李眷に加えて弟の呂萼りょがくにも城の鎮守を命じる。

 恒河の渡しに到るや、崖口に陣を布いて河中を通る船の通行さえ許さない。渡し船はすべて北岸に集め、陣前に鎖で繋がれた。


 ※


 漢軍の先鋒である劉霊と王彌が渡しに着いた時には、すでに船の一隻も見当たらず、恒河を渡る手立てがない。漢将たちがくつわを並べて対岸を見遣れば、河に沿って夥しい数の柵が連なり、まるで新しい城が出来たような有様であった。

 柵の内側には刀鎗、旌旗が隙なく並んでその下を往来する軍士の甲冑が光り、弓兵はいつでも矢をつがえられるように備え、柵の間には大砲も幾つか備えつけられている。

 飛鳥であってもこの河を容易く飛び越えられそうもない。

 劉霊と王彌は対岸の様子を見てにわかに渡河はできぬと覚り、陣を布いて人馬を休め、後続する大軍の到来を待つこととした。また、使者を遣わしてこの様子を劉聰と張賓がいる中軍に告げ報せる。

 翌日、左右の二軍も到着し、王彌が軍議の席で言う。

「対岸に渡ろうにも渡船はなく、筏を組もうにも樹木を獲る山がない。村里の林の樹木を伐って家屋をこぼつことも考えたが、近くには窮民の集落があるのみ、対岸に渡る術がない。どうしたものであろうか」

 関防と張實が答えて言う。

「後軍の到着を待って策を定めるのがよいでしょう」

 この日の昼時、劉聰を含む諸将が到着して軍営を置いた。王彌と劉霊が幕舎に入って張賓に対岸の様子を報告する。

「河に船がなければ、浮筏うきいかだを造って渡る外にあるまい」

 関防が張賓の言葉を受けて言う。

王飛豹おうひひょう(王彌、飛豹は綽名)もそう考えたのですが、周囲の樹木は民の所有にかかる柳、桑、梨、柿、棗、梅の類であって窮した民の命綱となっています。また、家屋の柱、棟は乾燥して筏に向いておりますが、民家を毀って木材を奪うのも無残であるゆえ、軍師の到着をお待ちしておりました」

 張賓は言う。

「小節に拘泥こうでいしては大事を為せぬ。今は王道をおこなうべき時世ではなく、地を争って戦い、戦後は屍が野を埋める世だ。民家を毀って柱を奪うことを躊躇している場合ではない。事態は急迫している。迷いを断って事をおこなえ」

 王彌と劉霊は下知を受け、翌日には楊興寶、夔安とともに二千の軍勢を率い、村郷の林に入って樹木を伐採した。それを上流の河幅の広い場所に運び、千餘の大筏を造り上げる。

 筏の下面には民家から奪った柱梁を使った。これらは長い年月を経て乾燥しており、筏は水面に軽々と浮く。筏の上面には新たに伐採した樹木を用いた。

 準備を終えると筏を恒河の上流に浮かべ、流れに乗って下流に向かう。狭いところに到れば、筏は両岸に食い込んで動かなくなる。漢兵たちは夜陰に乗じて縄で筏を結び付け、ちょっとやそっとでは動かなくしたため、筏の上でも平地の上にいるかと錯覚するほどであった。

 筏は二、三里(1~1.5km)ほどもつづき、その上では楊興寶、夔安の二人が弓兵を率いて晋兵に筏をり流されないよう警戒する。

 劉霊は軍士に命じて筏の上に葦草と砂を敷き、騎兵も通過できるように準備した。


 ※


 翌日、呂苔はこれを見るや愕いて言う。

「恒河の渡しは水流が烈しく、漢賊どもは狭隘な盤古溝を筏で埋めて渡ろうとしておる。漢賊には亡命者が多く命を軽んじるゆえ、このように不敵なことを企てたのであろう。実に手強い相手である。吾が自ら盤古溝の指麾を取らねばなるまい」

 そう言うと呂苔は盤古溝に向かい、形勢を観て軍士に下知する。

「河幅は狭く渡りやすいところだが、岸が高くて登るのに手間取る。敵が渡ってきても抑えて矢を発するな。漢賊どもが岸に迫り近づいた頃、一斉に礫石を飛ばして打ち払え。慌てて引き付ける前に礫石を放つでないぞ」

 下知を受けた晋の将兵は筏に斬り込みもせず、柵内で静まり返って漢軍の到来を待った。

 劉聰は、自ら恒河の河辺に出て形勢を眺め、諸将に言う。

「吾の観るところ、瀛州の兵馬はすでに心胆を失っておる。力戦して進めば柵を奪い取るに何の差し障りもあるまい」

 張賓がそれを諌める。

「元帥のご意見は正しくありません。これは敵兵が逸を以って吾らの労を待っているのです。その謀は士馬を損なわず、弓箭を射外さないことを狙っております。先を争って対岸に攻め込めば、矢石を放って吾らを阻むでしょう。呂苔と郭京はともに良将りょうしょうと言うに足ります」

 王彌と劉霊は張賓の言葉を聞くと、席から立ち上がって言う。

「この程度のことで何の妨げとなりましょうや。吾らが率先して柵にあたりましょう」

 言うや、胸だけを覆う短甲を着込んで大刀を手に、楯を与えた五百の兵に加えて楊興寶と夔安の歩兵に両翼を務めさせ、李瓚りさん胡宓こふくたちとともに筏を渡って晋軍の柵に殺到していく。

 劉霊と王彌が先頭を駆けて対岸に近づいたその時、たちまち砲声が挙がって空を覆ういなごのように箭が降り注いだ。王彌と劉霊は堅甲を着込んでいたために矢石にあたっても意に介さない。弓箭の一斉発射が終わるまで、少し控えて待ち受けている。

 矢が静まるとまた駆けて岸に近づき、下から崖上を見上げた。

 晋の軍中では鉄甲を着込んだ歩将が、恒河に沿って並ぶ五千人ほどの部隊に下知を発し、筏に雨霰あめあられと石を降らせている。王彌、劉霊、楊興寶、夔安の四将はいずれ劣らぬ勇者ではあるが、崖の高さは二、三丈(3.3~5m)はある。跳び上がることも出来ず、晋軍の柵を前に揉み合いをつづける。

 その最中、胡宓は顔面に礫石の直撃を受けて鼻梁と額を破られ、仰向けに倒れて戦場の露と消えた。王彌と劉霊もこれにはいささか士気を減じ、ついに兵を収めて休ませることとした。

 呂苔は自ら陣頭に出て斬り進み、率いる百余人の砲兵に命じて一斉に撃ち放たせれば、漢兵たちは風を受けた草のように倒れ伏す。李瓚も左掌を撃たれてそれ以上は指揮をとれなくなった。

 王彌と劉霊も呂苔の追撃を怖れて軍営がある西岸に引き返し、晋軍の様子を窺うこととしたことであった。

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