第三十二回 梁王司馬肜は雍州に敗戦す

 涇陽けいようの戦に破れて七、八万もの兵を喪った趙王ちょうおう司馬倫しばりんは、雍州ようしゅうを目指して落ち延びていく途上、別に人を遣わして洛陽らくように救援を求めさせた。

 その使者が上奏すると、晋帝の司馬衷しばちゅうは大いに愕いて問う。

「趙王は十万の大軍を率いて出征したにも関わらず、何ゆえにこれほどの大敗を喫したか」

「はじめ馬邑ばゆうの東原に郝元度かくげんどを誅して馬蘭ばらん盧水ろすいを斬り、重ねて賊魁ぞくかい齊萬年せいばんねん劉霊りゅうれい張敬ちょうけいの軍営に攻め込んでその糧秣を焼き、賊の心胆を寒からしめました。しかし、賊魁は神威を畏れず決戦に及び、吾が軍営に殺到して参りました。趙王も手強しと見てとり、身命を顧みず戦場に臨まれたものの、思いもよらぬ詭計に陥り、ついに大敗を喫した次第であります」

 使者の説明を聞き終えたところで、呆然自失の晋帝には為す術もない。司空しくう張華ちょうかに問うた。

氐羌ていきょうの賊を率いる齊萬年とやら、趙王でさえ大敗を喫して平定できなんだ。いかがしたものであろうか」

「趙王は一戦して郝元度をほふり、再戦では齊萬年を破って馬蘭、盧水を斬り、羌賊の三部を平定しております。勝勢に乗じているにも関わらず敗戦したところを観れば、失着しっちゃくがあったと考えねばなりますまい。察するに、勝ちに驕ったのでなければ、警戒を怠ったのでありましょう。そうでないとすると、賊に項羽こううの如き猛将、陳平ちんぺいの如き智将がいるということになります。まずは、敗戦の事情を明かにせねばなりません。しばらく待てば、趙王を迎えた雍州刺史の解系かいけいが仔細を報じて参りましょう。万事はそれからのことでございます」

 晋帝が張華の言をれて朝臣たちが散じようとした時、解系の使者が馳せ到った。

「趙王は羌賊に大勝したものの、寵臣の孫秀そんしゅうの進言により賞をおこなわず、軍営にあっては日々歌舞かぶ宴飲えんいんして軍士の士気を阻みました。さらに、軍紀を引き締められず、勝ちに驕って軽々しく軍を進めました。それゆえに羌賊に大敗を喫して十万もの軍士を喪ったのです。その結果、扶風を含むいくつもの郡縣を奪われ、賊軍の戦意はさらに猛って民への害は甚大となっております。すみやかに罪を定めて処置されるよう、伏してお願い申し上げます」

 上奏を受けた晋帝は愕いて一言もない。

「先に申し上げたとおり、賊に猛将智将がいるのではなく、趙王が自ら敗れたようです」

 張華がそう言うと、裴頠はいきもそれに同じる。

「趙王はもとより将材ではなく、配下を御するに治方ちほうなく、奸佞かんねいの小人を重用しております。関西の強賊の平定などできようはずもありません。すみやかに宣旨を下して召還し、罪を問わねばなりません」

「趙王を召還するとして、誰が羌賊の平定にあたるのか」

 晋帝の問いに張華が答える。

「禁衛の精兵と洛陽の軍勢、合わせて五万を梁王りょうおうに委ねて羌賊にあたらせるのがよろしいでしょう。また、召還した趙王が洛陽に到れば、孫秀を斬刑に処して三軍を戒め、綱紀を粛清せねばなりません。そうしてはじめて軍士は緊張感をもって任務に就き、戦陣にあって功名を立てようとするのです」

 かくして、汴梁べんりょうに鎮守する梁王の司馬肜しばゆうが洛陽に召し出され、羌賊の平定にあたることとなった。洛陽に入った梁王は勅命を受けて五万の軍勢を整え、ついに出征の日を迎える。朝廷の大官は揃って郊外まで見送り、餞別の宴が催された。

▼司馬肜は司馬懿しばいの第八子、趙王司馬倫の兄にあたる。開封かいほうは汴梁とも呼ばれた。ただし、司馬肜が開封に鎮守したと伝える記録はない。


 ※


「大王よ、洛陽を発った後にまずなさるべきことは、孫秀の斬首に他なりません。さもなくば、大晋の社稷しゃしょくを危うくするおそれがございます」

 宴席にあっても張華はくどいほど念を押し、梁王も点頭して出征の途に就いた。それより先、梁王は僚属に諮って典升てんしょうに汴梁の留守を委ね、長史ちょうし傅仁ふじんを参謀に任じて伏胤ふくいんを大将に据え、親衛隊長の許史きょし許坑きょこうに左右の軍を委ねる陣容を定めていた。

「氐羌の賊が叛乱を起こし、聖上は勅命を下して孤に征伐を命じられた。事の成敗は一に三位の将軍の尽力にかかる。賊を平定した後、朝廷に上奏して功績に重く報いるつもりである。万事は卿ら次第と心得よ」

 軍営にあって梁王がそう命じると、許史と許坑が進み出て言う。

「伏将軍は歴戦の英傑ゆえ大任に相応しいかと存じますが、臣らは無能の若輩者であれば、ただひたすらに大王の付託に背かぬかと畏れるのみであります」

「卿ら両名の武勇は多くの者が推すところ、孤も重々承知しており、謙遜には及ばぬ」

 梁王がそう言うと、二人は恐れ入って引き下がった。

 この二人は曹操そうそうに仕えた許褚きょちょの孫にあたる。許褚には二人の子があり、長子の子が許戌きょじゅつ許亥きょがい、次子の子がこの許史と許坑である。

 四人の孫はいずれも万夫不当の勇を世人に称賛されている。そのため、出征にあたって将軍に任じられたのである。洛陽の兵五万に加えて宮城の防衛にあたる一万の精鋭を率い、先発した梁王の後を追って西に向かったことであった。


 ※


 軍勢は昼夜兼行で進み、半月ほどで雍州の境に到る。関津かんしんより使者を遣わして到着を告げれば、刺史の解系が佐吏を連れて城外十里(約5.6km)のところまで出迎えた。軍中に掲げられた梁王の麾蓋きがいの下、その馬前に解系が参謁して罪を乞う。

▼「麾蓋」は指麾に使う軍旗と絹を張った大きな傘蓋を言い、本陣の所在を示す。

「羌賊の跋扈ばっこに城を離れることができず、大王の来臨をお迎えに上がれませんでした」

「今日ここに来たのは、刺史を労うためではない。城を離れて迎えに出るには及ばぬ」

 虚礼を取り交わすと解系も騎乗してともに城に入り、屯所を定めて軍営を置く。州府の官吏が集って参拝の礼を執った。

 ひとしきりの儀礼が終わると、梁王が解系に問う。

「そもそも齊萬年とは何者か。趙王が十万の軍勢を率いて平定にあたり、一戦に敗北を喫した理由が解せぬ。解小連かいしょうれんはその仔細を存じておろう」

 丁重に小連という字で呼びかけられた解系が答える。

「あえて大王に虚言は申しません。趙王の驕慢きょうまん放恣ほうしにより号令は明らかならず、さらに孫秀が奸言を弄して功績を貪り、軽率に軍を進めたがゆえに大敗を喫したのです」

 黙然と聞いた梁王が言う。

「趙王が孫秀を盲信して国事を誤ったとは、朝廷も察している。それゆえは孫秀を斬首して邪佞の罪を正し、三軍の綱紀を粛正した後に軍勢を発して羌賊を討つよう勅命を受けておる」

▼「孤」は宗室諸王の自称に使われる一人称。

 この時、梁王の長史を務める傅仁も同席していた。傅仁はもとより孫秀とは昵懇じっこんの仲、この遣り取りを聞いて退くと、急ぎ親しい者を遣わして孫秀に報せた。


 ※


 報に接した孫秀は大いに愕き、策を廻らせども救命の計に思い至らない。ついに金銀珍玉の財宝を掻き集めて従者に持たせ、夜陰に乗じて傅仁の宿舎を訪った。傅仁が招じ入れて面会すると、礼物と称して財宝を差し出す。

 傅仁は礼物に過ぎる重宝であるのを見ると、再三それを辞退した。

「礼物はまったくささやかなものです。ご辞退には及びません」

 無理に押し付けると、席を傅仁に近づけてさらに言う。

「梁王が下官げかんを刑戮されようとしていると聞き及び、活命の方策を伺いに押しかけて参りました」

「孫参軍が罪せられようとしている理由は、軍士に憐れみをかけず、賞罰において責は重く賞は軽く、邪智により趙王の心を惑わせて歌舞宴飲を専らにするのみならず、軽率に軍を進めて大敗を喫したという報告によります。張司空(張華)の上奏を聖上が裁可されたものであり、梁王ご自身が本心よりお考えなのではありません」

「これは思いもよらぬことです。馬邑と扶風の戦では、いずれも拙謀により大勝を博しました。さらに、涇陽の戦に先立って出戦を思い止まられるようにお諌め申し上げました。そのことは、軍中の誰もが知っております。敗因を言えば、齊萬年と劉霊りゅうれい驍勇ぎょうゆう諸葛宣于しょかつせんう張賓ちょうひんの計略にあります。どうして下官の罪でありましょう。罪なき者を枉殺おうさつするなどあってはならぬこと、このことをよくよくお考え頂けないでしょうか」

 孫秀の抗弁を聞き、傅仁は熟慮の末に口を開いた。

「言われる理は極めて明らかです。助命に尽力いたしますので、ご安心下さい」

 孫秀は傅仁に深く感謝したが、それとともに張華への怨みを骨髄に深々と刻み込んだ。この一事が張華の命運を大きく左右することとなる。


 ※


 翌日、傅仁は梁王の御前に進み出て言う。

張茂先ちょうぼせん(張華、茂先は字)が孫秀の刑戮を勧めた一事を一晩考えました。孫秀は趙王の寵臣であり、趙王と大王は兄弟の情で結ばれています。大王が趙王の眼前に孫秀を斬られては、趙王の怨みを買う上に張茂先に迎合したと噂されましょう。逆に、孫秀の斬刑を赦せば、大王は兄弟の情を全うしたことで諸親王の支持を得られ、かつ、朝廷の高官に迎合したという謗りを免れます。これこそ人心に叶った処置と申せましょう。それに、孫秀一人があろうとなかろうと、朝廷には損も得もございません。しかし、大王と趙王が疎遠になれば朝廷に大きな波乱を生じることは必定、重々考慮せねばなりません」

「勅命に違うことなどできようか。孫秀を赦して聖上に何と復命するつもりか」

 難色を示す梁王に傅仁が畳みかける。

「孫秀を檻車かんしゃで洛陽に送り、朝廷にて理非を究めた後の裁断を待てばよいのです。それで大王は趙王の怨みと世人の謗りを免れ、孫秀の身が洛陽にあれば聖上への復命も容易いことです」

 梁王は意を決して趙王に面会を求め、仔細を申し述べる。趙王もやむなくその言に従い、孫秀を檻車に載せて洛陽に送ることとした。趙王自身もその檻車の跡を追うように洛陽に発った。

 梁王と傅仁は孫秀をめぐる懸案を片付けると、雍州に残る解系や夏侯駿かこうしゅんとともに涇陽奪還の方策を練り、ついに齊萬年を破る策を定めた。


 ※


 その頃、劉淵りゅうえんたちが拠る涇陽城中では、司馬倫を破った勝勢に乗じて扶風を奪うべきという意見が軍中で盛んになり、齊萬年は張賓の意見を求めていた。

「扶風への侵攻は軽率には進められません。先の戦で多くの糧秣を焼かれ、秦州しんしゅう趙藩ちょうはん柳林川りゅうりんせん廖全りょうぜんたちからの連絡もなく、兵站が整わないのです。扶風を囲んだところで糧秣が払底ふっていすれば退くよりありません。まずは糧秣を積んで足元固めることです。しばらくは近隣の郡縣を降して糧秣を集めるのがよろしいでしょう」

 張賓の言葉に従い、齊萬年は近隣諸縣から糧秣を掻き集めては涇陽城に運び入れ、城中に積み上げた。数日後、齊萬年は軍議の席で言う。

「もはや近隣の郡縣はすべて平らげた。涇陽の孤城に拠って晋の大軍と対峙しては、防戦一方に陥ることは火を見るより明らか、晋軍の到来を待つばかりでは兵士が動揺するだろう」

 諸説紛々として議論が定まらないところ、斥候からの報告が入った。

「晋は趙王の司馬倫に代えて梁王の司馬肜を元帥に任じ、すでに雍州に入って軍勢を整えているとのことです。いずれはこの涇陽に軍を向けるものと思われます」

「元帥が交替したとあれば、士気は下がり軍中は乱れているであろう。吾が一万の軍勢を率いて州境に駐屯し、晋軍を食い止めよう。境内に入れて民を騒がすべきではない」

 張賓もその意見に同意し、齊萬年は劉霊と胡延攸こえんゆうの二将とともに一軍を率いて涇陽を発った。州境に軍営を置いて晋軍の到来に備えると、数日を経ずして先鋒が姿を現す。

 晋の斥候は齊萬年の軍営を見るや駆け戻って本軍に報じ、前軍を率いる許坑はすぐさま攻めかかろうと勇み立つ。しかし、梁王はそれを許さず、まずは軍営を定めて作戦を協議すると命を下した。

「羌賊など烏合の衆に過ぎず作戦など無用でありましょう。ただ小将しょうしょうが先陣切って攻め込み、齊萬年をとりことすれば残党は自ずから瓦解いたします」

 許史の大言壮語を傅仁が諌める。

「敵を侮っては前車ぜんしゃ覆轍ふくてつを踏むおそれがございます。聞くところ、齊萬年は万夫不当の勇を誇るといいます。討ち取るにも擒にするにも、易々とは参りますまい」

「それでは、どのようにして攻め破るべきか」

 梁王が問い、傅仁が答える。

「愚見によれば、軍を三分して前軍を許大将軍(許史)、中軍を伏将軍(伏胤)、後軍を許次将軍(許坑)が率い、軍勢は長蛇の陣形をなして頭を打てば尾が救い、中を打てば首尾が応じ、尾を打てば頭が応じ、三軍が連携して反撃すれば、行軍中の陣を崩されることはありますまい」

 それを聞いた許史が面に不快を表す。

「羌賊は虎のごとく畏れるほどの敵ではあるまいよ」

 そう言い捨てると、傅仁の顔を一睨みして幕舎を出て行く。

 梁王は傅仁の意見を納れ、翌早朝より三軍を順次に進発させた。行くこと数里で齊萬年の軍営が眼前に迫る。すでに軍門を開いて軍列を整え、晋軍の到来を待ち構えている。


 ※


 齊萬年は到来の報を聞くや軍勢を率いて馳せ向かい、晋の前軍と対峙した。陣頭には齊萬年が抜き身の大刀を手に立ち、左には劉霊、右に胡延攸が馬を並べる。軍勢は整然として一糸の乱れもない。

「晋将に口を利ける者がいるなら、出てきて口上などさえずってみせよ」

 齊萬年が罵るや、金鼓きんこの音とともに軍旗の列が割れ、そこに諸将を率いて梁王の司馬肜が姿を現した。その左には許史と傅仁、右には伏胤と許坑が馬を並べる。

 梁王が鞭で齊萬年を指して言う。

「氐羌の賊徒どもよ、何を血迷って天朝てんちょうの軍勢に歯向かうのか。今や雲集した大軍がお前たちを一呑みにせんとしておる。すみやかに投降すればそれでよし、区々たる烏合の衆で天兵と成敗を争うなど、迷妄の極みであろう」

「吾らは羌族ではなく、大漢の忠臣である。代々漢の禄をむがゆえ、義兵を集めて晋への報復を図り、漢の帝業を再興しようとしているのだ。これは断じて叛乱などではない」

 齊萬年の言葉を聞いて梁王が言う。

「お前たちが漢の臣を名乗るならば、事理を知るがよい。すでに漢の天命は尽きて久しい。それにも関わらず挙兵して忠節を表そうとするなど、寡婦かふがはるか昔に亡くした夫に貞節を尽くすのに変わりあるまい。忠節を口実に妄りに兵を起こし、民を苦しめているに過ぎぬ」

「往古、汝艾じょがいのために復讐して後人はそれを賢明であると称し、程嬰ていえいは趙を保って千年の後にもその義に感嘆する者が絶えぬ。吾らの挙兵は素志そしを尽くさんとするのみ、多言に及ぶまい。一戦の勝敗によりいずれに正義があるか明かにしてみせよ」

▼「汝艾」は夏の帝相ていしょうの頃の人、この頃、夏は后羿こうげいが実権を握ったものの、その臣下であった寒浞かんそく寒澆かんぎょうの父子は后羿を殺し、さらに帝相をも弑殺しいさつした。帝相の子の少康しょうこうのために寒澆を殺したのが汝艾である。夏の遺臣たちは寒浞を攻め滅ぼし、ついに少康を擁立して帝とした。これを少康しょうこう中興ちゅうこうと言う。

▼「程嬰」は春秋時代の晋の人、趙氏は趙朔ちょうさくの時に司寇しこう屠岸賈とがんこに滅ぼされたが、趙荘姫そうそうきだけは晋室からの降嫁だったために生き延び、その時に子を身籠っていた。生まれた子の趙武ちょうぶ公孫杵臼こうそんしょきゅうと程嬰の助力を得て趙氏を再興し、屠岸賈を攻め滅ぼした。事を成し遂げた後、程嬰は趙氏の先代と先立った公孫杵臼に報告すると称して自ら命を絶った。

 言うや齊萬年は馬を躍らせて挑みかかる。

「賊徒を投降させるには及ばぬ。誰ぞ馬を出して孤がために擒とし、首功を顕せ」

「三世の晋将、許史が羌賊に一番鎗を馳走してやろう」

 梁王の声に応じて左より許史が馬を出す。一丈八尺(約5.6m)の長鎗で面を狙って突きかかる。迎える齊萬年はその鎗先を受け流し、返す刀で斬りつける。

 それより勇を奮って悪戦すること五十合、いまだ勝敗の定まらないところ、忽然として西南の空に塵埃じんあいが立ち昇り、その下に晋の第二軍を率いる伏胤が現れる。


 ※


 伏胤は手にした大鉄鎚だいてっついを車輪に回し、無人の野を行くように馬を馳せて齊萬年に打ちかかる。そうはさせじと劉霊も、長矛を引っ提げ馬を駆り、その馬前を斬り阻む。

 それより四人の猛将が一団となって入り乱れての大乱戦、馬蹄の響きに地も震い、揚がる砂塵に日も隠れ、両時(四時間)ばかり戦うも一人として傷を受ける者がない。両陣の兵士は割り込む隙もなく、拳を握って歯を鳴らし、固唾を呑んで見守るばかり。

 齊萬年の大刀を鎗で押さえて許史が近づけば、迎える齊萬年は刀を返す暇なく、柄を振るってその脇腹を狙い打つ。許史は避けるに及ばず左手で柄を受け止め、その手を肘に掻い込むと右の鎗で胸を突く。齊萬年はからだを開いて突かれた鎗を握り止め、それを小脇に抱え込む。

 許史は左脇に齊萬年の右手を、齊萬年は左脇に許史の鎗を押さえ込み、互いの武器を奪い取ろうと力を尽くし、馬体は接して離れない。それより二人は一塊となって押し合い引き合い、許史の膂力も尋常ならず、互いに一歩も譲らない。

 齊萬年は許史の鎗を奪わんと全身で鎗を引き、許史も渾身の力でそれを引く。その刹那に齊萬年が手を離し、許史の鎗が放たれる。急なこととて許史の姿勢は馬上で崩れ、齊萬年は諸手の力で掴まれた右手を引き戻す。許史が堪らず手を離すや、大刀の一閃に馬頭を断ち割って馬は地に倒れ伏す。

 馬上の許史も馬とともに地に倒れ、馬をった齊萬年は馬上より一刀に許史を肩から斬り下ろす。許史は身を翻して立ち上がるも、馬をなくして徒歩になる。そこに齊萬年は猿臂えんびを差し伸ばし、許史の戎衣じゅういを引っ掴む。

 抗う許史を小脇に抱え、ついに生擒せいきんして陣に駆け戻ろうと馬を返した。


 ※


 それを脇目に劉霊は、伏胤の前を阻んで譲らない。生擒された許史を取り返さんと焦るところに、許坑率いる後軍が追い到る。

 そちらに向けて呼びかけた。

「許次将軍、よいところに来られた。許大将軍が齊萬年に生擒された。早く奪い返してくれ」

 それを聞いた許坑は馬腹を蹴って齊萬年の後を追うも、その馬前に一人の大将が立ちはだかる。みずちのような髯と巻いた髪、金壷眼かなつぼまなこに高い頬骨と火のように赤い顔、青銅と玉の飾りをつけた刀を手に、許坑を大喝する。

「逆徒めが、どこに逃げるつもりか。吾は漢の大将軍、胡延攸である。すぐに馬から下りれば死罪だけは赦してやる」

 許坑は大いに怒って鎗を向け、胡延攸は刀を舞わせて迎え撃つ。二人の戦いは二十合を越えても勝敗を決さず、陣に戻った齊萬年は劉霊と胡延攸の万一を懼れ、許史が縛り上げられるのを見届けると、再び馬を駆って陣を出た。

 晋の兵士はそれを見るや、方々へと逃げ奔る。

「敵わぬと分かったならば、早く降って撃ち殺されぬようにするがいい」

 齊萬年は大喝するや、馬腹を蹴って晋の軍列に斬り込んでいく。許坑はその声を聞いて兄の仇と思い定め、胡延攸を打ち捨てると齊萬年を目指して馬を駆ける。

「敢えて吾に挑戦しようとは、お前は何者か」

「お前を生かしたまま擒えて兄の仇に報いてくれよう」

 齊萬年の誰何すいかにそれだけ答え、鎗を捻って突きかかる。


 ※


 それより二人は戦うこと三、四十合、許坑が胸板を狙って鎗を突けば、齊萬年は体を開いて鎗を避け、小脇に鎗を抱え込む。許坑は奪われまいと鎗を引き、齊萬年も柄を握って手放さない。

 許坑が満身の力を籠めて鎗を引くや、齊萬年は柄を押し返し、許坑は馬下に倒れ落ちて兜が地に転がる。齊萬年は馬を寄せて許坑の頭に唐竹割の一刀を振り下ろす。刀は頭蓋を両断し、許坑は地に斃れて絶命する。

 兄弟二人の英雄好漢が一日に揃って齊萬年の手にかかったのであった。

 伏胤はまともにあたって勝ち目はないと察し、劉霊を打ち捨てると軍営に駆け戻る。晋兵は乱れ騒いで哭声こくせいは天地を揺るがし、胡延攸は三軍を差し招いて一斉に攻め寄せ、晋の軍列を断ち割っていく。

 晋兵は堪えもせずに四散して逃げ惑い、ついに潰走を始めた。

 胡延攸は先陣切って馬を馳せ、晋兵の後から追い討ちをかける。それを見た梁王も軍袍ぐんぽうを捨てて身を逃れ、晋兵の斬り殺された者が三十里(約16.8km)に渡って道につづき、日が暮れたのを潮に胡延攸も軍を返した。

 一方、晋軍は一戦に人馬の半数と許史、許坑の二将を喪い、その夜のうちに軍を雍州まで退けた。梁王は雍州に戻るや、解系、傅仁と軍議を開く。

「先に趙王が敗戦した際、羌賊の三部には大勝したにも関わらず、朝廷はその罪を問うた。今や孤は一戦に兵を喪って将を損なった。朝廷からの譴責が思い遣られる。どう対処したものであろうか」

「洛陽に使者を発して救援を仰ぐのがよろしいでしょう。ただ、兵を千人ほど喪ったと被害を小さく伝えるのです。さらに、叛賊は兇悪でにわかに平定は難しく、増援を願いたいと言えば、朝廷に仔細を調べる術はなく、罪を問われる虞もありますまい」

 解系がそう提案して傅仁もその所見に同意し、梁王は上表文を認めて洛陽に援兵を求め、敗戦の恥を雪ぐこととした。

 使者は昼夜兼行で馳せて数日のうちに洛陽に到着したことであった。

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