第12話
今のはいったい何だったんだろうー
と
俺は棺を開け、兄貴の顔を確かめてみた。
ひどく優しい顔をしていた。
俺は、兄貴の短い、生命のまだ宿っているような髪に手をやり、
それから、再び新しい線香を足して火をつけた。
その瞬間、
今の女性が、昔、俺が駅に送った、あの「さとみさん」だと気が付いた。
秋田から、どうやってきたのか―。
もう帰る電車もないのに、一体どこに行くというのか―。
幽霊かもしれない。と一瞬、俺は思った。
それでも、幽霊でも構わない。
兄貴の大事な人だったさとみさんを、
このまま夜の帳(とばり)の中に、一人で行かせてはいけない、
そんな気がした。
俺は線香の守番を、
滝人に頼むと、
喪服のまま、メットをつけた。
追いかけなきゃ―と
単車に乗り込んだ。
とにかく駅に行こう。
駅以外に向かう場所はないはずだ。
途中で歩いているさとみさんを見つけたら、
説得して、葬儀場か俺の実家に泊ってもらおう。
俺は必至で真っ暗な夜道を、単車で駆けた。
途中で、墓所を通る時、
どうして、その山のてっぺんにある須賀田家の墓の前に立つさとみさんの姿を
見つけられたのかはわからない。
喪服を着た闇に溶けるさとみさんの気配を感じて、
俺は単車を墓所の前にとめた。
長い長い時間が過ぎた。
やがて、さとみさんが墓から出てきた。
そのさとみさんに向かって、俺は、
身振り手振りで、必至で訴えた。
「こんな夜遅くに女性を一人で帰せません。
どうか、一晩、葬儀場か、
俺の実家に泊っていってください。
お願いします!。
遠慮はいりませんから」
しかし、さとみさんは黙って首を振るばかりだ。
どうしたらいいんだと、俺がもう泣きそうになっていると、
さとみさんが不意にろうそくを取り出して、火をつけた。
それを平らな敷石の上に置き、さとみさんはその場にしゃがみこんだ。
ろうそくの炎に照らされたさとみさんは、やっぱりこの世の者じゃないみたいに綺麗だった。
「あ、あ、あ、
アガトウ…」
そう言って、さとみさんはろうそくのほの明かりの中、俺にノートを差し出して見せた。
そこには、
「奥様もお子様もいらっしゃるので、
私はこのまま失礼します。
この近くにホテルを取っています。
どうぞ心配しないでください。
ありがとうございます」
と書かれていた。
俺は泣いた。
そのノートには、見覚えがあった。
ひっくり返すと、やはり、それは
昔、兄貴が何時間も机に向かって書きつけていた、点字翻訳のノートだった。
びっしりとノートを埋め尽くす兄貴の点字が、俺の目を刺した。
翻訳していた本の名前も知らない。
点字も読めない俺には、意味はわからない。
それでも、兄貴が、ありったけの思いを込めて、点字翻訳をしたことと
どうしようもなくさとみさんを愛していたことだけはわかった。
そして、そのノートがさとみさんにとって、とても大事なものだということも。
俺はさとみさんに向かって、何度も何度も言った。
「ありがとう、ありがとう、
兄貴にお別れに来てくれて、ほんとにありがとう」
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