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 昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。

 しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである。


 ――ヨハネによる福音書 11章 9~10節。


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 ある光景の中に俺はいた。


 そこはざらざらとした質感をして、向こう側にも同じように何かの光景が積み重なった層みたいなところだった。


 そして、俺はその中でも一番の表面にあたる層の中にいた。

 中にいた、という表現はおかしいかもしれないが本当にいるんだからしょうがない。


 張り付くように、しかし、平面ではない立体的な空間に足を下ろして俺はその絵画のような景色の中にいた。


 そして、そこは居間だった。


 四人掛けの食卓机と、擦り切れて革がボロボロになったソファー、安物のブラウン管テレビにたくさんのスリッパ。


 俺の家。


 そう、紛れもなくここは俺の住んでいたあの家の居間だった。


 正しくは俺が少年院にぶち込まれる中学生まで住んでいた家。

 間取りから、家具の位置、そしてあのじめっとした嫌な空気までが再現されたあの家が俺の目の前に広がっていた。


 そのとき、居間の奥から人影が現れる。俺は驚く間もなく、その人影に目を奪われる。


 ――お袋。


 俺はその瞬間、下腹部の奥がキュっと締め付けられるような感覚がした。

 手にはいつものように小さな手鍋が握られていて、それがちょうど丸く俺の頭の形にへこんでいる。


 お袋が俺を見て、眉根を寄せる。

 それは決まって俺をぶん殴る数秒前にお袋が浮かべる表情――。


 俺は叫んだ。正確には叫ぼうとした。


 しかし、その瞬間、世界は反転し、俺は違う景色の中に放り出された。


 顔を上げるとそこには鉄格子のはまった窓がある。


 少年院の部屋だった。


 隣に目をやれば、そこに伊左のベッドがある。


 俺は背を向けて寝ている伊左に手を伸ばす。

 だが手は届かず、俺はベッドから無様に落ちてひっくり返った。


 次に目を開けると、そこはガレージ。

 そして、いつの間にか俺の手にはノコギリとナイフが握られていて、目の前には死体がある。


 ああ、そうかと俺は一人ごちた。


 疑問はなかった。葛藤もまた無い。

 ただ、わかっているのはここでの俺の役割は決まっているということだ。


 それこそ宿命づけられているといってもいいぐらいに。


 俺は無心でナイフとノコギリを奮った。

 鮮やかな白刃が踊り、それが閃くたびに賽の目状になった肉が足元に散らばった。


「%$#*+?――!!」


 俺は切りながら何事か叫んでいた。


 なんて言っているのかはわからない。


 ただ見上げた夜空には月が何百、何千と浮かび、真横には俺のように叫びながら肉を刻む俺が延々と続いていた。


 ようやく俺はその無限の怨嗟から声を聞き分ける。


 ――いつになったら終わるんだ。


 俺は叫んでいた。

 そう叫びながら、叫んでいた。そうしてまた叫んで、叫び終わる前に叫び声を叫ぶ。


 この円環は無限だった。




「どうかね……気分は?」


 目を開けると、俺はここがあのクソッたれな家じゃないことに気付いた。


「ここは……」


 とつぶやきかけ、目の前でふんぞり返る小人のような男を見とがめた。


「イザヤ……」


「数秒気を失っていた。ここがどこだかわかるかね? ん?」


 イザヤはそこで指を出し、


「何本に見える」


 俺は、知るかよと応えるとこめかみに指を押し込んだ。

 

 酷い頭痛がした。


「頭が……」


 イザヤはそんな俺を検分するように眺めると一つ咳払いをした。


「ふむ、良い兆候だ……」


 俺はふらふらと歩くと、イザヤの脇にある机に手を付く。頼るあてがないと、そのまま倒れてしまいそうだった。


「ここは現実なのか……」


 イザヤはハハと笑うと、


「まだ記憶が完全じゃないようだな……。アスピリンがある、一錠どうかね」


 いらない、俺はそう応えるとイザヤと向かい合った。


「あの景色はなんだ」


「あの“景色”とは?」


「“景色”だよ」


 俺はいつしか口調も荒くイザヤに掴みかかっていた。


「頭の中を“景色”がぐるぐる回り続けてるんだよ。止まらないんだよ」


 イザヤはあくまで落ち着きを払って、


「“繰り返し”の記憶は通常の記憶とは異なる。君の脳はいま映像記憶の再処理を行っているはずだ。だとしたら君のいう“景色”とは、記憶だ。記憶そのものだ。しかし、繰り返す世界において記憶は過去の自分の証明にはならない。それは結末を知っている本のようなものだ、君はただ筋書きに従う」


「お前の話を聞いていると頭が爆発しそうになる」


「簡単な話だよ。我々のいう自己とは記憶の中で担保され続ける連続性だ。

 だが、“繰り返す”世界はその連続性そのものを獲得してしまった。君はその中で未来の自分そのものを参照することができる。それはだね、自己の消失だよ。あるのは普遍的な実存だけ……だからこそ、その景色は君に見せたはずだよ。永遠と連なる君の世界そのものを」


 何一つ理解できなかった。

 さっきまでと同様、俺は奴の言葉を全くと言っていいほど理解することはできなかった。


 あんな異常な光景を見ても、俺はまだこいつのように異常なんかじゃない。


 だが、あの光景の……何百、何千と続く俺自身を、俺はいったいどう説明する?


 あれは確かに現実だった。現実の延長線上にある実感を伴った光景だった。


「デジャビュとは――」


 俺の困惑にかこつけてイザヤは切り出す。


「認知心理学、脳神経学、ジークムント的夢分析……。

 諸説あるが、主に記憶に関する脳の誤処理が原因とされる。我々の記憶は通常、二重の処理行程を経て脳に貯蔵されるとする。


 短期記憶と長期記憶だ。短期記憶――ワーキングメモリといわれるものは、あらゆる形態の情報を記憶する。そして、情報を構成因子に分解し、長期記憶というネットワークへ出力する。わかるかね、記憶とは単なる入力ではないのだよ。入力と出力を兼ね備えたフィードバック処理が記憶だ」


 俺は無言でイザヤの話しを聞いていた。イザヤは一度頷き、話を続ける。


「そして、ここが重要だ。時折この短期記憶と長期記憶に同時に入力される例外が起こる。これはエピソード記憶にまつわる誤処理なのだが、そうすると長期記憶は短期記憶からの入力と五感からの直接的な入力の二つを受け取ることになる。このわずかな誤差で入力される二重の入力が、覚えがあるという既視感を産むのだ」


「それがあの“景色”になんの関係があるんだ」


 イザヤのそこで良く気付いたというふうに指を鳴らし、


「本題はそこだ。“繰り返す”世界の記憶は往々にして、それと同じ産物を我々にもたらす」


「つまり?」


「厳密には、メカニズムはデジャビュとは異なる。我々は既に経験した光景を、再び短期記憶で処理する。すると長期記憶は短期記憶からの入力と、すでに構築されたニューロン・ネットワークからの参照を同時に行う。覚えがあるのではない、覚えがあるからこそ、その処理が重複するのだ。そして、真の意味でのデジャビュ《既視》が起こる」


「じゃあ、あの光景は――」


「本物だ」


 間髪入れずにそうイザヤが肯定する。思わず俺の口から乾いた笑いが漏れた。


「そんなこと信じると思うか?」


「君もなかなか強情な男だな。実存はすべてを凌駕する。我々は認知の世界を生きてはいるが、それは艀(はしけ)のようなものだ。実際に世界と触れ合い、法則を経由し、目の前の現実に足を踏み出す。そこにはまやかしも虚構もない。君は自分の目が見てきたものすら疑うのかね」


「それは狂人か、シャブ漬けの理屈だろうが。お前の言っていることは滅茶苦茶だ、このサイコ野郎」


「だが、君が行った解体は紛れもない事実だ。そして、そのことを君は否定しない。あの光景も然り」


 俺は言葉を失った。確かに今の俺には組の業者と遜色ないバラしを行う自信がある。


 イザヤはそこで顎に手を当て、


「要望通り、君にもわかるように言おう。君は今まさに私と同じ時を共有し始めているのだよ。正確には、既に共有しているすべての時間ループについて“気付き始めている”。

 だが通常、人はこれを認識できない。大いなる時の中では我々の現実認識はあまりに希薄で、未熟な脳機能では次元の転換も、量子のもつれ状態さえも認知することは叶わない」


「そんなものわかるわけが無い」


「ああ、そうだ。わかるわけが無い。だが、感じることはできる。我々は言語によって意思疎通を行うが、それでさえ、いまだ完璧なる体系を打ち出せていない。それは言語という意味記号の連なりによる遣り取り、その複雑さに我々の知能が追いついていないからだ。

 しかし、我々はそれを“察する”ことはできる。誰かの怒りを、愛情を感じることができる。いまだ叙述し得ない感情という虚構を確かに実存として脳に騙し込むことができる。そして、その虚構とは現実そのものだ。事象は理論の腕を借りることはない。君が生みの親から受けた憎しみはちゃんと現実のものだったろう」


 なぜ、こいつがお袋の話を知っているのか。なぜ、俺の怒りを知っているのか。

 そんな疑問は当然、浮かんでこない。それがすでに既知であることを、俺は“知っている”のだから。


 イザヤは続ける。


「それと同じだ。現段階での我々の知能は複雑な体系を理解するのにはまだ足りていない。それが宇宙であれ、時間であれ、世界そのものであれ、我々は理解こそせずとも認識はする。そこにはなんの因果関係もない。すべては閃きと直感、灰色細胞の発火に支配されているのだ。そこにあるかもしれないと脳が抱く幻想が我々にそう認識させるのだ」


「じゃあ、全部テメェの妄想だって片づけることもできるわけだ」


 俺はそう切り込んだ。

 皮肉を込めた反論のつもりだったが、イザヤはそれを鼻であしらうと逆にオウム返しに切り返してくる。


「ああ、そうだとも。だが、君の脳は本当にそう思うことができるかな。私は一万回目のループにおいて、その認識の前に屈した。自己認識という世界の真実に耳を傾けた。

 それ以降、私は自身の記憶を疑ったことはあっても、目の前に広がる世界という真実を疑ったことはない。なぜなら現実とは認識からもたらされるからだ」


 イザヤはそこで大仰に手を振り、「なにか反論はあるかね」


 反論――それ以前に話はもはや俺の手に終えないところまで来ていた。


 “繰り返す”時間? 真実の世界? そして、俺の頭に巣食うに幾千もの俺自身たち。


 すべてが理解の範疇を超えている。


 つい数時間前まで、汚い路地裏でハンバーガーに齧りついていただけの俺。それが今やどうだ。俺は時間も空間も超越した世界の住人だ。


 だが、それも仕組まれていたということだろう。


 イザヤではなく、俺そのものに。

 俺が俺自身をここに連れてきたのだ。何度も“繰り返した”この道を辿らせて。


 そして、だからこそ俺は目の前の狂人を、この俺自身をも否定しなければいけなかった。


 それを認めてしまえば俺は、俺が今まで生きてきたこの世界の多くのものを失う。


 怒り、憎しみ、暴力。俺の人生はほとんどそれらに支配されていたと言っても過言ではない。だが、そんなクソ溜めでも全部無かったことになるのは御免だった。


「現実がテメェの妄想から生まれるってのは別に構わない。勝手に言ってればいい。だが現実に時間は巻き戻ったりしない。世界はループなんてしない。お前はただの狂人、それで終わりだ」


 俺はそう断言した。強く、俺は目の前の狂人を否定した。


 だが――。


 俺の思惑とは裏腹にイザヤは突如として笑い始めた。

 辺りに奴のテノールの哄笑が響き渡り、天井に渡された鉄骨製の梁がわずかに軋みをあげる。


「なにがおかしい」


 イザヤは笑い続ける。


「おい、なにがおかしいんだ」


 イザヤは笑う。笑い続ける。


「おい」


 三度目のおいと共に俺の腕が無意識の中、奔った。

 手を開けると、皺だらけのヒダが手の中に納まっていた。


 イザヤの耳だった。


「これは……」


 俺は驚きのあまり肉片を取り落とした。自分がやったとは信じられなかった。そもそも、手刀で耳を落とすなんて人間業わざを遥かに超えた芸当だった。


 困惑している俺をイザヤは痛がる素振りすら見せずに見つめていた。


「ハハハ……そうかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない。そこで私は試してみることにしたのだよ、ククッ……わかるかね? 君? 実験だよ、実験」


「実験……?」


 予感がした。いや預言か。それも不吉な。

 奴の眼差しは依然、預言者めいた尊大さで、だがその仕草は無邪気な赤子そのものだった。


 イザヤは再び目玉をぐるぅっと一周させると、楽しくてしょうがないという風に笑う。


「もし、私のこの現実認識が私自身の妄想だとしたら?

 それはすべてナンセンスということだ。その認識の前では、君すらも私が生み出した幻覚、または幻聴ということになる。しかし、だ。私のこの現実認識に、世界そのものが介入してきたら……それはいったいどういうことかね?

 君という実存はこの世界に有るのか、無いのか……。そして、君は私という存在に干渉することができるのか」


「俺はここにいる」


「そうだ。そうだとも。私としては君にそう言ってもらいたい。“私はここにいる”とね。そうでなければ、長い時間を掛け、君を私の時間に調教した意味がない」


 わかるかね、イザヤはそう俺に問う。


「簡単な帰納的アプローチだよ。私が自身の実存、その根拠として用いてきたものが別の因子によっても同様のプロトコルを経て実証され得るのか。私の現実を、世界がそうあるものとして反照せしめるのか」


「俺の存在が、お前とどんな関りがあるっていうんだ」


 イザヤは指を鳴らして、


「察しがいいな。君の存在、それこそが鍵なのだよ。より正確には、私とはまた別の“繰り返し”を認識する者……私という現実を唯一変革し得る君という第三者の存在がね」


「俺という第三者……?」


「そうだ。君から見た“繰り返す”世界が私と同様に見えているのなら、それは私の現実が君という外界――つまりこの世界にとっても同じ機構を有しているということになる」


 イザヤの言葉が段々と熱を帯びていく。

 この世界の仕組みを語るに及ばず、騙りさえするこの異常者の言葉。しかし俺にはそれが筋の通った論理として耳に流れてくる。


 実際、奴の言っていることはまだ真実などではない。そう……“まだ”。

 実験とは、つまりそういう事なのだ。結果はまだ出ていない。これから示される。


 俺という触媒を使って、奴は世界の然るべき形を占おうというのだ。


「お前は何をしようとしている?」


 俺は思わずそう問いただしていた。


「君の存在と私の実存。そこで二つは奇妙な一致を果たす。

『実存は本質に先立つ』……これはサルトルだが、私の実存は君という全存在に掛かっているのだよ。先に渡した私の大臼歯を見ろ。今の君には読めるはずだ……」


 俺はポケットから、先ほど投げ渡されたイザヤの歯を取り出した。

 ちょうど二股になった根っこの部分に糸くずが絡みついている。俺はそれを払うと、肉片を丁寧に剥き文字を読んだ。


 イザヤの言う通り、今の俺にそれは簡単に読むことができた。


「メサイア……」


「そう……『メサイア《救世主》』。文字としてのメサイア、その綴りを数字として読むと40、300、10、8となる……これらを足し合わせて358。ゲマトリアと呼ばれる聖書解釈に用いられる象徴的な数値計算だ。

 

 さらに引き抜いた大臼歯は上部を始まりとして永久歯で数えて十三番目。一つの歯が許容する数はイエスのゲマトリアに相当する888……。凡庸な計算だが、888×12を足し合わせ、11014回――私はこの閉じた輪を繰り返していることになる」


「なんで歯を抜いただけでそんなことがわかる」


俺は単純な疑問を口にした。イザヤはなにを今更というように、


「それは、これが私の超自然的な無意識が刻む描画のようなものだからだよ。

 私の無意識はこの宇宙のあらゆる物理量を、量子のもつれを“認識”している。そして、そこから逆算して世界の“繰り返し”も、また“認識”する。

 だが、理解はしていない。我々が赤信号を見て、なぜ気を付けられるか? それは赤信号の点滅と車が通行するという相関を理解しているからだ。そして、その相関を私が判定できるデータ――つまりは数値や文字として出力しなければならない。よって私は、私自身の無意識にそれを出力させようと考えたのだ」


 俺はかぶりを振って、


「都合のいい無意識だ」


 イザヤは皮肉のつもりなのか――はたまた本心からそう思っているのか――俺と同じようにかぶりを振る。


「なにをそこまで疑う。無意識による無意識の啓発だよ。入力に至る回路は既にこの頭に“有る”のだから、それを使えばいいというだけの話だ。それがブラックボックスというだけで、何もおかしい所はない。まぁ……と言っても工夫はしたがね」


 そう言って、イザヤは引き抜いた歯の位置を見せつけるよう唇を捲りあげた。


「口腔内の唾液の循環、舌先で払う食べかすの残留パターン。それらが歯石となって歯の表面に文字を刻む。唾液の循環を良くするため、私は唇に身体に吸収されない成分のジェルを注入した。結果は良好だ」


 イザヤは得意げに肥大した下唇を撫でる。ぶるんとしたナマコが奴の口で踊る。


「以前の私はこの数字を逐一確認し、その整合性によってこの世界の実存を確かめていた。だが気付いたのだよ。君の言った通り、すべては私の妄想なのではないかとね。そこで私は、私以外の時の参入者によってその整合性が覆されるか実験してみることにした。君という『救世主』の力を借りてね」


 俺はこれから先、なにが起こるかを知らない。それはまだ訪れていない未来だからだ。


 そして、その未来は奴にとっても同じ可能性〈未来〉だった。


 旧約聖書イザヤ――今更になって気付くのはこいつの名前は預言者のそれと同じだということ。


「ある時点を起点にしてごく短いループを設定する。そのループに私と同様、世界の“繰り返し”を観測できるものを組み込み、二重のループを構築する。

 観測者は、私同様にこの世界の“繰り返し”を認識するだろう。それは観測者の死によって起こるかもしれない。ふとした瞬間、木漏れ日に目が眩んだ合間に起こるかもしれない。

 だが、彼はその“繰り返し”を経て、必ず私のもとに帰ってくる。どれだけこの世界を廻り、繰り返そうとも、観測者は私という起源からは逃れることはできない」


 イザヤはもう一度俺の顔を覗き込んだ。

 今まさに究極の“気付き”が訪れようとしている。


「「2701……」」


 言葉は同時だった。

 イザヤは満足そうに頷くと、


「そうだ……今回が君と出会って2701回目のループだ。そこで私はようやく君に“気付き”を与えることができた」


 景色が流れ込んでくる。

 凄まじい勢いで頭の中に幾つもの光景が去来しては過ぎ去っていく。


 それは今ここに立っているという認識さえ、霞みの向こうに吹き飛ばすほどの記憶の奔流。


 俺は束の間それに囚われ、そして、その向こうに“それ”を見た。


円環――。


 すべてをその胸元に湛える永劫回帰の“繰り返し”を……。


「お前は……いや、俺はいったい何なんだ……」


 イザヤは永遠とも思える沈黙の後、悠然と口を開いた。


「我らはこの世界の真の姿を拝領する悠久のともがら。脳の認知プロセスの限界を超えた、もはや第六感ともいえる超自然的な知覚を得た新たな人類の先駆け……。

 原初の気付きの提唱者はその認知能力を持つ人間をこう呼んだ。


 ――聖人、と。


 彼らは統計的に一度の創世において十二人ほど顕現し、この世のいかなる運命さだめに翻弄されることを受難とする」


「聖人……」


「そうだ。常しえより来たりアブラハムの子ら、その末裔……」


 イザヤは目を瞑った。長らく待ちわびたかのように。


「長かった。自由意思とはよく言ったものだが、私にとっての自由意思とは完全に束縛された自己との対話だった。極めて辛い時間だったよ。

 だが、狂うことはできなかった。一般に狂ってしまえば、そこには平穏が、そして救済があると思われがちだが、それは大きな間違いだ。狂気に飲み込まれたら最期、人は真の崩壊を目の当たりにする……。もうそれも終いだ。結実の時がくる……」


 俺はイザヤの首元を掴むと、強引に引き寄せた。


「お前の狂った計画に巻き込まれるのだけはごめんだ。言え、何をする気だ? お前のいう実験ってのは……。二重のループってのは何だ?」


 俺はそこでようやく意志を持って問いを発したと言える。


 今までがそうじゃなかったと言うつもりはない。

 ただ、あの脳内に渦を巻く疑念を取り去ることに必死で、俺はこいつのペースに良い様に乗せられていた。


 何より俺の問いそのものが“繰り返す”時間の中で、そもそも既に決定されたレールの一部だったのだ。


 だが、こいつは言った。結実の時が来る――つまり結果はまだこれから示される。


 なら、まだ止めることができる。今なら、まだ俺が俺自身の意志で、そして意思を持って未来を変えることができる。


 この仕組まれたレールを断ち切ることができる。


「言えよ……」


 俺の言葉にイザヤは何事かと口をもたつかせていた。

 目を遠くを見つめていて、どこか夢心地のまま。あらぬ方向を行ったり来たりしていた。


 俺はイザヤのその声を聞くために耳を近づける。


「ドーナツ……ドーナツ……ぐひひ、穴の開いた円環……」


 瞬間、俺はイザヤの身体を投げ飛ばしていた。


「このサイコ野郎が! 殺してやる!」


 イザヤの身体は砲弾のように宙を駆け巡ると、死体を吊るしてあった小型クレーンに激突して落下した。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――!!


 肉体記憶という発想はなるほど、君にしては勘が良いといえる。これは私の私見だが時間にも記憶があるのだ! 

 ある繰り返す時系列の中で、時間そのものがそのときに起こる事象を記憶しているのだ。だから、我々は運命を変えることができない。まるで巻き戻したテープを再生するようにね」


 俺は落下したイザヤに飛びつくと、馬乗りになり首を締め上げた。だが、その間もイザヤは口を大きく開き、何事かをのたまい続ける。


「そうだ! ニューロンというのもなかなか良い線をいっていたぞ。

 ミラーニューロンというものがある。これは同位複合体系に生じる反復的な自己保存マトリクスのことだが……。これと似たようなものが異なる次元や重力波にも観測される。より近い次元や銀河間に働く大きな引力のことだよ!

 近いもので言えばクーロン力がそれに相当する。彼らは荷電粒子間で引き合う。時間や重力も、それ同様に互いに引き合い。そして、その反発力が宇宙や時間の広がりを生み出しているのだ」


 イザヤの唇の端から白い泡が吹き上がる。顔は茹蛸よりも赤く、どす黒い赤紫色に近づきつつある。


 俺は手に力を緩めることはしなかった。


「その引き合いは大きな奔流だ。我々はその流れに浮き沈みしている木っ端に過ぎない。どんなに空間が、時間が、次元が離れていたとしても我々はこの引き合う力には逆らえない。

 君らが目にする些末な事柄も、この大元の上で成り立つ表層の現出に過ぎないのだ……。悲しきかな、我らはこの運命という盤上の上に載った、ただの駒に過ぎない。万天の廻れば、我々はまた流転する……」


 そのときイザヤは首が異様な音を立て、力を込めた腕がぐにゃりとめり込んだ。はっとして手を離すも、イザヤの口からごぽりと血の塊がこぼれ落ちる。


 イザヤの瞳からは光が急速に失われていった。それでも、その肉厚の唇が最期の言葉を紡ぎだそうと微かに震えていた。


 俺は血の泡が噴き出すイザヤの口に耳を近づけた。


「話はここまでだ。襲撃者が来る。備えなければ……。君がわたしの世界でこれを撃退できたのはたったの395回……」


 そのときガレージの扉が盛大な音と共に開かれた。


 扉の向こうで伊左が女の死体を見つめていた。


 視線はそれから俺へと移り、ほどなく怒りが俺を貫いた。

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