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 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。


――ルカによる福音書 19章 23節。


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「お前は?」


 俺の第一声はその疑問に端を発した。

 少なくとも、こいつがさっきまでの奴とは同一人物じゃないのはどう見ても明らかだった。


「お前は?」


 俺はもう一度問うた。しかし、イザヤは応えない。

 ただ、俺を見つめる瞳がぐるぅっと一回転し、肉厚の唇からよだれが垂れ落ちる。


 そして、一回転して戻ったあと、イザヤはまたもとの赤子に戻っていた。

 キャッキャッと無邪気に笑うと、俺に向かって、そのクリームパンみたいな腫れぼったい手を伸ばしてくる。


 と思った束の間、イザヤの黒目がまたぐるっと回り、その顔に聡明で威厳さえ感じるほどの理知的なしわが刻まれる。


 なにが不思議かっていうと、俺にはこいつが正気であるのか、また狂気の中程にあるのかのその見分けが簡単についたということだ。


 そのどちらがコイツの本性なのかは判らない。それでも、その二つが決定的に違う存在であり、それがこいつの身体に同居していることは俺にも理解できた。


 そして、イザヤは数回、頬の筋肉を――まるで自分の表情を確かめているかのように――ピクピクと動かすと、腫れぼったい唇から、驚くほど流暢に言葉を紡ぎだした。


「その質問から推し量ることのできる意図には複数あるが、それは私が誰か?――という問いで捕えても構わないかね」


「ああ、そうだよ。お前はいったい誰だ?」


「ふむ……」


 イザヤは、重苦しくうなずくと腫れぼったい唇に手をやって何度か弾く。それが奴の癖みたいなものらしく、何度かそうすると再び口を開けた。


「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである……」


「はあ?」


「ヨハネの福音書だ。少しは敬意を払い給え。」


「それが俺の質問に対する答えか?」


 俺は反射的に懐を探った。だが、そこにあるはずの拳銃はどこにもない。


「クレーン横の作業台の上だ、カウボーイ。それともブーツを履いていないと早撃ちもできないのか」


 イザヤの言葉に振り向けば、たしかに銃はクレーン横の作業台に糸鋸やトーチと一緒になって置かれている。


「暴力だけが脅しになると思わないことだ。状況が人を殺す。決して銃なんかではなく……。眉間に銃口を押し当てることしかできないのは君の言葉に含蓄というものがないからだ。想像力を養い給え」


「銃がなくても、お前をぶち殺すのに一分もいらないだろうが」


「剣を恐れぬ者の前では刃の冴えは枝にも等しい。君は、まず相手を知ることから始めたらどうだろう。先程も私の助力が無ければ三分の一の確率で君は女を逃がしていた」


「その口は泣き喚くためだけにあったんじゃないんだな」


 俺はイザヤの瞼に指を添える。


「さっさと俺の質問に答えるんだ。こっちは殺さなければ何をしてもいいと言われている」


「目玉を抉り出すにはコツがいる。眼窩は若干、下に落ち込んでいて頬骨が境になっている。そのまま押し込んでも、眼球が奥へと押し込まれるだけだ。昔、私の拷問を担当した者はもっと優れた手並みだったぞ。視神経を繋げた状態で抉り、私の顔面の皮膚を削り取る様を直接、照覧せしめた。もちろん、私自身の眼球にね」


「ぞっとする話だ」


「これが想像力だ。理解したかね」


「ああ、すっかりな」


 と応え、俺は指を押し込んだ。ケチャップを絞った時のようなブチュリという音がして、イザヤの右目が押し潰される。押し込んだ俺の指の回りに白いラードのようなものが溢れだした。


 指を押し込むだけイザヤはビクビクと大きく痙攣して、同時に口から白い泡を飛ばす。


「いやっ、なかなか、これはっ、これはなかなかっ」


「はは。そうだろう、中々だろう」


 俺はイザヤの右目から指を引き抜くと、朦朧とした奴にも聞こえるように耳元ではっきりと囁いた。


「今度こそ、ちゃんと応えるんだ。お前はいったい何者なんだ」


「……」


 イザヤは黙っていた。痛みに耐えているのか、それとも激痛ですでに意識を失っているのか。しかし、イザヤの瞳には変わらず正気の光が宿り、また痛みに耐えているようにも見えなかった。


「おい」


「私は痛みを意識から完全に切り離すことができる。これは脳の報酬系の働きを逆手に取ったものだが。あらゆる感覚、刺激というものはすべて選択されている。

 我々は絶え間ない意識活動の中で普段なにを感じて、なにを感じないかを無意識に選び取っているのだよ。夜、虫歯が痛んでも我々は寝るという行為に没頭できるように。はたまたガードレールで足を切断したバイカーがそれに気づかず数キロも走行を続けたように」


「頼むから、俺にわかるように言ってくれ」


 俺がそう嘆いてみせてもイザヤは、どこ吹く風で話を続ける。


「これを習得したのは、何巡目だったか……。私が精神活動を征服し、より上位の意識活動によって肉体の細かなポテンシャルを引き出すことに成功したときのことだ。今や私は脳内物質の分泌から、不随筋の運動に至るまで完璧なまでの肉体制御能力を得た。私は総体、ゲシュタルトとしての意識活動を解体し、己を一種の精密機械として行使することができる……」


 言い終えると、イザヤは口をもごもごとさせると何かを吐き出した。それは白い小石のようで、先っぽに肉の根っこみたいなものが生えていた。


 イザヤはそれを手で摘まむと顔の前にかざし、おもむろに検分し始めた。


「ふむ、358……。喜び給え、エンジェルナンバーだ」


 そう言って、イザヤはその小石を俺に投げ寄越した。


「今、引き抜いた。見ろ」


 小石は歯だった。大きさからして奥歯に相当した。


「ふざけるな。なんてものを寄越しやがる」


「御託はいい。早くし給え」


 横柄に顎をやるイザヤに促され、俺は滑る歯に目線をやる。

 するとそこには黄ばんだ歯石でなにか文字のようなものが刻まれていた。


「なんだ……文字みたいな」


「文字みたいではなく、文字だ。正確には数字だが」


「読めない」


「ヘブライ数字だ」


「で、これになんの意味が」


「君は聖書の登場人物でラザロという者を知っているかね?」


「貧乏人と金持ちだろ。昔、本で読んだが俺にしてみれば金持ちの方が気の毒だ」


「違う。そのラザロではない。キリスト誕生以後を記した新約聖書には二人のラザロが登場する。君の言うラザロはルカの福音書に登場するラザロ。私の言うラザロとはヨハネの福音書第十一章、ベタニヤのラザロだ」


「知らねぇよ。そのラザロだかオセロがいま何の関係があるんだ」


「ラザロはいわゆる“甦り”だった。病でその命を落とし埋葬されたが、その四日後イエスの呼びかけにより蘇生した」


「それで」


 俺は先を促す。


「それが私だ」


 正直、俺はこの時どんな反応をしたのか憶えていない。

 笑ったのか、呆れたのか、はたまた奴の言葉を信じて感嘆のため息を漏らしたのか。


「そんな話をまさか信じろっていうのか」


「信じるも何も君はすでにこちら側だ。本当は“わかっている”のだろう」


 そうして、イザヤは自分の頭をコツコツと叩いてみせる。

 狂人の戯言。そう思っていたはずの俺はいつの間にか、この狂人――正確には正気を保つ狂人――のペースに乗せられていた。


 狼狽する俺を尻目にイザヤは話を続ける。


「聖書は創造から始まり終末へと向かう一連のイベントを記したものだ。あらゆる事象は既に決定事項であり、黙示録の喇叭が吹かれるそのときまで、着実に遂行され続ける。

 しかし、終末の訪れは世界の終焉なのだろうか。答えはノーだ。言うだろう、歴史は繰り返す。神は、創世記においての七日で世界を創造したと言われるが、その七日は繰り返す円環の輪だ。一日は、夕があり朝がある。それを七日繰り返し、一週間だ。さらにこれを六回繰り返し、安息日……。

 “甦り”を通じて、我々もまた繰り返す。朝、夕を繰り返し、七日を繰り返し、一年を繰り返し、そして百年を繰り返す。その小さな繰り返しの積み重ねの中で少しずつ前進し、やがて大いなる安息へと至る。またしても、そこで世界は一巡し、創世からまた長い繰り返しの連環が始まる……」


 イザヤはそこまで一気に言うと鼻から大きく息を吐く。


「キリスト様のお話は年少で散々聞かされたが、なんの徳もないどころか、俺の脳は萎縮したように思うぜ」


「何が言いたい」


「短気になったってことだ」


「そうか、眼球運動による脱感作と再処理法E  M  D  Rというものがある。眼球運動によって、トラウマに関する記憶コーディングを再統合するという療法だが、ベトナム戦争帰りのPTSD患者にも用いられている。試してみるといい」


「今すぐ、お前を黙らしてやる」


 俺はイザヤの口に両手を突っ込んだ。そのまま力を入れ、横に引き裂くよう力をこめる。


「訂正しよう。君のその腕は人体の構造を十分に解すようだ」


 フガフガとくぐもった声でイザヤが言った。


「怖気付いたのか」


「いいや。これは指摘だ。今、君が差し入れた指はわたしの顎関節を見事に極めている。通常であれば人の口に指を突っ込むのは、まず分が悪いと言えよう。私は対抗策として、君の指を簡単に噛み千切ることができる。だが、君はそうならないように、まず最初に顎関節の可動領域いっぱいまで私の顎を極めた。これは簡単に出来ることではない」


「俺にそんな才能があるなんてな」


 そこでイザヤは俺を指さす。


「才能などではない。君はすでに“知っている”のだ。すでに何千回にも渡って人間を解体してきた君には、人体の構造について直感的な理がある。私と共有した何千ものループが君のニューロンに新たなカットアウトを作り出した」


「わからない。お前の言っていることは何一つとしてわからねぇ。なんだよ、ループって。なんだよ、繰り返しって。適当なこと言ってんじゃねぇよ」


 俺は思わず、イザヤの口から手を離した。イザヤの真に迫る表情に気圧されたのもあるが、なにより急な頭痛で眩暈がした。何かが脳の内側でじんわりと熱を発している。


「適当などではない。私は途方もない甦りの中で君とこの時間を幾度も繰り返した。君が死体から服を脱がすように皮を剥ぐ様を確かにこの目で見てきた。

 当初は拙かったが、あれは千を超えたあたりからか……君はある時を境に急激に解体を自分のものとし始めた。“気付き”だよ。それが君を変えた。君の無意識はとうに“気付いている”」


「やめろ。やめてくれ」


 頭痛が激しさを増していく。

 景色が二重に見え、音が無限に引き延ばされて聞こえる。


 ただ、イザヤだけがクリアだった。

 すべてがぐらつく世界で、ただはっきりとイザヤだけが後光を放つように存在している。俺の世界の中に君臨し続けている。


「自分の無意識を解放しろ。“気付け”。“気付く”のだ。それですべてが変わる」


「思い当たる節があるはずだ。気付きは……デジャビュとして表れる。いやデジャビュ以上に生々しい――しかし、あるはずのない経験として」


 ――デジャビュ。


 瞬間、俺は雷に撃たれたような感覚がした。


 いや、事実として何かが起こっていた。何かが俺の脳内を凄まじい勢いで書き換えていく。閃光、ひらめき、フラッシュバック。何でもいい、とにかくあのときの唯一の疑念が、俺を決定的に“気付かせ始めている“。


 俺は自らの両手を掲げた。あのとき、俺の知らないどこかで独りでに死体を切り刻み続けた俺の腕。


 お前はいったい何を知っている?


 ふと顔を上げると、そこにはイザヤのすべてを見抜くような眼差まなざしがあった。


「ようこそ、裸の世界へ……」


 俺は、急に眩しくなって窓から見える夜空を見上げた。

 月が、星が、夜が、宇宙が、こんなにも明るいことに気づいたのは初めてだった。

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