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「あんた……いったい何してんのさ……」
女の問いに、俺はいやと応えかけ、やはりやめた。
あげかけた腕から血と油ともつかない数珠が垂れ落ちたからだ。すぐに手を引いて隠したが、もう遅い。
案の定、女の視線は俺の手に釘付けだった。
「あんた……それ……」
視線は腕から滴る血を追って、作業台の糸鋸やハンマー、そして後ろに控える肉の塊へと移動していく。
そこまで見れば、ことの経緯はうんざりするほど判るというものだ。それはもう嫌になるくらいに。
「それ、ヒトでしょ。あんた、それ、人殺しでしょう?」
女は俺の後ろ――ゆるやかに回転運動をしているダルマを指さした。女の手が微かに震えている。
ああ、そうだよ、死体だ。ご名答さ。
なんて、言えるわけなかった。彼女を刺激すれば、それはすなわち、ここで行われたことの露見に繋がる。
ここでのことがバレてしまえば、俺のキャリアはそこで終了だ。鉄砲でも、ましてや自義理でもない。逮捕されたあとは、そこに処理屋が送られてくるだろう。
ムショはヤクザに息の掛かった奴らの巣窟だ。入れば即刻、それは墓場へ直行することと同義だった。
……間を持たせる必要がある。この状況をどうにかするための。
「よ、揺子さんだったかな。伊左から話は聞いてるよ」
そうやって俺は人懐っこく話しかけた。愛想笑いに媚びへつらい。馬鹿らしかったが、女を宥めるためには、とにかく自分が無害な人間である――それをわかってもらう必要があった。たとえ、それが錯覚だったとしてもだ。
俺はポケットに手を突っ込み折り畳み財布を取り出した。財布を開き、中から名刺を切る。が、血と脂で塗れた指先に名刺の端が何度も滑った。
やっとのことで名刺を取り出し、
「あの、私こういう者なんですが……以後、お見知りおきを……」
とにこやかに笑いかける。
そして、笑顔の向こう側には引きつった表情の女がいる。
「狂ってる……」
と女の呟きが聞こえて、俺は真顔になった。自分でもわかる。表情がすべてこそげ落ちた無の感情が俺の顔筋に張り付いていた。
そこから先はもう選択肢など、どこにも無いように思われた。
アクリルの絵具のような血がべったりと付いた名刺を捨て、俺は無感動に一歩踏み出した。
女がびくっとして後じさる。
「ちょっと、あんた、近づかないでよ!」
女のヒステリックな声がガレージに響いた。
女の甲高い声は良く響く。今の声で、事業所の誰かに不審がられたかもしれない。だとすると、手早く済ませなければいけなかった。
プランBだ。
まだ堅気の世界にいた頃、殺人というのは物事の解決手段においてまさにウルトラCだった。
殺せば、もう何かをとやかく言われることもない。そいつとの今後の折り合いも、お礼参りも考えなくて済む。ハイリスクだが、バレなければ最高で最良のソリューションだった。
組に入ってからはそれは日常となった。裏稼業では人を透明にするリスクより、人を活かしておくリスクの方がべらぼうに高い。
だが、一番変わったのは俺自身だった。
一回でも、殺人というウルトラCを使って物事を解決するとこのCはBにもAにも格下げされる。物事の解決策、その選択肢に殺害の二文字がいつまでもくっきり張り付いてしまう。そういう人間になってしまう。
ましてや、恒常的にそれを使っていれば、なおさらだった。
「ちょっと、聞いてんの! あんた!」
女がさらにヒステリーを起こして叫ぶ。
そもそも、この手のヒステリーには何を言っても通用しない。俺のお袋もそうだったように、彼女らの激情はいわば生物的に仕組まれたものだ。
逆に言えば、こうやって喚くことが彼女たちの危機やストレスに対する対処法であり、本能に刷り込まれたプロトコルみたいなものなのだから。
ルールを変えることができないのと同様、ルーツもまた人を縛る。俺がこんなふうにしか生きられないのと同じで、彼女もそんなふうに喚くことしかできない。
そして、俺のルーツはもはやプランBを決行する以外に道は無いと喚き立てている。
俺は抗えない力に一歩、また一歩と踏み出す。
「それ以上、動いたら警察に電話するわよ!」
女はスマホを取り出し、110をダイヤルした画面を俺に見せつけた。だが、問題は電話が通じる事などではなかった。
問題は、本当に問題なのは『伊左の女に見られた』ということだった。付け加えれば堅気の伊左の女に見られてしまったということだ。
伊左はこの女と駆け落ちするために指を落としてまで堅気に落ちた。それほどの決意を伊左にさせた女を俺は今この手で伊左から奪おうとしている。
それが指し示すのは、もはや決裂という言葉では済ますことのできない明確な隔絶だ。
伊左は全力で俺のことを殺しにかかるだろうし、俺も全力で伊左を殺さなくてはならなくなる。
俺の問題は詰まる所、そこだった。
俺はまたしても踏み出す。
否定の声をあげる感情を超え、冷酷に調教された俺の手足が呼吸と連動して殺人術を引き出し始める。
今なら、まだ間に合う。
――最初は胸だ。的が大きいし、ろっ骨を破壊すれば肺が潰れて叫べなくなる。
まだ説得できる。相手は無関係の堅気なんだぞ。
――次は頭。意識を混濁させれば、抵抗は少なくなる。
やめろ。こんなこと考えるな。
――最期に首だ。両手が首に通れば、一秒もかからず……。
やめてくれ!
その時だった。
サイレンが辺りに響き渡った。
奇妙な……としか言いようがない音階に俺と女は同時に振り向く。奇妙なのは当たり前だ。サイレンだと思った音はイザヤの喉元から出ていた。
一瞬の空白があった。
なにか唐突に間の抜けた時間。タイマーの右端が刻む、余剰。
俺はその空白にあって、はっきりとした意識を保っている。
イザヤが俺を見つめていた。
しかし、その表情のどこにもあの正気を失った赤子のような狂気はない。
あるのは聡明さと知悉さを示す年輪のような深いしわと、どこまでも見透かすような知恵者の瞳……。
そう。奴はそのとき明らかに“まとも”だった。
そして、そのコンマ秒の最中、俺は確かに見た。奴が示し合わせるよう鷹揚と頷くのを。
――俺は駆け出した。
決してイザヤに見つめられたからではない。
虚脱と現実のはざまをそこに見出し、不意の自己認識に目覚めたわけでもない。
“俺は駆け出すべきだったのだ”――今日、このとき、この瞬間。
だから、駆け出した。
目の前に迫る女。
まだ意識がイザヤに囚われているのか、その目はどこか遠くを見つめるよう俺に向けられている。
俺が首を掛ける直前、女はやっとのことで現実を認識した。しかし、すでに俺の両腕は女の首を万力のように締め上げている。
女の口から、カァーと痰を吐くような音がして、目が裏返って飛び出す。まるで、びっくり箱みたいだ。
女は死の間際に何度か俺の顔を両手で押しやった。ぱすぱすと虚しく広げられた腕が死に際のイソギンチャクを思わせた。そして、最後にはタイヤの空気が抜けるような音を吐き出して動かなくなった。
どれくらいそうしていただろうか。俺は両手はがっちりと女の首にしがみ付いたままだった。
指の一本、一本に引力が発生したかのように離れないのだ。ゴムのような首に俺の指先がずぶずぶと沈んでいく。
そのうち俺の腕の方がうっ血し始めて、女のどす黒い顔と判別できなくなったころ、ようやく俺はすべての指を引きはがすことに成功した。
二つ目の死体は事業所の地面に軽く弾んでから倒れた。
「……いい」
「どうすればいい……」
俺はふらふらと足を進める。
その足どりは頼りなく、いまにも崩れ落ちそうに震えて。でも、たしかに至る場所を知っていた。
俺はイザヤの正面に立った。
「なぁ、イザヤ……俺はどうすればいい……」
そして、奴は応えた。
「そうだな。まずはハンカチで手の油を拭うといい。末梢神経の違和感は総体としての感覚を著しく脅かす。話はそれからだ」
流暢に話し始めるイザヤの姿に、俺は言い知れぬデジャヴュにも似た感覚を抱いていた。
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