3
「いいか、今夜中に片を付けるんだぞ。溶接用のガストーチは使わせてやる。手早く済ませろ」
伊左はそう釘を刺すと出ていった。念のため、別の事業所にいる従業員を帰しにいくとのことだった。
がーんと扉の閉めた音が響き、あとには俺とまだ温かい死体袋だけが残った。
俺はしばし、ぼーっと倉庫を見渡していた。事業所――ここのことを伊左はそう言っていたが、どう見てもさびれた倉庫にしか見えない。よくてガレージだ。
なんでも、輸入トウモロコシの備蓄倉庫だったのを伊左が買い取って作り変えたらしい。今では輸入車を中心に取り扱っているとのことだった。
その証拠に倉庫にはやたら大仰な車ばかり置いてある。
数秒、そのラインナップに見惚れていたが、そんなことをしている場合ではないと我に返った。
死体だ。死体を解体しなくてはならない。それも今日の日の出までに。
俺は死体を入れた黒いポリ袋を引きづり、倉庫の真ん中まで持ってきた。
そこには、ちょうど小型のクレーンが置いてあった。脇に束になった鋼鉄ワイヤーが置かれている。
さっそく俺は何重ものポリ袋を乱暴に破くと、中の死体を引き釣り出した。
破けたポリ袋の隙間から血と脂肪、そして糞尿の合わさった最悪のガスが噴き出し、俺はそれをまともに鼻面に浴びた。
胃がひっくり返る様な感覚がして、俺は死体の脇に吐いた。だが、このあと控える作業を想うと、これはまだ洗礼のようなものだ。
やっとのことで死体を引きずり出す。
解体の始まりだった。
ガストーチの火は槍のように尖り、皮膚をじわじわと焼き切っていく。皮膚の裂け目からは赤い繊維の束――筋肉が覗く。その繊維の一本一本が漏電した電線のように、捻じれ、解れ、千切れ去っていく。そして、繊維の繭の中から白い軟骨が覗いた。
作業は、思っていたよりも難航した。
組に居た頃は何度か、そういう専門家の手伝いをしたことがあった。彼らが執り行う“バラし”は、それはもう見事に洗練されたまさしく解体と呼べるものであった。
彼らの作業は数人で行われた。そのすべては細分化され、分担され……切る、剥ぐ、砕くなどの作業の一つ一つには死体にまつわる不可逆的な要素を考慮しており、恐ろしく効率的だったのを俺は憶えている。
俺がそこで懐いた感慨は解体は人間をただの肉の塊に変えるということだった。
彼らの作業を通じて、初めて人は“部位”となる。人間性の残滓は綺麗さっぱり脱色され、一匹の牛が肩ロースやハラミに加工されるの同じように、元人間の太郎君は見事、生鮮食品の仲間入りを果たす。
実際、俺は彼らの解体を見ても、なんのグロテスクさも感じなかった。
彼らは言った。
解体を行うときは初めに人間性の象徴である手と頭を落とせ。死体をフックに吊るす際はうなじではなく上顎に掛けろ。死体の焼ける臭いは醤油で誤魔化せる。
そして俺はというとそういう彼らの蘊蓄やら小技やらを実践してみようと思ったわけだ。
だが、現実と言うのは甘くはない。というよりは机上の空論とでも言おうか、脳内に思い描くイメージとは裏腹に、ナイフを奮うたびあくまでこれは人間なのだという事実が俺には突き付けられた。
さらに生々しい脂肪の黄色だとか、緑(そんな色もあるのか)だとかの極彩色に俺は戸惑い、いつの間にかまた吐いていた。嘔吐は黄色いような緑のような液だった。
しかし、俺はめげずに解体を進めた。
死体はまだ足も腕も健在だ。ここからまだ骨をはじめ、爪やら歯やらを分ける作業もある。いま何時かはわからないが、十二時はとうに回っているだろう。時間は切迫している。
だが、それだけじゃなかった。
それだけじゃないというのは俺がそうやって焦っているから、時間がないから。
――だから、ひいこら必死に死体を切り刻んでいるわけではないということだ。
俺はこの作業の中で不思議な全能感を覚え始めていたのだ。
いつからだろう。腹の中で怒りがミミズのようにうねっていたのは。今こうやって死体を切り刻んでいるときだけは、俺はそれを忘れることができた。
これは俺が死体を切り刻むことに快感を感じるとかそういう類のことではない。
ただ、何か没頭し続けられるという一点のみについて、俺はこの解体作業に愛着を感じ始められるようになっていた。
皮膚を焼く、骨を砕く、切り離した肉から爪や髪を取り分ける。
そうした、幾らか大変な行程を経て、俺は汗水を垂らし、血や汚物にも塗れる。
でも、目の前の肉の塊からはどんどん体積が失われていき、作業は目に見える形で進行し、片付きつつあることがわかる。
そういう、小さな感慨が俺を夢中にさせた。今の俺に必要だった。
もはや、俺にとって死体の解体という作業は、作業以上の意味を持ちえない。それ以外の
そんな一切が俺と作業、この二つの関係から完全に抜け落ちていた。つまるところ、どうでも良かった。
だが、そんな作業の一瞬の中、俺は一筋の閃光のような既視感を憶えつつあった。それは記憶の合間すり抜けて、翔けていく俺自身の腕という形で現れた。
最初に気付いたのは無意識に切り落とした腕部、その滑らかさ。
驚くべきことに先の児戯とも思えるほど拙いこの腕は、俺が作業に心を奪われたほんの一瞬、まさにその恍惚の間に、熟練の料理人如き腕前で患部をこそげ落とし、焼き、骨の間にヘラを滑り込ませていたのだった。
そして、偶然かと思われた行為の堪能さは、それを意識すればするほど嘘のように解体を美しく、完璧に仕上げていく。まるで、腕から先が自分のものではないような感覚だった。
どんな経験や記憶をも飛び越えて、自身の腕だけが頓着することなく目の前の死体を鮮やかに切り刻んでいく。自分が念じるだけで、腕はまるで憶えているぞと言わんばかりに五指を余さず、器用に使い分けて解体を行う。
俺はそこである言葉を思い浮かべていた。
――肉体記憶。
よく聞くだろう。臓器移植された患者が、生前にドナーが得意にしていたピアノを弾いたとか、あるいはそのドナーに影響されてベジタリアンになったとか。
記憶は脳内にだけ蓄積されるものではないという。
ニューロンとか、そういうものは医者じゃないから詳しくは判らないが、脳は神経細胞の集まりで、つまりは俺たちの手や足に通っている神経を集合させたものだ。
だったら、この肉体が脳の真似事をしてもなんら不思議はないのではないか。
事実、昆虫は頭をもいでも餌の匂いに引き付けられると聞く。それは奴らの足や体に残っている神経細胞が一種の脳の役割をするからだと、組の蟲毒使いに教えられたことがある。蟲毒使いはその単純無比な対象検索能力を使って、暗殺対象を絞り込んでいた。
そう考察するうちに目の前の死体はいつの間にか胴体だけのダルマに仕上がっていた。俺はいつの間にやら手に握っていたバット、それかフライドチキンの持ち手みたいな足首を横のポリバケツの中に捨てた。
俺は血や黄色い脂肪が付くのも構わず、自分の頭を掻きむしった。
俺の想像の及ばない領域でなにかとんでもないことが起こっている。そう確信めいた疑念が頭に跋扈し始めていた。
それは仕組まれたとさえ言える。
そういう事は今まで腐るほどあったし、なんならそれが今日この瞬間であっても不思議でないというのも、俺の生業を見れば明らかなことだった。
生業といえば、俺はここで自分の迂闊さに後悔することになる。
状況を冷静に鑑みれば俺は油断するべきではなかったし、こんな馬鹿らしい妄想に我を失うべきではなかったのだ。
だって、俺はいま何をしている?
それに気づいたのは、あの鬱陶しいイザヤの鳴き声が耳に入ってきたからだ。
考えの邪魔をされ苛立った俺が――ああコイツの声が苛立つのは、蒸発したお袋のヒステリーそのまんまだからだな――と無駄な感慨に耽りながら振り向いた時、それは目の前に佇立していた。
女。
正真正銘、揺るがぬ現実のごとき無慈悲さで俺の前に立ちつくし、俺と皮を剥かれたダルマを交互に見つめている女だった。
なんて間が悪いんだろう――とは思わなかった。
代わりに――これこそ仕組まれたということだぞ――と皮肉な声がどこかから俺のことを笑っていた。
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