俺はある種、強迫観念に駆られるようにして車を走らせていた。


 車は大馬鹿のところから奪ってきたシボレー1974年型。奴が後生、大事に持っていた鳴り物の輸入中古車だった。


「とりあえず、死体だけでも消す必要がある」


 務めて平静な声を作り、助手席に向かって俺は呼びかけた。


 助手席には男がいた。太鼓腹を抱えたある種、貫禄のある男だった。


 男の名は伊左――俺の唯一無二の旧友だった。だった、というのはこいつはもう堅気に落ちたからだった。


 伊左は長年に渡って続けた俺とのコンビを解消して、堅気の女と結婚した。だから、もうこの世界に縁もゆかりもない。


 だが、仕事をトチった今、頼れるのはもうこいつしかいなかった。


「あいつを透明にしないと俺が処理されるんだ。頼むよ、伊左……」


 再三の俺の呼びかけに、ようやく伊左は応えた。


「そんな理由で、俺はこんな時間に呼び出したのか? しかも、あんなドーナツまで見せつけてくれてよ」


 そう言って、伊左は不機嫌さを隠そうともせず俺を睨みつけた。


 それもしょうがないかもしれない。仕事中にいきなり用があると言って近場のダイナーに呼びつけ、頭の吹っ飛んだ死体を見せられたのだ。それに駆けつけ一杯すら奢らなかった。


「バラす場所がいるんだ」


「バラす? バラすって何をだ? 車か、このダサいシボレーをか?」


 伊左は腕を大きく振ってわざとらしくとぼけた。俺は車を路肩に止めると、伊左を正面に見据えた。


「伊左。お前とはもう長い付き合いだろ?」


「ああ、そうだ。お前とは中学で年少に入った時からずっと一緒だった。

 それこそ釜の飯を共にした仲だ。それがどうだ? そんな生涯の友とも言える奴がいきなり頭を吹っ飛ばした人間を持って来てこう言う。

 

人間を、バラす、場所がいる……これが友情ってわけだ? ええ?」


 伊左はそう言うと、窓を開けて痰を吐く。


 喫煙者がタバコをやめても痰を吐く癖だけは抜けない。気分の悪い感情というものはイガイガして煙草の痰によく似ている。


「伊左。お前の事業所を貸して欲しいんだ」


 俺は伊左を阿ることを諦め、単刀直入に要件を言った。


「なんのためにだ」


「あそこなら小型のクレーンがある。吊るせば、牛の解体の要領で……」


 俺の言いかけた言葉を伊左が遮る。


「吊るすだと? おいおい、聞くぞ? その吊るすっていうのは、まさか“人間”じゃないだろうな? え?」


「時間が無いんだ。風呂場でギコギコやろうもんなら三日は掛かる。その間に組にもサツにも見つかっちまう」


「だからって、俺の事業所でそんなもんを吊るさせると思うか?」


 伊左はそう凄んで見せた。だが、今の伊左の表情に昔ほどの気迫はなかった。


 それも堅気になってからというもの、変化のない均質化した日常が伊左から激情というもの根こそぎ奪い去っていたせいだ。


 俺は覚悟を決めた。


 伊左のネクタイを引っ掴むと乱暴に引き寄せる。目の前まで迫った伊左の赤ら顔が驚きにくしゃりと歪む。


「いいか? お前は組に貸しがある。忘れたとは言わせねぇぞ、お前の事業所を始められたのはどこの誰のおかげだ? え?」


「今、それは関係ねぇだろうが」


「いいや、あるね。大いに」


 伊左は俺を振り払うと、引きつった笑みでこちらに振り向く。そこには過去、俺たちを食い物にしてきた媚びへつらった笑みがあった。


「そうだとしても、いいか? 俺は足を洗ったんだよ。ボスにも義理は果たした」


 そう言って、伊左は示すように「見ろ」と右手の甲を掲げた。一、二、三、四……数えてみると伊左の右手からは小指が欠けていた。


 俺はそんな伊左を鼻で笑ってやる。そして、伊左にとっての爆弾にも等しい言葉を放つ。これは組の中でも俺しか知らない情報だ。


「足を洗った? そいつは良いな! じゃあ、お前が組経由でガキ共を扱き使ってんのはどういうわけだ、ええ?」


 効果は覿面てきめんだった。伊左は「それは……」と苦り切った顔で、そう口ごもった。


 俺はさらに間髪入れずに、


「伊左。知ってるんだぞ。お前が組長カマ掛けて、ガキども扱き使ってのは。それでも、まだ組に貸しがねぇって言えるのか」


 伊左は顔を真赤にして反論する。


「仕方ねぇだろうが、事業を始めんのには頭金だけじゃ駄目なんだよ。ネタがいるんだ。それもとびっきりのコスパのいいやつがな」


「リスクって言葉を知らねぇのかよ」


「リスクなんざクソ喰らえだ。

 みんな口ではやれクリーンな取引だ、やれ誠実な商売だ、そうほざいて裏では弱者の尻の穴まで引ん剥くようなことやりやがる。


 そんな奴らと張り合うにはよ。なんだってやらなきゃいけねぇんだ。頭使うんだよ。四の五の言ってちゃ飯も食えなくなる」


「俺も騙せねぇようだと、その頭にも意味がねぇな」


「なんだと」


「事実だろうが。それとも俺が直々に組長に報告してやろうか、上納金の明細も含めて」


「てめぇ……」


 伊左の顔が真っ赤を超えて、血の色に染まった。噛みしめた口からはギリギリという歯ぎしりの音まで聞こえてくる。


 伊左がプッツンする前兆だった。


 でも、それがどうした? こんな肥え太った腹で、油テカテカの顔で、なにができる? 


 なにもできない。できるはずがない。こいつはもう俺の知ってる伊左ではない。


 堅気になってから――いや、正確にはあの女と交際を始めてから、伊左は見る見るうちに俺が嫌悪してきたような弱い生き物そのものになった。


 あの女に取り入られて、伊左は魂まで引っぺがされてしまった。あの見るものすべて傷つけるサメのような男だった伊左はもうこの世にはいない。


 俺は路肩に車を止め、懐から拳銃を取り出した。


「お前、あの女に玉までもがれたようだな」


「あ?」


「全部半端なんだよ、お前は。組に残るのは嫌だ。堅気にもなり切れねぇ。

 いっそ全部ぶっ壊しちまえばいいもんをよ。なにが怖くて、そんな逃げ回ってるんだ」


 伊左の顔が真赤になりぶるぶると震え始める。

 ブクブクと肥え始めた伊左の腹も一緒になって震えていた。俺はそれを見て、笑いを堪えるのに必死だった。


「お前なんなんだ。お前は何がしたい、伊左。なあ教えてくれよ」


「てめぇこそ、いつまであんな汚い仕事で食ってくつもりだ。あんなこと続けてたら、いつか死んじまうぞ」


「そうだな、それが結末ってやつだ。いつかは、仕事をトチって俺は処理される……」


 拳銃の撃鉄を起こし、伊左の額に押し当てる。


「だが、今日じゃない」


 ゴクッと伊左の喉が鳴る音がした。


「いいか、これが最期だ。伊左、お前の事業所を貸せ」


 伊左はゆっくりと頷いた。


「……わかった。だが、タイムリミットは今日の夜までだぞ」


 俺は伊左の額から銃を下ろした。


 そのときだった。目を覚ましたイザヤが突然ギヒィ、ギヒィと鳴き始めた。


「ドーナツ、ドーナツ、穴開きドーナツ!」


 イザヤはまるで壊れた目覚まし時計のようにひたすら泣き喚いた。


 まるでガラスを釘で引っ掻いたかのような耳障りな声。でも、なぜだろうか、俺はまんじりともせずそれを聞いていた。頭がグチャグチャにかき回されるっていうのに。


 そして気付けば俺は銃をイザヤに銃を突きつけ、怒鳴りまくっている。


「うるせぇ! うるせぇんだよ! 黙れ、口を閉じろ。殺すぞクソガキ!」


 俺は銃の底で何回もイザヤの頭を殴りまくる。


 一度、二度、三度……。イザヤの頭は何かの緩衝材のように銃床からの衝撃を吸収した。


 そのせいで殴りまくっている俺の方が疲れて、いつしか腕を上げられないほど俺は消耗していた。


 俺は銃をイザヤの口に突っ込んだ。


「いいか。次、そのマヌケ声で一言でも鳴いてみろ。お前もトランクの中のアイツみてぇに頭を吹っ飛ばすぞ!」


 銃を口に突っ込まれたせいでイザヤの鳴き声は束の間止む。が、代わりに銃を伝って口の蠕動ぜんどう運動が腕にまで伝わってくる。


 まるで丸ごと腕をしゃぶられているような……あまりの気持ち悪さに怖気が走る。


 ――もう、たくさんだ。終わりにしてやる。


 俺は迷いなく撃鉄を下ろすと引き金に手を掛ける。しかし、その手を伊左が止めた。


「ガキ相手に何してんだ。やめろ」


 伊左の声で平静を取り戻した俺はイザヤの口から急いで銃を引き抜いた。てらてらとした涎の糸が銃口とイザヤとの間にアーチを作る。


 ティッシュで銃身を拭くと俺は乱れた髪を整えて伊左に振り返った。伊左は信じられないものを見たかのように目を瞬かせていた。


「お前、狂ってるぞ」


 俺は一言、


「そうかもな」


 と応えて車を発進させた。カーブを曲がり終えると、そこで伊左の事業所があるという港が見えた。


 窓から臨む真っ暗な海岸線には、コンテナ船の警告灯がポツポツと不気味に明滅していた。

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