第8話 わたしたちの歌

「落ち着いた?」


 そう言って、わたしの隣に座ったのは佳奈だった。


「うん」


「ミサキ、捨てられた子犬みたい」


 佳奈に優しく頭を撫でられて、わたしは悄然となった。乱闘で服は裂け、髪もボサボサで、実際もう満身創痍だった。


「すごかったね、二人であんな暴れまわって」


「ごめん、迷惑かけた。すっごく」


「うん、すっごく迷惑かけられた」


「ごめん」


「いいよ」


 頷いてから、佳奈はポケットからハンカチを取り出す。


「鼻血、ふく?」


「うん」


 そのまま、されるがままにわたしは佳奈に鼻を拭ってもらった。


 最初に愛海が投げたチューナーとか小物とかが作った頭の傷はもう塞がっている。まさか、エフェクターをぶん投げてくるとは思わなかったが、傷としては皮膚が切れただけなので、少し縫うだけで済んだ。むしろ血を流した分、頭を冷やせて良かったのかもしれない。


 それよりも愛海に正面からもらったグーパンの方がよほど効いた。わたしもお返しにマイクで愛海の頭を殴ったが、こっちも頭を縫ったんだから、おあいこ様だろう。


「愛海とは話ついた?」


 わたしは返事の代わりに首をふる。


「そっか」


 わたしの鼻血を吹き終えると、佳奈はおもむろに「あのね」と切り出した。


「わたし、この街を出ることにしたんだ。東京の大学に行くの」


 わたしは佳奈のこの言葉にとても驚いた。この小さな街から出ていくなんて、わたしはただの一度も考えたことが無かったから。この行き止まりで人生というものを終えると思っていたから。


 それをわたし達の中で一番抜けているはずの佳奈が言ったことに驚いた。


「でも、あの人はいいの?――その、彼氏さん、付き合ったばかりなんでしょ」


 佳奈は思い出したように「ああ」というと全然大したことじゃないというふうに一言。


「別れた、さっきね」と言った。


「うそでしょ」


「ほんと」


 そして、ため息をつくと――いつもの癖で――爪に目をやって、


「やっすい男なの」


「安い……男?」


「そ、ミサキに曲をパクられた、絶対に許さないんだ――って、すっごい息巻いてた癖に愛海みたいに出ていく勇気がないの。オロオロして、その癖、ぜーんぶ終わっちゃってからも、まだグチグチ言ってる。ホント器が小さい奴」


 依然、爪を親指の腹で撫でつけながら、佳奈はなおも別れた経緯を話す。


「結局さ、ロッカーってガキなんだって、そのとき気付いたんだ。そしたら、なんか今まで夢中になって追っかけてたのがすっごい馬鹿みたいに思えてきちゃって。夢追い人なのはいいんだけど、それで自己完結しちゃってるの、あの人たち」


 そこまで言い切ってから、佳奈は笑って。


「だから、わたしも馬鹿な女を卒業」


 そう言って、立ち上がった。


「ミサキ――わたし、あの歌のこと絶対忘れないよ」


「え……」


「だから、ミサキも忘れないでね」


 そうして、佳奈はわたしに紙切れを握らせて控室を出て行った。


 開いてみると、そこには――。


「ミサキちゃんへ、外で待ってる――愛海」



「よぉ、遅かったじゃん」


「うん」


 凍える寒さの中、わたしは再度、愛海と対面した。見ると愛海のこめかみ、そのちょっと上らへんには四角く切り取ったガーゼがテープで留めてある。わたしがマイクでぶん殴ったところだ。


 愛海は、わたしのその視線に気が付いたのか小さく「おあいこだろ」と言い、額上――わたしの縫い傷――辺りをチョンチョンと指した。そして、バツが悪そうにはにかんだ。


「コーヒー、飲む?」


「うん」


 手渡されたのは微糖の缶コーヒー。中でも特に甘い銘柄のやつだった。愛海はわたしがブラックが苦手なのをいつ知ったんだろう。


「……寒いな」


「……うん」


 不思議な沈黙たちだった。寄り添うようにして、この雪と一緒にそれはわたしと愛海を見守っている気がした。愛海とわたしが、決して互い違いにならないよう心配して、今、最低限の演出でこのシーンを回している。どの映画の奥の、見えないところにもスタッフが控えているように。でも、これは現実だ。


「あの歌、なんで歌おうと思ったんだ?」


 愛海がわたしに聞いた。直球だった。でも、二人とも、もう心配されるような年ではない。


「あれしか無かったから」


「他に思い出ある曲、いっぱいあったろ?」


「でも、それじゃあ、愛海も佳奈も……きっと、わたしもここにはいなかったよ」


「そうだな」


 愛海はふーと大きく息を吐くとわたしの目の前に立った。決意した表情で、でも、ずっと前から決まっていた、しょうがないといった表情で。


「ミサキちゃん……あたし達はここで別れるべきなんだと思う」


その言葉は意外なものじゃなかった。全然、もうそれは簡単に予期できた。予期して然るべき言葉だった。でも――。


「なんで――どうして?」


 いつの間にか、また泣いていたように思う。また恥知らずなわたしが、恥を忍ぶことなく、思い切り泣いていたように思う。


「ねぇ、わかるでしょ! なんで、わたしがアレを歌ったのか? わざわざ愛海んとこの曲までパクって、お膳立てして!」


「わかるよ」


「じゃあ、どうして!」


 涙が頬を伝った。それはなによりも熱い涙。どんなライブの熱狂も、どんな熱いコード進行でも敵わない。


「逆にミサキちゃんは、今からもう一回バンドを組み直して、はいやり直しましょう――ってできると思う?」


「リスタートはいつだってできる。でも、ここで別れたらお終い。もう二度と会うこともないわ。きっと」


「あの子は――佳奈は時間を置くべきだって、そう言ってた。あたしもそう思ってる」


「時間って、もう十分置いたじゃない。わたしがリハに遅刻するようになってから、愛海がわたしをミサキって呼び捨てにするようになってから、一年は経ってる」


「そういう時間じゃないんだ」


 愛海がうなだれる様にして言う。


「今、このまま組み直してもあたし等いつか同じことを繰り返す。そうだろ?――それにあたし達、あの一件のせいでお尋ね者だ。どのハコもわたし達を入れてくれないよ。少なくともこの街では」


「じゃあ、街を抜け出せばいい。愛海も東京の大学に行くって」


「それじゃあ、少なくともあと一年だ。下手したら二年、三年……」


 わたしにもう縋るものは無かった。大馬鹿だ。わたしだって、そんなことわかってる。わかってるつもりの無知より、それはきっと、もっと残酷だから。


「ねぇ、お願い。もう一回、わたしとバンドを組んで。またやり直そう。わたしと、愛海と、佳奈で、また三人でやるの。歌詞を忘れてもいい。コードを憶えてなくてもいい。バスドラだって、三回に一回踏めればいい」


「できないんだよ、もう。わかるでしょ、ミサキちゃん。あたし達は時間を置くべきなんだ」


「わかんないよ……全然、わかんない」


 縋りついたわたしを、愛海は優しく抱きしめてくれた。


「わかるよ……いつかきっと。絶対に」


「うそ」


「うそじゃない。あたし達が忘れない限り、あの歌を憶えている限り」

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