第6話 そして、わたしは……

「ねぇ、なに書いてるの?」


 そう言って、わたしの手元を覗き込んできたのは愛海と佳奈だった。急いで、隠そうとしたけど、愛海の細い腕がするりと入ってきて、書きかけのアレを取っていってしまう。


「ちょ、ちょっとやめてよ」


 すぐさま、わたしは彼女の手からアレを救い出そうとする。そうアレはアレなのだ。誰にも知られてはいけない、わたしの秘密。それを見られたら最後、わたしは見た人の記憶を抹消しなくてはならなくなる。またはわたしが死んでしまうかのどちらかだ。


「佳奈、パース」ヒラヒラと蝶のように舞うわたしの爆弾。「なになに、えっと、スウィートブルー?」やめて、読まないで!


「ホントに怒ったから!」


 愛海はこういうときだけはすばしっこい――いつもは要領が悪い癖に。でも手先だけは器用だったりする。その愛海からわたしの機密文書を取り返すのには苦労した。


「いったぁ。何も殴ることないじゃん」


「あれでも相当、手加減したつもりだけど」


 それはちょっと嘘だ。わたし自身。思わぬ加減で愛海の頭にげんこつを落としてしまったことに少なからず罪悪感がある。でも、まさか、わたし自身、あんなに取り乱すとは予想できなかった。こんな数多のことに関して希薄なわたしが。


「でも、なんで隠したのさ」と聞くのは愛海。


「なんで、って」


 そんなもの恥ずかしいからに決まってる。それに「わたしみたいなのが、こんなの書いてるなんて――」


「らしくない?」と佳奈。


「うん」


「どうして?」


 疑問、疑問、疑問――そんなの答えなんてあるわけない。


 まず第一にわたしは詩人ではないし、もし万が一、こんなわたしが――いつも授業をふて寝したり、当てられてもわかりませんって流したり、いつも斜に構えて誰ともつるまずクールを気取ってる――このわたしがこんな恥ずかしいモノを?――笑っちゃう。


「でも、あたし、これすっごく良いと思う」


「あっ、あたしも。なんていうか、わかるな、こういう気持ち」


「うそでしょ、二人とも」わたしは驚いて、二人の顔を見つめた。


「嘘なんかじゃない。ミサキちゃん、もっかい、それ見せてくれる?」


 その愛海の目をわたしは信用した。一瞬の逡巡の下、自分の手でクシャクシャに丸めたそれを彼女に明け渡す。


 隣で佳奈も覗き込むようにして、わたしの書いたそれを読んでいた。数瞬の後、愛海から鼻声が聞こえ始め、佳奈はそれを見守っていた。


 ――言えるはずがない。


 ――わかってくれそうにない気がしたから。


そんな思い――これが無慈悲で残酷な、よくある真実の一つだという思い込み――とは裏腹に、逆説的な事実がそこにはあった。もし、この事実が、この世界でもっとも愚かな考えの一つである希望的観測である――という奴が居るのなら、それこそ、そいつはこのわたしよりも恥ずかしいロマンチスト野郎であると、わたしは断言する。


 そして、愛海はクシャクシャなそれを綺麗に引き延ばし、四つ折りにすると、丁重にわたしの元へと手渡した。


 最後にこれが全ての契機となるのだが、愛海はその微妙に泣きはらした目でこう言った。


「ねぇ、バンドやらない?」




 あの日、あの時から、地続きなわたし、というのが存在するのなら、今日がその終着駅なのかもしれない。


 今、目の前には輝くステージ。熱気に満ち、光量を絞ろうともしない証明に視界を焼かれ、それでもわたしは前を向いて立っている。ここで立ちすくんだことを思い出すと、同時にこの雪降る小さな街のことまで脳裏に浮かんでくる。


 この街で、この場所で、わたしはこれまでずっと歌ってきた。これからも、わたしは同じように歌えるだろうか。


 同じ心で、同じ気持ちで、そして同じ仲間で――。愚問だ。今日、歌う歌こそ、その全てと決別するためのものなのだから。そして、また始めるのだ。一から、もう一度。


 歌の直前――この特有の静寂の中でわたしは、わたし自身をいつも見失う。おかしな話かもしれないけど、これはどんな予感にも先駆けて、フッと――まるで照明が落ちるようにして、このわたしの世界に訪れる。そこはとても広い世界――虚構だ。自分が、自身の足で立っているという感覚を失うくらいには。


 光、または雪、その世界にはいつもそれが漠然としたイメージで広がっている。いわく想像の世界。その世界は決してわたしを裏切ることはない。何もかも快いふうに開け放っていて、ときに制御できないほど、わたしを深く追い込むこともある。

そんな自由な世界だけれど、当然ながら、その世界にはわたし一人しかいない。その世界には愛海も佳奈もいない。


 だから、この静寂は、この空白は、わたしの虚構と現実のチューニング時間なのだ。


 目を開ければ、もうイントロが聞こえる――。


 でも、今日は違う。愛海も、佳奈もいない。ここにはわたし一人だ。一人なんだ。


 そして、わたしはアコースティックのいつもより堅い弦に指をそえた。


 あの夜、ひとかけらでもわたし達の間にあの日々が残っていたのなら――それがどんなにちっぽけであっても、ステージに立つこのわたしの両足を支えてくれる希望となる。


 この街の行き止まり――わたしは、わたし達はここで歌うしかなかった。その向こう側へと目指して、先へ先へと向かうたび、離れていったわたし達。だから、やり直すんだ。


 そっと、この場所から。だって、始まりはいつだってここからだから。

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