第4話 スウィートブルー

 結論から言えば、わたしが楽屋に戻ったときには、愛海の姿はどこにもなかった。スタッフに聞けば早々に帰ってしまったらしい。


 結局、愛海も帰り、佳奈についても行方が知れず、わたしは一人でライブが終わるのを待っていた。わたし達のバンドはほぼ最初の方だったので約二時間――わたしはたっぷりと待たされた。


 その間の出来事については特筆すべきことは何もなかった。出番を控えているバンドはもちろんだが、出番が終わった後のバンドのメンバーともわたしは大して喋ることができなかったのだから。


 そういう折にこれまで自分がどうやってこの空白の時間を埋めていたのかを思い起こすと、そこには愛海と佳奈がいた。情熱的でライブについて熱く語り、また積極的な愛海と、少し抜けていて男受けが良い佳奈。両者が居れば、必然的に話の輪は広がる。その輪の中に入れば、こんなお高く止まった(自分で言うのもなんだが)わたしでさえも、おしゃべりで時間を潰すことなど容易だった。


 だけど今、ライブのMCでさえ全く愛想のないわたしが愛海と佳奈の助けなしで彼らと喋ることは到底不可能に思われたし実際無理だった。一言二言は喋れるのだが、基本的に話が広がらないのでみんな、そそくさと別の話している集団のところへ行ってしまう。


 そのことに対しては、わたしは特に過度な負い目を抱く必要はなかった。ロッカー達はライブでは暴れまわるくせに、こういうところでは逆に礼儀正しいので会話が続かずとも丁寧に今日はお疲れ様でした、の言葉と共に分かれてくれる。彼らにしてもそれはわたしと同じ、ということなのだろう。


 そんなこんなで空虚で空白な時間を潰すため、わたしは会場を出て外へと足を向けた。手近な自販機を探しながら、わたしは今日、愛海に言われたことを思い返していた。


 ――少しはライブを盛り上げようって、そう思わねえのかよ。


 愛海にとってのライブとはやっぱり『盛り上がり』なのだろうか。確かにMCについては適当だったかもしれない。ろくに曲紹介もせず、ファンのくだらない振りにも応えず、ただ黙々と歌だけを歌った。それがわたしにとってモチベーションを下げない最良の方法だったし、ファンの方も何が来るかはわかっていたはずだ。だってセトリは、いつものだったのだから。


 でも、愛海が言いたかったのはそういうことじゃなかったのだろう。ライブの集合時間に遅れたこと、彼女の話をそれこそ話半分に聞いていたこと、そして自分よがりなライブをしたこと。その全部が彼女を怒らせる原因になったのだ。


 わたし自身、自らのことに掛かり切りになっていて、他の誰かについては思いめぐらせることをしようとしなかった。いや、したくなかった。結局のところ、愛海の言うことがわたしの思わぬ――全く違った――ことに焦点を当てていたことにわたしは冷めてしまったのだろう。


 しかし、それを思うと今度は自分の中で、何をどう思い、どうしたかったのかが見えてくる。そして、それは自分よがりで、やっぱり甘えていたのだ、と結論付けるしかなかった。


 わたしはあの場でわたし自身がいくらでも取り繕われてしまうことにわたしが歌う意味を見いだせなかった。どうせみんながみんな、自分本位でいくらでも捉えられる――そういう不全な万能感に失望し同時に甘えていたのだ。


 なんて自己中心的!――人から見るわたしがわたし自身じゃないことに、わたしはそんなに我慢することができないのか。これを青さと言わず、何なのか。


 今度もくだらない妄想世界に囚われて、またしても冬の寒さの中、わたしは足を止めていた。ライブ用の薄手の衣装が、今度は洒落にならない寒さを突き通してくる。


 ここまでくると、もう地続きなわたしなんてものは感じられるわけないし、もとからそんなもの存在すらしないということが強く思われた。実際、くだらない妄想話は今のわたしにとって何よりも堪えるものでこれは不甲斐なさとか自己嫌悪とかそういう類のものに含まれる。


 今、わたしは、わたし自身が一番に拠り所としていたはずの場所を憎悪している。あれほど、わたしを忌避すべき感情から遠ざけていたはずの広大で自由な創造の世界が、現実のわたしの置かれた世界、この状況のわびしさをまるで陰影のように強調してくる。それが腹立たしかった。わたしを余計、虚しくさせた。


 どうしてこうなってしまったのだろう。こんな行き違いにわたしは、いつ片足を突っ込んでしまったのだろうか。気が付かなかった。気付いたら愛海も、佳奈も、そしてこのわたしでさえも、お互いがあんなに無秩序でいられることに慣れていた。気持ちが離れ、対立し、分かり合おうとしなくなっていた。どっかの他人がすぐ離別することを意識してぞんざいに、おざなりにしているみたいに。


 だけど、それは当たり前だ。逃げていたから、わたしがわたしこそ、あのバカバカしい崇高な空想劇にその身を投じていたから。あの誰も入れないように、誰かを締め出すようにしていた世界には、本当の意味で鋭い冷めきった自分がいたから。


 隙間風のような失意にわたしの目は一層に冷えていた。この寒空の下で誰かが振り向いて口笛を鳴らすようなことがあれば、そのとき、わたしはこんなナイフのような目をしていることだろう。内に抱える、この虚しさも知らずに。


 ライブステージで誰もが期待し求めるわたしの在り方。何にも縛られない高潔なクールビューティー。つれない、素っ気無い、ドライな女。それがわたしを一番よく見せる装い、という陳腐な打算だった。


 昔はこういう顔をしてリハスタに入ると、すぐに愛海と佳奈が「なんかあったの?」と顔を覗き込んできた。そのことにびっくりすると何故か無性に可愛い顔になると写メを撮られたものだ。


 誰かが本当の意味で孤独なとき、それは気持ちをそうと悟ってもらえないときだ。


「あれ」


 不意に目頭が熱くなって目に涙がにじんだ。


 馬鹿みたい。いつもは飄々として何をしても冷めているくせに、こういうときだけ涙を流そうとするなんて、やっすい恋愛ドラマのよう。みんながわたしをそう見ているようにわたしのこの心も乾いていて然るべきだろう。こんな情けない醜態を晒すぐらいなら、普段から甘ちゃんで、なおかつ馬鹿な感じに振舞っていないとつり合いが取れないではないか。


 必死に涙を抑えてわたしは前に向かって歩いた。この涙を誰にも見られたくない。路上で泣いた女の子という成りで誰かの同情を買うなんてまっぴらだ。構われたり、ちやほやされたり、そんなことライブの中だけで十分だ。


 顔を見られないようにして歩き、道行く人の目を避け、わたしは近くにあった自販機の前に立った。


 何かを買う体を装って少し落ち着きたかったのだ。だけども、目頭は一向に熱いままで、少しでも気を張るのをやめると涙が零れてきそうだった。せめて缶コーヒーだけでも買おうと、財布から硬貨を取り出そうとして――。


「あっ」


 チリンという音と共に硬貨が地面を転がっていった。


 涙で見えない視界と寒さにかじかむ手のせいで硬貨を取り落としてしまったのだ。急いでそれを拾おうとして、わたしは更に追い打ちをかける事となる。地面の硬貨を追うのに気を取られて、手の中にある財布の中身を盛大にぶちまけてしまったために。


 最悪だった。屈んだ拍子に涙が零れ、その涙が呼び水のように新たな涙を呼ぶ。必死に泣くまいとしていた自分が冬の寒空の下、涙を流しながら地を這い、必死に小銭を拾う光景はこの上なくみじめで、滑稽で――そんな姿を想像して、泣きながら薄ら笑いを浮かべているわたしは一体なんなのか。


 わたしは何か悪いことでもしたのだろうか。


 気付けば、わたしは硬貨を拾うのもやめて、冷たいコンクリートに手をついていた。嗚咽こそあげはしないが涙は依然、零れたまま。ひどく空虚な気分だった。何もかもがどうでもいい。硬貨を拾うことも、物珍しくわたしを見る他人の目も、そして愛海も、佳奈も、自分でさえも。


 ひたすらこのままでいたい。手の先から凍り付いて、日の光と共に溶けて無くなってしまえばいい。全部、何もかも。


 そのとき、ひらひらと目の前に紙切れが舞った。それは中身を地面にぶちまけたはずの財布から踊ったもの。手に取るとそこには擦り切れた文字で一言――。


 『スウィートブルー』


 そう書かれていた。わたしは驚きに目を見開く。急いで手に取った紙切れを広げてみると、小さいながらもB4サイズにびっしり文字が書き留められていた。


『スウィートブルー』


「吐息の白さが このわたしの甘さをかき消す夜へと

 祈りはほのかに熱く 手の平の温もりにも似た

 そういう季節ほど かなしいほどに純粋で

 いまどうしようもなく この心を凍らせる

 できうることなら そういう青さがあなたのもとへと届きますように」


この歌は、この詩は、わたしがバンド結成時に書いたものだ。なぜ、そんなものが長らくわたしの財布の中に入っていたのかは定かではない――が、わたしはその場で食い入るようにして、それを読んだ。


 読み終わっても、また最初から、今度は小さく声に出して読んだ。ズボンに溶けた薄雪がしみ込んできても構わず、何度も目を上下に走らせ、つぶやき、読み込んだ。


 全てを納得できる範囲で終えたとき、わたしの目にもう涙はなかった。代わりにある種、決意のようなものが目頭を熱くする。確かクリスマスライブには、まだ参加する予定は無かったはずだ。


 もちろんバンドでじゃなく――わたし個人として。

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