三、
神様。耀は確かにひどい人間です。きっと彼が死んだらまっすぐ地獄行きだと思う。でも彼はまだしばらく生きなければならない。せめて彼がこの世に生きている間、私が彼を守りきれますように。
人の道を外れた悪魔の様に冷酷な男。それでも私のたった一つの生きる意味だと気づいてしまったのです。私は彼の為に生まれたんだと信じている。これから一生、彼の心の傍にいるためなら私も地獄に落ちる。
神様、神様、私が折れないようにどうか、支えて下さい。
「ひどい女ですよね、可南子さんって」
あの日。
彼女の最期の日。私は引越し直後の段ボールが乱雑に置かれたボロアパートの可南子の部屋で、荷解きを手伝いながら言った。
「何もかも、あなたがいけないんだわ。耀ちゃんにあんなに愛されているのに。みんな耀ちゃんを悪く言うけど、諸悪の根源は、高校生だった彼を誘惑したあなたじゃないの。耀ちゃんはあなたの心以外何も望んでいない。あなたが彼の愛を受け入れていれば、彼はこんなに悪者にならずにすんだのよ」
それは今まで味わったことのない快感だった。言葉で彼女を責めながら、ドキドキしていた。弱い物いじめをして楽しむ子供の気持ちは、きっとこういう感じに似ている。
「私が、何をしたと言うの?」
突然、静かに可南子が言う。冷静過ぎて背筋が凍る。
顔を上げた可南子は、笑っていた。…能面のような顔で。
「私は彼に何も仕掛けていない。誓って言うわ。耀が私を初めて犯したあの日。私はやっと一生徒に過ぎなかった彼の名を覚えたかどうかという時だったもの。私からは何も仕掛けてない。彼が勝手に私に近づいて道を踏み外したのよ。彼がどんな生き方をしていようと、その道を踏み外そうと私には関係のないことだわ。私は被害者よ」
被害者の発言のはずなのに、その表情は、地獄のどん底まで落ちながら、その深さに勝ち誇ったような透明さを湛えている。
「私は確かに夫を愛してはいないかもしれない。世間の人達から見れば、そういうことになるかもね。それでも、私には夫が…あの人が必要なの。私はただ静かに何事にも巻き込まれず平和に毎日を過ごして、いつかぽっくり死にたいと思ってた。そういう一生を送りたいと切願していた私の夢を耀は破壊したのよ。そんなひとを愛しなさいというの?無理な話だわ」
一瞬にしてはらわたが煮えくり返った。そういう、社会を遠巻きにして逃げてる姿勢の卑怯さが、消極的に周りの人間を攻撃していることを、この女に思い知らせるべきだ。
「嘘つき! ホントは藤倉さんより耀ちゃんのこと愛してるくせに。平凡な幸福なんて壊して欲しかったくせに」
カラカラになった喉から絞るように言った言葉に、可南子は一瞬、目をまるくし、そして微笑んだ。
「それは、あなたのことでしょ?理砂さん。自分の願望を他人に押し付けちゃいけないわ」
言葉を失った私に微笑みながら、彼女は段ボールからレモン色のセーターをひらひら引っ張り出した。
「あーあ、いやんなっちゃう。私死んじゃおうかなー。何にもいらないって言ってるのに。特別ラッキーなことも、不運も、心臓に悪いようなことなんてなーんにも起きない毎日が欲しいだけなのに。それも叶わないんだもん」
歌うように言う可南子。まるでロールキャベツを作りたいのに、キャベツだけが売り切れていて文句を言う主婦の口調だ。
「そんな勇気なんてぜーんぜんない、弱虫のくせに」
私の負け惜しみに、可南子はくすくす笑った。
「私、世界中にもうなーんにもこわいものはないのよ」
…メドゥサ。冷たい彼女の笑顔に、ギリシャ神話の魔女の顔がだぶる。得体の知れぬ恐怖感で、体がびくとも動かない。
「お茶、飲まないの?お手伝いのお礼に、せっかく淹れたのに、こんなに冷めちゃって」
私の前に置かれたティーカップを片付けようと手を伸ばし…その手が急に方向を替えて私の顔に伸びてきた。
「いとこだからかしら。私を責めるときの悪魔みたいな顔、耀にそっくりよ」
血はつながってない、と言おうとしたところに、可南子の冷たい唇が私の頬に近づく。ツッと首筋を這う。
ゴムボールが弾けるように彼女の部屋を飛び出した。安アパートのドアをばたんと激しく閉める音が耳に反響している。それしか記憶に残っていない。
我に帰った時、夜の電車のドアにもたれて泣いていた。パンプスの右足のかかとが折れ、ストッキングは大きく伝線している。
ガラス越し、夜の闇に真っ白な粒がふわふわ舞う。
もう、私は、この無垢な白さとは無縁の世界の者になってしまったんだ。なぜかそう思えてたまらなくなる。どうしても、溢れる涙を止めることができなかった。
可南子が自殺したのはその夜だった。
だから、彼女を死に追いやる最後のきっかけを与えたのは私だ。
耀のエゴイスティックで乱暴な、だけど世界中の誰よりも純粋だった恋の一部始終を私はすべて見ていた。そして彼と共に彼女を追い詰めることに手を貸した。
もちろん私の罪を、周りの誰一人も知る者はいない。知られたところで、社会的に罰されることもないであろう。それでも私は私だけが知っている罪を償う為、廃人となった耀に寄り添い、非生産的な一生を送って行くのだろう。
本当は、そうやって彼の罪を半分被ることに心のどこかで陶酔してる自分に気づいている。
そして、可南子は実はそういう私の願望を知っていて、こうなるように仕向けていたのではないかとさえ思う。
ファム・ファタルという言葉を思い出す。「運命の女」と訳すその言葉は、そこに存在する、ただそれだけど、周りの人々の人生を翻弄し、修羅に陥れてしまう、そういう魔性を持つ種類の女性をさす。
耀が愛したあの絵。ロセッティがファム・ファタル・シリーズの一枚として描いた「ベアータ・ベアトリクス」。麻薬に溺れて死んだ女の、天使のような笑顔の絵。…あんまりにも可南子に酷似したあの顔に、私は激しい嫌悪を感じてた。
可南子は紛れもなくそういう種類の女だ。ただそこに存在するだけ。受け身で生きていながら、関わってくるすべての人々を、罪びとにしてしまう。そうすることで、彼女は偽善と欺瞞に拘束された人間たちを自由に解き放っていたのではないか。
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