二、

 電話の翌日、朝比奈が耀の入院先に私を訪ねてきたその時間、私と耀の養母…私のおばは耀の病室にいた。

「だって仕方ないじゃない、おば様。耀ちゃんには私しかベッドに近づけてくれないんだもの。私が彼の傍にいないで誰が面倒を見るの?」

「だからって結婚なんて理砂ちゃん、耀さんはもうこんな状態で、あなたを夫として幸福にしてあげることはできないのよ。例え主人が許しても私はあなたの為に賛成できません」

 憔悴しきったおばの視線の先…力なく見開いた瞳の耀。おそらく彼の心には私達の言葉は届かない。

「私、十分幸福です。子供の頃からずっと耀ちゃんが好きだった。耀ちゃんのお嫁さんになれるなんて夢みたい」

「理砂ちゃん、あなたね…」

 その時、病室のドアをノックする音がした。朝比奈が白いカラーの大きな花束を抱えて現れた。

「耀くん、お加減はいかがですか?」

 ベッドの中、虚ろに目を開いたまま、耀は意識を閉じている。長いまつげも彫りの深い顔立ちもそのままなのに、顔色は青ざめ、目は落ちくぼみ、…何よりあのギラギラとエネルギーを発していた瞳の光がないことが彼を別人の様に見せている。…内側から柔らかい光を放つような朝比奈の横顔とは対照的である。

「理砂さん、大学に休学届けまで出されたそうですね」

「私以外の人間が彼の世話をしようとして彼に触れると暴れるんです。看護師さんでも手が付けられないほどだから、私がつきっきりでないと…」

 意識してたより明るい声で言えたと思った。

 耀は私を共犯者と認めているから、彼の世界に私だけが近づくのを許してくれるのだ。それがわかるから、私は迷いなく彼に寄り添って生きられる。寄り添って、生きていきたい。

「少し理砂さんと二人でお話ししたいんです。一時間ほど彼女をお借りしてよろしいですか?」

 朝比奈がおばに言う。私は慌てて彼に抗議した。

「ですから、私この部屋を離れるわけには」

「大丈夫。私がついてますから。どうしても心配なら何かあったらすぐケータイで呼びますから近くにいてください。朝比奈さんとも、もう少しきちんとお話ししてきなさい」

 きっぱりとおばが言った。彼女は、私の父の姉である。耀の母親を演じ切ることは出来なかったが、自らに正直な優しい女性である。娘の無謀な決意を断念させることに失敗した私の父からも、説得を頼まれているのだろう。


 病院の地下にあるティーラウンジで、私と朝比奈は向かい合った。地下とは言っても吹き抜けの中庭から燦々と光差し込んでいる。

「申し訳ないですが、私、朝比奈さんとの婚約破棄の意志は変わりません」

苦いだけのコーヒーを一口すすってから、私は憮然として言った。

「別に恨みつらみを言いにきたわけじゃありませんよ。安心してください。」

「じゃ、どういう御用なんですか?私あまり長い時間耀ちゃんから離れていられないんですが」

「さあ…多分、ただきみに会いたかっただけなんです。助けに来た…というのが一番正しいかな?」

「何ですか?それ」

 のんびりという彼の口調がかえって私をいらだたせる。私は誰の助けも要らない。同情なんていらないし。

「どうして婚約破棄の理由、聞かないんですか?」

「真関くんを愛しているのでしょう?僕よりも」

「愛、ですか?」

 率直すぎる言葉に、つい噴きだしてしまった。

「真関の本家では、耀さんがああなってしまったことにつけこんだ財産目当てだってもっぱらの噂です」

「いや、いかにもきみらしい判断だと思います。財産なんてきみのご実家だけでも不自由ないでしょうし、もしきみがそういう意味で計算高い人だったら、僕を選ぶほうが正しいのは目にみえている。つまり、きみは自分でも無意識に、彼の心が正気に返る時が来るのを信じているのですよ」

「まさか」

げらげら笑う私に、

「ダテに、8年もきみより長く生きているわけじゃありません。人の本質を見抜く力は確かだと自負しています」

と、微笑む。その目の端に哀れみが垣間見えて私は顔を背けた。

「朝比奈さん、私を買いかぶり過ぎてる。私のほうが、耀ちゃんより余程冷酷で非道な女なんです。私は彼のもとに嫁ぐことで罪滅ぼしをするの」

 朝比奈が、なぜ?と尋ねるように私の目を覗きこむ。

「私も彼女をああまで追い詰めることに加担していたわ。あの女に、耀ちゃんの前から姿を消してってずっと念じていたもの」

 何だそんなことかとでも言うように、腕を組んだ姿勢のまま彼は笑った。

「どうしてそんなに自虐するのですか? 直接手を下して彼女を殺したわけじゃないでしょう?実際。どんな聖人の心にも大なり小なり悪魔の部分は存在していて、みんなそれなりに折り合いをつけて生きているんです」

 朝比奈の両手が伸びて私の両手をそっと包む。その時はじめて私は自分の手が震えているのに気付いた。

「理砂さん。僕は本当にきみが好きです。僕の妻としてきみほど理想的な女性はいない。しかし、こういう事態に真関くんを選ぶきみだからこそ、僕はきみを愛しているし、だからこそ結婚をあきらめるのです。僕だって世間体というものがあるから、今後他に良縁があれば結婚もするし、その妻を自分の使命として心から愛するでしょう。それでも…どこにいても理砂さんの幸せを祈るでしょう。おそらく一生。その心も紛れも無く愛だと思う。そういう愛があってもいいと思います。そんな僕を不実な、卑怯な男だと責めますか?」

「そんな…朝比奈さんの気持ちと私の場合を一緒にしてはいけません」

「同じです」

私は首を何度も横に振った。

聞く者によっては理解に苦しむ発言だろうが、私には朝比奈の正直さが痛いほど感じられ、胸に沁みる言葉だった。一度に複数の愛を持つことを否定するつもりはない。だが、私は耀を愛しながら同時に朝比奈を愛するなんてことは、どんな方向から考えても不可能だった。朝比奈は心から信頼できる人間だし、人間性という意味では、同じ種類の匂いを嗅ぎ取ることもある。例えて言うなら彼は「戦友」だ。でもそれは恋愛とはまったく異質の物だ。

…そして、私は改めて泣きたくなるのである。耀が私に言い続けた「共犯者」という言葉と「戦友」という言葉はとてもよく似ている。つまり、耀は私に対して、今私が朝比奈に持っている感情と同じものしか持てなかったのだということに気づく。

それを認めてしまった今、苦しくてたまらない。振り切るように首を横にぶんぶん振り続け、手で両耳を隠そうとした瞬間。

「理砂さん」

 ぴしゃっ。私の右頬を軽くたたき、小さな声で叱りつけるように私の名を呼ぶ。やっと首の動きが止まる。代わりに涙が目から、わっと溢れ出した。

「気が済むまで泣きなさい。少しも恥じる必要はありません」

 そこそこ満員のティーラウンジ。彼は向かいの席からじっと私を見守る。手を触れることもなく、ただそばにいるだけであったけれど。一人で泣くには私は心が疲弊しきっていたし、彼の手の温もりに触れてしまったら私は全身で彼に甘えきって動けなくなる。そんなことになれば私自身がきっと一生後悔するはずだ。そんな私を知っているから距離を置いてついていてくれる。

 彼は、私を泣かせる為に来たのだ。強がって硬く張り詰めた私の心に気づいて、その壁を砕く、その為にここに来てくれたのだ。

 見合いの席で初めて彼に会ったあのとき以来、何度も思った。朝比奈の無償の優しさは私には凶器だ。

 彼の前では私は鬼になれない。

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