第15話 祖父のバイオリン
五月末、某日。
本日は休日のせいか、いつもより店の客も多い。
客がはけたわずかな休憩時間に、
ダイニングでお茶をすする姉を見て、忙しなく言う。
「おい姉貴! そんなゆっくりしてる場合かよ! 早く『
「リハーサルなんかするヒマないわよ、あそこ。今日も平常業務だし、うちと一緒でお客さんいるし」
平然と答える
「だったらばあちゃん家でもっかい練習――」
「十分したってば、おばあちゃんにはもういいって言われた」
「でも……っ!」
どうやら弓響の方が矢㮈より緊張しているようだ。まあこれもいつものことで、昔から矢㮈以上に心配する。
「って、弓響。お店番いいの? 夕方聴きに来るならサボれないんでしょ?」
「! ――分かってるよっ」
弓響がバタバタとまた店の方へ戻って行く。もちろん今日が演奏会なので、矢㮈は店番免除だ。
隣のイスの上に置かれたバイオリンケースを見て、軽く微笑む。
その時ふと、諷杝からもらった楽譜が頭を横切った。もらったのはピアノとギター用だったが、メロディがつかめれば弾けるかもしれない。
(ちょっとやってみようかな……?)
休日は二人共起床が遅い――特に
しかし本日は珍しくいつもより早くて、
「何、今日バイト?」
「ううんー、別に」
相変わらずヨーグルト一個だけという、信じられないような諷杝の朝ご飯を横目に、也梛はコンビニの菓子パンを食べていた。――諷杝に言わすと朝から菓子パンというのも信じられないそうだが。
「ねえ、也梛も今日フリーだったっけ?」
「ああ」
「じゃあ久しぶりに『音響』行ってみない? そろそろギター見てもらおうと思って」
『音響』は弦楽器の調律などを専門に扱っている、音楽好きマスターの店だ。彩楸学園の裏手の道にあり、諷杝に会ってから度々お邪魔している。
「あ、いいかも」
しかもマスターの淹れてくれるコーヒーがおいしいのだ。
「じゃ、決定」
諷杝が笑って、ヨーグルトの最後の一口を食べた。
丁度昼前に『音響』に着くと、入ってすぐのカウンターにマスターがいた。
カウンターの横は結構広いスペースになっていて、軽く段差のついた舞台なんかもある。ここにたまに音楽好きが集まり、演奏会が開かれたりする。そして舞台の裏側に、楽器の保管場所兼調律などの作業場があった。
「マスター、久しぶり」
「おお、諷杝君に也梛君。元気にしとったかね?」
マスターは五十代くらいで、少しメタボっている。
諷杝がギター袋をカウンターの上に乗せた。
「ちょっとギターの調律お願いしたくて」
「そうか。なら今暇だからやってしまおうか」
マスターがギター袋を持って、舞台裏の奥の作業場に向かう。也梛たちもそれに続いた。
毎度の如く作業場はいろいろな弦やらで溢れかえっていたが、その中に一つ、年代もののバイオリンがあるのに気付いた。也梛は気になって訊いた。
「マスター、あれは?」
「おお、あれか。あれは預かりものだ。今日持ち主が取りに来る」
「へえ。結構年代ものですよね」
「そうだな。実はあれは私の友人のものでね。二年前に亡くなったんだが」
マスターがギター袋からギター本体を取り出す。
也梛はそっとそのバイオリンに近付いた。
「持ち主が変わったってことですか?」
諷杝が尋ねると、マスターは首を横に振った。
「いいや。友人の奥様が大切にしている。友人はヨーロッパを渡り歩いてたりしてね。表舞台にはあまり出なかったんだが、知ってる者には有名なバイオリン奏者だった」
マスターが懐かしむように話す。きっとこの店でも演奏したのだろう。
「でも二年前――ガンでね。あまりにも急でびっくりしたよ」
「……」
諷杝が沈黙する。彼自身事故で両親を亡くしているため、何か思うところがあるのかもしれない。
也梛はじっとそのバイオリンを見つめた。
「その友人にはかわいらしいお孫さんがいてね。今日、来てくれることになってる」
「お孫さん? ――もしかしてその人もバイオリンを?」
「そう。皮肉にも全国コンクールの発表会の日に友人は危なくなってね。丁度そのお孫さんが演奏し終えた時に、バイオリンの弦が一本切れたそうだ」
「え……」
也梛が呆然とマスターを見つめる。
弦が一本切れて、祖父が亡くなって――それって。
「まあ無事最期には間に合ったそうだが……何だかなあ」
「それで、そのお孫さんは……?」
諷杝が真剣な表情でマスターを見る。マスターはギターの弦をいじりながら、眉を下げた。
「――以来バイオリンを触れなくなったみたいでね。私ももうここ三年程見かけなくなった」
「……」
――それはそうだろう。怖くなって当たり前だ。
諷杝がぎゅっと唇をかんでいるのが分かる。也梛も同じ気持ちだった。
しかしマスターはふっと微笑んで、ポンポンと諷杝の焦げ茶の頭をたたいた。
「そんな顔せんでも、心配いらん。その子が今日ここに来るのは、バイオリンを演奏するためだからだ」
「え?」
「何があったか知らんが、この四月からもう一度バイオリンに手を伸ばしたらしい」
諷杝がふっと頬を緩ませて、也梛の緊張した表情も我知らず緩んでいた。
「人前で演奏したいからとお願いされてね。夕方から演奏会だ」
マスターがそこで、ニヤリと笑った。
「もし良かったらお前らも来るか?」
也梛が諷杝と顔を見合わせる。
答えるまでもなかった。
***
矢㮈は新しく買ってもらったシンプルなワンピースを着て、バイオリン本体と弓を両手に、控え室になった舞台裏の作業場に立っていた。
ふと、年代もののバイオリンが目に留まる。それは、かつて祖父が使っていたバイオリンだった。大きくなったら自分もいつかあれを弾きたいと思っていた。
「おじいちゃん……」
『大丈夫。じいちゃんがちゃんと調律してやったから』
あの病室で聞いた、祖父の最後の言葉。
そして、最期の微笑み……。
「大丈夫じゃなかったじゃん。弦切れちゃったじゃん」
祖父のバイオリンに言ってみる。
そこへ、弓響がやって来てそのバイオリンを手に取った。
「こんなトコより観客席の方がいいだろ。てか、話聞いたじいちゃんの友達とか知り合いがむっちゃ見に来てくれて、もーいっぱいなんだけど、向こう」
「え!? そんなに?」
「うん。――それだけじいちゃんと親しくて、姉貴のこと気にしてくれたんだよ、きっと」
「……」
これでは舞台に出る前に泣いてしまいそうだ。――こんなつもりじゃなかったのに。
ただ、誰かに聞いてほしいと思っただけなのに。
(これで諷杝と高瀬がいたらびっくりだよね……いるわけないけど)
そう思ったら自然に笑いが込み上げてきた。それを見て弓響が、
「まあ頑張れ」
安心したように戻って行く。
「うん、ありがと」
矢㮈は目を閉じると、大きく深呼吸した。
そして、ゆっくりと目を開く。
一度、バイオリンの弦を軽く弾くと、用意された舞台へと向かった。
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