第4章 祖父とバイオリン
第13話 彼女とバイオリン
***
中学二年生の、春。
このコンクールで優秀賞か最優秀賞を取ると、ヨーロッパ研修のチャンスもあり得た。かつて祖父も参加し、見事外国へ行くことになったコンクール。
幼い頃から矢㮈にバイオリンを指導してくれた祖父は、彼女の参加をとても喜んでいた。
賞が取れなくてもいいから、精一杯、皆の前で弾きなさいと言われた。
しかしコンクールの二週間前、急に祖父は体調を崩し入院することになった。詳しい原因は聞いたはずだが忘れた。ガンだったような気がする。
入院したての頃はまだまだ元気で、矢㮈のバイオリンも聴いてくれた。だが結局コンクールまでに退院することはできず、見に来ることは当然無理だった。
当日、病院のベッドの上で、祖父は笑って矢㮈を送り出した。
「大丈夫。じいちゃんがちゃんと調律してやったから」
「うん。行って来ます!」
矢㮈の出番は午後からだった。両親と弟が見に来てくれていた。
とうとう順番が回って来て、照明の当たる舞台に立つ。
ピアノの伴奏もないので、真ん中に一人で立つ。
礼をして、すっと息を吸い込んで構える。
練習してきた曲を、心をこめて奏で始めた。
最後の方で、病院にいる祖父と、傍についている祖母にも届いてほしいと思った。
そして――最後の一節を弾き終えた瞬間だった。
――!
ピッと何かが矢㮈の頬をかすった。一瞬、何が起きたのか分からなかった。
しばらくして会場内がざわめきだし、ようやく弦が一本切れていることに気付いた。
一応曲の演奏は全て終えていたので、礼をしてさっさと舞台袖にはけた。
と、すぐに聞き慣れた声がして、腕を引っ張られた。
「姉貴!! 大変なんだ!! 急いで!!」
観客席にいたはずの弟の
「な、何……? ちょっと待って。バイオリンしまうから……」
「早く!! じいちゃんが危ないんだって!」
「え?」
祖父の容態が急に悪化し、緊急招集がかかったのだ。
矢㮈はコンクールの結果発表を待たずに、父親の運転する車で祖父の元へと向かった。
祖父の方がコンクールより大切に決まっている。
病院に着いた時にはもう、祖父の周りには医師と看護婦がたくさん集まっていて、親戚の姿も見えた。
「ああ、良かった。間に合った」
祖母が泣きそうな表情で矢㮈たちを祖父の枕元へと招く。
矢㮈が呆然と祖父の傍らに立った時、祖父は微かに笑った。
それが、最期だった。
コンクールの賞を取れなかったことなどどうでも良い。
ただ、あの時弦が切れて、祖父が亡くなった。
それ以来、バイオリンに触れるのが怖くなった。
***
「練習でそれだけ弾けるなら、後は人前で弾けるかどうかね」
祖母が目を細めて矢㮈を見た。
とりあえず、再びバイオリンを弾けるようになるまでにもってきた。
頑張れたのはもちろん、あの自由気儘な音楽家たちと一緒に演奏したいという思いがあったからだ。
しかし技術面ではまだまだ約二年のブランクがある。そんな状態で発表するなんて、はっきり言って聞いてくれる人に失礼だ――矢㮈はそう思っていた。
「でも……今のままで発表なんて……」
矢㮈が俯くと、祖母が先生口調で言った。
「はっきり言うけど、あなたのブランクを埋めるには時間をかけるしかないのよ。しかもここ二年、バイオリンにさえまともに触れてなかったんだから。弾けることをありがたく思いなさい」
「……はい」
祖母の言うことも尤もで、矢㮈は反論の余地なく素直にうなずいた。
「まあ、でも」
「ん?」
祖母がじっと自分を見つめるので、矢㮈は首を傾げた。
「思ってたより早い上達だと思うけど。気持ちがこもってるとやっぱり音も違うから」
「ホント?」
褒められるのはやはりうれしい。すると祖母は手をポンと打った。
「そうだ。『
『音響』とは弦楽器の調律などをしてくれる専門店であり、そこのマスターが軽く喫茶店を営んだりしている。
マスター自身が楽器を楽しむ人でもあるので、結構音楽好きが集まる。それこそ、名のある者からない者まで。下手も上手も関係ない。
祖父も生前はバイオリンの調律を頼んだりしていて、知り合いなのだった。
「実はおじいちゃんのバイオリンも、そろそろ持って行こうと思ってたの」
祖父愛用のバイオリンは、今も弓響が手入れしている。しかし何ヵ月かに一回はやはり専門家に見てもらっていた。
「とりあえず五月末くらいに頼んでみるから、あなたはそれまでこれまで以上に練習しなさい」
「五月末……」
後、三週間あるかないかである。
「一度人前で弾くことで、また変わると思うから」
祖母が微笑み、同時に祖父の顔を思い出した。
(大丈夫。やってやる)
矢㮈は再びバイオリンを構え直した。
六限が終わり、千佳が元気よく部活に行く。
矢㮈も鞄に教科書を詰めると、さっさと教室を出た。
今日も帰って特訓だ。顎の下のひりひりもなくなってきたし、指も腕もだいぶスムーズに動くようになってきていた。
昇降口への階段を下りた所で、
「矢―㮈ちゃん」
久しぶりの声が聞こえた。そちらに顔を向けると、
「諷杝!」
「良かった。元気そうだね。連休に一度会ったきりずいぶんご無沙汰だったから、少し心配だったんだよ」
諷杝が笑う。そういえばこの頃はバイオリンの練習のせいで、あまり彼と話す機会がなかった。高瀬は同じクラスだから顔も合わすが、学年の違う諷杝とはそうもいかない。
「ごめんね。ちょっと今忙しくて」
「うん、
矢㮈は思わずきょとんとした。高瀬の観察は的を射ているが、そこまで矢㮈を見ていたとは意外だ。
本当、滅多に話さない仲なのに。――いや、単に矢㮈が分かりやすいだけ、という理由も考えられる。
「で、どうかしたの?」
矢㮈が改めて諷杝に尋ねると、彼は「うーん」と曖昧に微笑んだ。
「いや、そんな大したことじゃないんだけど。ただ矢㮈ちゃんのことが気になってたってのもあるし」
「え?」
諷杝は多分何気なく言っただけなのだろうが、なぜかうれしい気分になる。
そんな矢㮈に、すっとクリアファイルが差し出された。透けたファイルの中に入っているのは数枚の楽譜だった。
「これ、良かったらもらって? 丁度キリのいいさわりの部分だけなんだけど」
何の曲かは訊くまでもなかった。
初めて諷杝と出会った時の、あの鼻歌。ギターの曲。
「ウソ! いいの!? うれしい!」
思わず手をたたいてしまった矢㮈に諷杝も笑い、クリアファイルを矢㮈に手渡した。
「一応ピアノとギター用なんだけど」
「分かった。ありがとう」
矢㮈はファイルを丁寧に鞄にしまった。そして、彼に軽く片手を上げた。
「じゃ、そろそろ行くね。また近々顔出しに行くから」
「うん、待ってる」
諷杝に見送られて、矢㮈は自分の下駄箱に向かった。
***
「で? 忙しい用事は何だって?」
矢㮈が行ったのを見遣って、下駄箱から少し離れた所にいた也梛は諷杝の方に近付いた。
「さあ?」
「さあ、って何だ。お前、それが訊きたかったんじゃないのか」
諷杝のお気楽な答えに也梛が眉を寄せた。
「まあそうなんだけど……てかそれは君もでしょ?」
「はあ? 別に俺はどーでも……」
「それはそうと。今日はまだイツキさん見てないんだよね」
話題が急に変わる。しかしこれも、今に始まったことじゃない。
也梛がため息を吐きつつ、いつものように屋上への階段に向かうと、諷杝も
「待ってよー」
と後を追ってきた。
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