第12話 連休の終わり
五日。世間では『こどもの日』である、端午の節句だ。
余裕で日帰りできる範囲にあるという
それを見た諷杝が笑う。
「そんなに気を遣わなくていいよ。皆気さくな人たちだから」
「そんなこと言ったって、一応お邪魔するんだから礼儀だ」
その辺りは、これでも厳しく躾けられている。
諷杝は「あっそー」と言って、特に持ち物もなく身軽な格好で支度を終えた。
「さて、行きますか」
夕方には帰る予定だが、昨日に引き続き外出届けを出して寮を出る。
思い返してみれば、諷杝とこれ程遠出をするのは初めてかもしれない。
電車を二度乗り継ぎ、バスに二十分程乗って、バス停からは歩いて十分。田畑が広がる風景は田舎に近いからだろうと思ったが、それ程田舎でもないと諷杝は言う。すぐ近くに大きなデパートやらがあるらしい。
「へえ、結構すぐじゃねーか。何でお前寮に入ってんだ?」
也梛が隣を歩く諷杝に訊くと、彼は軽く眉を寄せた。
「僕の寝起きが悪いのは知ってるよね? 早起きは得意じゃないから、毎朝あれだけの乗り継ぎは辛いでしょ。それに……」
「何だ」
「……いろいろと、面倒臭いから?」
「はあ? 意味が分からん」
也梛が肩をすくめると、諷杝はそれ以上何も言わずに微笑んだ。
閑静な住宅街の一角に、その家はあった。まあまあの大きさの庭を持っていて、中からは時折犬が吠える声が聞こえた。
諷杝が低い門を開けて、也梛を中へと招いた時、
「ワンッ!」
中型犬が諷杝の足元へと跳びかかった。
すぐに門を閉めて、諷杝がその犬をよしよしと宥める。
「アキ、落ち着いて。分かった分かった」
どうやら犬の名前は『アキ』というらしい。
全くこいつは鳩と言い犬と言い人間以外のものによく懐かれるなあと也梛が呆れていると、一方から声がした。
「今帰って来たのか」
口調はどこかぶっきらぼうだったが、その人自身はとても優しそうだった。
「あ、
諷杝がアキから顔を上げてその人を見る。
短く刈った髪、背は也梛よりも高い。肩幅もあるので、がっしりとしている。
諷杝が也梛に紹介した。
「この人は兄の
「あ、初めまして。高瀬也梛です」
也梛が頭を下げると、正春も丁寧に頭を下げた。
「無口だけど、優しさは天下一品だよ」
正春がアキを連れて散歩に行ったのを見送ってから、諷杝が言った。也梛は「ふーん」とうなずきつつ、ふいに首を傾げた。
「正春さんなのに、何でショウニイなの? マサニイだろ?」
すると諷杝は苦笑する。
「細かいなあ、君は。僕が小さい時『正』をショウって読んじゃって、それからずっと
「あー、なるほど。お前漢字苦手だもんなあ」
その間違った呼び方を許す正春は、やはり優しい――いや、単なる面倒臭がりか。
玄関の前に着いて、諷杝がノブに手をかけた時、勢いよく内側から扉が開いた。
「!?」
思わずびっくりする二人の前に、二つくくりにした女の子が現れた。女の子が先程のアキのように諷杝に跳びつく。
「諷兄ちゃんお帰りなさい!!」
「ただいま、茜。元気そうだね」
諷杝も笑顔で女の子の背を撫でている。多分この子が義理の妹なのだろう。
「あらあら。こんな所で。茜、お兄ちゃんたちにお茶出してあげないと」
娘の声を聞いた母親――諷杝の養母になるのか――が、玄関先へとやってくる。柔らかそうな雰囲気の人だ。
「
「お帰りなさい、諷杝。元気そうね。春休みは帰って来なかったから、心配してたのよ」
遥音は息子に安堵する笑みを向け、それから也梛の方を見た。
「あら、そちらがお友達の?」
「うん、そう。ルームメイトの高瀬也梛クンだよ」
そう紹介する諷杝は茜に手を引かれ、玄関から上がって廊下の奥へと連れて行かれてしまった。それをあ然と見送った也梛に、遥音がクスクスと笑った。
「茜ったらよっぽどうれしいのね。さて、也梛君も上がってちょうだい」
「あ、はい。お邪魔します」
也梛は言いつつ手にしていた土産を渡した。
「まあ、別に気なんか遣わなくて良かったのに」
「いえ、一応礼儀です」
今朝諷杝とも同じような応答をしたのを思い出しておかしくなる。
遥音は也梛に礼を言い、それから笑顔を向けた。
「あの子が友達を連れて来るなんて初めてのことなんだから。あなたが来てくれたことだけでも、私はとてもうれしいわ」
也梛は曖昧に微笑み返した。
居間でお茶を出されて一息ついている間に、もう一人新しい顔が現れた。
「おー、諷杝。帰ったか」
「パパだー」
諷杝の傍から離れなかった茜が、居間の入り口に立つ男性の元へと駆け寄る。三十代後半くらいに見えるその人は、長めの茶髪で顎鬚も少し伸びていた。
「
諷杝が苦笑しながら言う。真生は茜を抱き上げて笑った。
「そう簡単に変わらないさ」
この人が茜の父親にして、諷杝の養父なのだ。彼は茜を下ろすと、テーブルを挟んで也梛の前に座った。
「君が諷杝の言っていた友達か。いつも世話かけてるだろう、諷杝は」
「ええ、まあ」
也梛が「お世話してます」と言おうとすると、
「違いますよ、真生さん。僕が也梛の世話をしてるんです」
諷杝が真顔でそんなことを言い出す。
「なっ……」
「也梛ってば手を焼かせるんですよー、ものすごく」
也梛はコップを置いて隣の諷杝に向き直った。
「どうしたの?」
いけしゃあしゃあとそう訊ねてくる諷杝が、さらに呆れさせる。
「ホント……お前はよく言うよ」
結局怒る気も失せて也梛が佇まいを直すと、向かいで真生が吹き出した。
「こりゃあ本当に也梛君が気の毒だ。諷杝に振り回されちゃって」
「どういう意味?」
「ホント笑い事じゃないですよ」
諷杝と也梛が同時に言う。
そこへ台所から遥音が顔を覗かせた。
「あなた、ちゃんと柏餅とか買って来てくれた?」
「え? ――あ!」
真生がしまったという風に口に手をやる。
「あー、パパ忘れたんだあ」
茜が言って、真生が立ち上がった。
「今から行って来るよ」
それなら茜も行くと言って、親子はさっさと出かけてしまった。
居間が一気に静かになる。遥音は台所で昼の準備だ。
也梛はふうと息を吐いて、諷杝に言った。
「いい家族だな」
「まーね……」
諷杝は曖昧に笑って、ゆっくり立ち上がった。そして首を傾げる也梛の手を引っ張って立たせると、廊下に出る。
「おい、どこ行く……」
「僕の部屋だよ。言ったでしょ、やることがあるって」
諷杝は二階への階段を上がり、奥から二つ目の障子戸を開けた。彼の部屋は和室らしい。中の六畳間はがらんとしていて、端に本棚と机があるだけだった。
「うわー、むちゃ殺風景……」
自分の部屋もここまで物がないということは無い。
「ホント、そうだよね」
諷杝はうなずきつつ部屋の奥にある襖を開けた。押し入れの上段にはたたまれた布団が綺麗に入っている。一方下段にはカラーボックスなど整理系の箱が詰められていた。
その箱の一つの引き出しを開けて、ガサゴソ奥の方を探る。
何かファイルのようなものがたくさん入っていた。
「何探してんだ?」
「んー? ――っと、これこれ。あったあった」
ようやく諷杝が目当てのものを見つけて、それを也梛の方へ差し出した。一冊の、袋付きファイルだった。プラスチックなのに、表は色褪せて薄い黄色に変色している。
中を見ると、透明な袋に入っていたのは手書きの楽譜だった。
「これって……」
楽譜の音符を追うだけで、だいたいのメロディーを掴むことはできる。
諷杝は涼しげな表情で、軽く微笑んだ。
「そう。あの曲の楽譜。まあ、途中までなんだけどね」
*****
「ええ!? チマキも柏餅も買ってないの!? いくらうちが洋菓子店だからって、それはないでしょ!?」
夕方。五日の今日は『こどもの日』だ。
閉店間近の店内で、
「あたしたちは日本人なのよ!?」
「そうなんだけどねぇ。買いに行くヒマがなくて」
母親は困った顔をしつつ、エプロンのポケットから財布を出した。
「そんなに食べたいなら、買って来てよ、矢㮈」
「えー、あたしがあ?」
「
――それならば、仕方がないか。
矢㮈は「行って来ます」と背を向けて、店を飛び出した。
だが、目的のものを手に入れる道は険しかった。
近くのスーパーに行ったのだが、虚しくも売り切れ。
続いてスーパーから少し離れた所にある和菓子屋へ行ったが、こちらもチマキと柏餅は完売だった。
「何でぇー?」
矢㮈は自転車を飛ばして、一駅先の学校近くの小さな和菓子屋にまで向かった。店番をしていたおばあさんが、勢いよく入って来た矢㮈を見てびっくりしていたが、そんなことなど気にせず目的のものを探す。
ショーケースの中には、わずかにだがそれぞれいくつか残っていた。
「あったあー! おばあさん、これを四つずつ下さい!」
満足感と共に和菓子の入った紙袋を抱えて店の外に出た時、
「あれ? 矢㮈ちゃん?」
思いがけない声に呼び止められた。
ふり返ってみると、片手を上げた諷杝と、その少し後ろに高瀬がいた。
二人共、もちろん矢㮈も私服で、なぜか変に緊張する。
「何してるの? こんな所で」
「え、ああ、ちょっと和菓子を買いに」
「そうなんだ。でもわざわざこんな所まで……」
当然のように諷杝が首を傾げる。そこでやっと高瀬が口を開いた。
「笠木の家の周りには和菓子屋はないのか」
「いや、ないっていうか……」
矢㮈はため息を吐いて、仕方なくここまでの経緯を二人に白状した。
諷杝がきょとんとして、高瀬は思いきり眉をひそめて和菓子の入った袋を見る。
「矢㮈ちゃん、そんなに食べたかったんだね。頑張ったね」
「そこまで食い意地張ってたのか、お前。呆れるな」
「だってっ! 食べたかったんだもん!!」
家が洋菓子店故なのか、たまに無性に和菓子が食べたくなることがある。
それに今日は『こどもの日』だ。矢㮈だってまだまだ子どもで、我が儘を言ってもいいだろう。だいたい自力でここまで来たのだ。文句を言われる筋合いはない。
矢㮈はそこでふと思い、二人に尋ねた。
「二人は柏餅食べないの?」
「ああ、それならもう食べて来たよ」
諷杝が笑って答える。
「十分食って来た帰りだけど」
高瀬も付け加える。
つまりこの場でまだ食べていないのは矢㮈だけ、と。
(あー、何か腹立ってきた……)
早く帰って食べよう。祖父にも供えなければならない。
矢㮈は自転車の鍵を外し、サドルに跨った。
「帰るね。じゃあ」
「気を付けて。もう暗くなってきてるし」
諷杝がそう言って手を振る。そのさり気ない心配りが彼らしくてうれしい。
「うん、ありがと」
「大丈夫だろ。和菓子を死守するくらいの根性ありそうだし」
いつものように、諷杝の言葉と矢㮈の気持ちを台無しにする一言が放たれた。もちろん言ったのは高瀬だ。
「あんたねぇ……。今度連休明けの席替えで、千佳ちゃんの隣になることを祈ってやる!」
「あーそうかい。せいぜい祈っとけば、ヒマ人」
「何よ!?」
エスカレートする二人の言い合いに、諷杝がやれやれとため息を吐く。
「ほら、二人共その辺にしときなよ。もう本当に日、暮れちゃうよ?」
矢㮈はふいと高瀬から顔を背けた。高瀬もふんと横を向く。
「じゃあね、矢㮈ちゃん」
「――うん。バイバイ」
諷杝の笑顔に気を取り直して、矢㮈は自転車を漕ぎ出した。
早く、帰ろう。
六日。ゴールデンウイークの最終日は、珍しくも皆似たような一日だった。
連休に出た大量の宿題を、一晩で一気に仕上げるのである。
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