第9話 彼の探し物
二人の生徒が去った音楽室で、引き続き楽譜を手に取って見ていると、一人の少年がやって来た。
「やあ、
並早の言葉に、諷杝は軽く微笑んだ。
「ずいぶん楽しそうでしたね。最後の方少しだけ、廊下で聞いてました」
「何だ。じゃあ入ってこれば良かったのに」
「いえ、イツキさんが離れようとしなかったもので。さすがに音楽室に鳩は入れちゃマズいでしょう?」
『イツキ』という言葉に、並早の目が一瞬憂いを含む。
「そうだったね……あの鳩も『イツキ』というのだったっけ?」
諷杝は並早の手にある楽譜に目を留めた。
「英語で使うんですか?」
「まあね。ところで何か用かい?」
並早が軽く尋ねると、諷杝はピアノの前のイスに座って、鍵盤の蓋を開けた。
ド、ミ、ソ。
切れ切れに、短い音が室内に響いた。
「おや? もしかして諷杝君もピアノを弾けるというオチかい?」
「いえ。僕はあの二人みたいにはとても弾けませんよ。『カエルの合唱』くらいなら弾けますが?」
「ははは。それなら僕も同じだ」
諷杝はしばらく気紛れにキーを鳴らしていたが、やがて蓋を閉じた。
それを見ながら、並早が静かに笑った。苦笑に近いものだった。
「全く、君と言い、あの二人と言い……昔を思い出すなあ」
諷杝が軽く息を吐いて、困ったように眉をひそめる。
「僕は全然その当時を知らないんで、よく分からないんですけどね。でも父親の言う通りこの学園に来て、
「兄は何と言っていた?」
「友達を作れと言われました」
諷杝の当惑したような表情に、並早は思わず吹き出した。
並早は今年この学園に赴任したので、彼のことをよく知らない。だが、彼の父親が兄と親友だった縁から、その存在はだいぶ前から知っていた。
「実際その少し後に也梛と出会ったんですけどね。でもまさか、こんなことになるなんて思わなかった。あいつがマジでここへ来るなんて、思ってもみなかったんです」
「まあ……そのことについては僕もびっくりしてるかな」
並早は曖昧に言葉を濁した。
(也梛君はどうあれ、彼の父親が許すとは考えにくいからなあ)
先程見事なピアノを披露した彼を思い出す。並早は彼についても少し知っていた。もちろん向こうは何も知らないだろうが。
「それで、君はこれから何をするつもりなんだい? 先輩たちに倣ってバンドでも組むのかな?」
諷杝が軽く首を横に振る。そして、相変わらず眉を下げたまま答えた。
「別に、特に考えてないです。ただ」
「?」
「ある楽譜を探そうと思っています」
「楽譜? それで音楽室に?」
「多分、ここにあるような楽譜ではないでしょう。僕が探しているのは、もう二十年以上も前に作られた、名も無い音楽好きが作曲したものです」
並早は軽く目を見開いた。
「父親は死ぬ間際に軽い口調で言いました。ホント、今からゲームでもしようって誘うみたいに――『もしヒマだったら、お父さんの楽譜を探してみるといい。そんじょそこらの宝探しよりかは面白いはずだよ』って」
そう言ってから、諷杝は呆れたように肩をすくめる。
「ヒントは『彩楸学園』。たったそれだけでした。その時分かっていたのは、ただ父親の出身校であるということ」
「それは何とも……君のお父さんらしいねえ」
並早が何かを思い出すように目を細めると、諷杝もしばらく無言になった。
やがて、並早は手にしていた英語の楽譜をピアノの上に置いた。
「それでも君は、ここへ来たんだね。入学して一年、分かったことは?」
諷杝の口元が軽く笑う。
「とりあえず、父親がバンドを組んでいたこと。樹さんのこと」
「まだまだ始まりにすぎないね」
「ええ。でも、一人の時とは違って、やっと今年スタートラインに立てたような気がします」
諷杝の笑顔が、何か自信を含んだものに変わる。
並早も思わずふっと息を吐いて、諷杝の前に立った。
「君はやっぱり
自分の息子であるかのように、諷杝の頭をポンポンとたたいた。
「僕も一応この学園の出身だから、何か助言はできるかもしれない。――それに、『ZIST』の一番のファンは僕だったから」
『ZIST』とは、諷杝の父親・海中旋を中心にしたバンドのグループ名である。二十年以上前に、グループの一人の死によって解散し、世の中に出ることも無くメンバーは各々の道を進んだ。
諷杝は苦笑し、イスから立ち上がった。
「あの父親の言うことですから、どこまで本気か分かりませんけどね。案外、あっさり見つかってしまうかもしれない」
そうは言うものの、まだ一年探してやっとスタートラインなのだ。
「見つかったらどうするの?」
ふいに尋ねてみる。
すると諷杝は微笑んで、当然だろういう風に言った。
「もちろん演奏するんですよ。皆で」
皆――きっと、あの二人のことを言っているのだろう。
それは自分も聴かせてもらえるだろうか、と並早は思う。
その時、音楽室の窓の外側で、バサバサと羽音が聞こえた。そちらを見ると、白い鳩が羽をバタつかせている。
「お呼びがかかっているようなので、そろそろ行きます」
諷杝が並早に頭を下げる。並早も笑って軽く手を上げた。
「またいつでも声かけて」
焦げ茶の髪の少年が、音楽室を出て行く。
並早は白い鳩がまだ見えるその窓の方を見て、鳩に微笑んだ。
「樹兄さん、心配しなくてももう諷杝君には友達がいるよ」
白い鳩の黒い目が、一瞬瞬いたように見えた後、鳩はどこかへ飛んで行った。
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