第8話 打楽器演奏会

「いいよ、君たちも自由にしてて。別に僕は楽譜を探しに来ただけだから」

 その男性教諭――並早教諭は、英語が担当だと言った。矢㮈やなも高瀬も担当外の先生なため、初めて見る顔だった。彼は今度授業に使おうと思っている英語の歌詞の曲を探しに来たらしい。

 高瀬は閉じかけていた蓋を元に戻して、人差し指でいくつかのキーを鳴らした。

「お? 君はピアノを弾くのかい?」

 並早が彼に尋ねる。

「いえ、ただ鳴らしていただけです」

 高瀬は言って、「ドレミファソラシド」と順に弾いた。

 それを聞いてると、昔小学校の教室で友達とピアノを弾いて遊んでいたことを思い出して懐かしくなり、矢㮈も高瀬の横から手を出した。

 遊び曲の王道――『ねこふんじゃった』。しかもサビの部分だけ。

「……お前、どうせ弾くなら最後まで弾けよ。あ、知らないのか」

 高瀬が呆れたように感想をつぶやいた。

 しかしそれにただ黙っているような矢㮈ではない。

「弾けますよー。弾いて差し上げようじゃないの」

 これでも、ピアノは小さい頃に習っていた。途中から同じく続けていたバイオリンが主になってしまったが、少しくらいはまともに弾ける――はずだ。

 高瀬が「ふーん」と面白そうなものを見る顔をし、イスを譲って傍らに立った。

 とは言っても、やはり久しぶりにピアノに向き合う。指の体操代わりに軽く弾いて、矢㮈はふっと息を吐いた。

「カスタネットだけじゃないってトコ、見せてあげる」

「うわ、すんごい自信」

 腕を組んで見下ろすような高瀬が気に入らない。――背の高さは考えないとして。

 矢㮈は両手を鍵盤の上に翳し、そっと指を置いた。

 そして、弾き始める。

 軽やかで、リズミカルな音が弾いていて楽しい。

 頭の中にネコが出てきて、ニャーニャーと踏まれたことに抗議していた。

 弾き終えた時、拍手の音が聞こえた。

「いやー、すごいすごい。そちらのお嬢さんはピアノを習っていたのかな?」

 楽譜探しをしていたはずの並早だった。

「そんなことないです。小さい頃、少しやっていただけで」

 矢㮈は顔の前でぶんぶんと手を振った。実際、そんな大したものでもないと思っている。

 そして、どうだという風に傍らの高瀬を見上げると、彼は難しい表情をしていた。

「……何よ?」

「――いや、正直お前がそこまで弾けるとは思わなかった。ただ」

「ただ?」

「一部微妙に音がズレていたのがドンマイだな」

「……」

 矢㮈はわざとにこやかに笑って、高瀬にもう一度イスを譲った。

 それから彼にピアノを弾くように言った。

「それじゃあ、見本を見せて頂戴」

「何で俺が」

「偉そうに言ってるからでしょ。本当に弾けるの?」

 高瀬は眉をひそめて、それからため息を吐いた。

「分かった。弾いてやる。『ねこふんじゃった』でいいんだな?」

 矢㮈はうなずいた。

 同時に、少しわくわくする。

 あれだけ矢㮈の前でキーボードを弾かなかった彼が、今からピアノを弾くというのだ。

 高瀬は特に指を慣らすこともせず、ふいに弾き始めた。

(――あ……)

 矢㮈はすぐに息を呑んだ。

 上手い、としか言いようがなかった。

 見本のCDか何かでも聞いているみたいに、ズレが無く速さも一定だ。何より、細かい所まで気を張り巡らせているような感じがする。

(何か……クラシックみたい……)

 最早それは、お遊びの『ねこふんじゃった』では無かった。

 曲が終わる。それでもまだ頭の中で、滑らかな曲が響いていた。

「……すごい」

 矢㮈がボソリとつぶやくと、高瀬はつまらなさそうに横を向いた。

「別に。これくらいのヤツは他にもいっぱいいるだろ」

 並早も、ポカンと口を開けて高瀬を見つめていた。

 ようやく高瀬がピアノの蓋を閉じようとしたところで、並早が「待った!」をかけた。

 不思議そうな顔をする高瀬と矢㮈に、並早はどこかの引き出しから打楽器の入った箱を取り出してきた。

「君たちの演奏を聴いていて、僕も何かやりたくなってしまったよ。少し付き合ってもらえるかな?」

「……は?」

 呆然とする矢㮈に、高瀬がイスから立ち上がろうとする。

「お前が夢見た打楽器演奏会じゃねーか。どうする? お前がピアノをやるか?」

「――どーせあたしはカスタネットです」

 矢㮈は言って、並早が取り出して来た箱から、カスタネットを選び出す。教諭たってのお願いには、高瀬も協力するらしい。

 並早はトライアングルを構えた。

「じゃあ、もう一度『ねこふんじゃった』で行こう。サン、ハイ!」

 並早の掛け声と共に、高瀬が半ば呆れ気味に指を鍵盤に滑らした。

 再び、あの曲が流れ出す。

 矢㮈はその曲に聴き入ってしまい、手が止まってしまっていた。

「おい、カスタネット。音が聞こえない」

 曲と共に高瀬の声が聞こえて、矢㮈はようやくたたき始める。

「先生、もう少し軽くたたいて下さい」

 高瀬が並早に言って、教諭が生徒のように「はい」と答えている。

 何だか変な演奏会だった。

 曲が終わった時の高瀬の感想はと言うと、

「正直言って小学生レベルだな。まあ、最後の方はマシだったけど」

 ということだった。

 その言葉に、矢㮈も異論はない。

 しかし、

「楽しかったなあ。久しぶりだったよ」

 並早の言葉に、矢㮈も同感だった。

 楽しかった――それだけじゃダメだろうか?

 何より高瀬のピアノが忘れられない。

 今度こそピアノの蓋を閉めた高瀬に、矢㮈もカスタネットを箱にもどしながら言った。

「ね、高瀬」

 君付けはもうだいぶ前に、本人から「気持ち悪いからやめろ」と言われている。

「何」

 高瀬がイスから立ち上がって伸びをする。

「また、こうやって演奏会してくれる? 今度は諷杝も一緒に」

「……お前がもう少しカスタネット上手くなったらな」

 相変わらず、ひねくれた答え方をする。

 矢㮈は心の中で唇を尖らせ、しかし顔には笑みを浮かべた。

「次は、カスタネットじゃないよ」

「は?」

 高瀬が眉を寄せる。

 そう、次はカスタネットではなくて。

「あたしの一番の楽器で」

「――タンバリンか?」

「内緒」

 矢㮈は一人、心の中で笑った。

(次は……)

 今は、まだ言えないけれど。

 まだまだ、ブランクを埋めなきゃなんないけど。

 でもいつか、一緒に演奏したい。

(あたしのバイオリンで)

 諷杝がギターを奏でた時に思った、一緒に演奏したい、彼ら二人と共にバイオリンを弾きたいと思う気持ちが、また矢㮈の中で強くなった。

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