第3話 鳩と少年
「じゃ、笠木。あたし部活行って来るね。お先」
「うん、頑張って。バイバイ、また明日」
千佳を教室から送り出して、矢㮈も帰り支度を整えると廊下に出た。
まだまだ部活は勧誘の真最中で、早くも参加している千佳のような生徒は少数だ。廊下に貼り出されたポスターに目を遣りながら、ゆっくりと歩く。
ふと、オーケストラ部のポスターに目が留まる。
入学式の朝から、弟にはずっとオーケストラ部に入るよう勧められていたが、矢㮈はまだ一度ものぞいたことがなかった。気が、進まない。
そのポスターから目をそらすと、次に合唱部のポスターが目に飛び込んできた。
確か母親は合唱部に入っていたと言っていた。矢㮈はそう歌が上手いわけではないが、歌うのは嫌いではなかった。
「うーん、思い切って一度行ってみようかな……」
思わず独りごちて顎に手を遣った時、足の脛の辺りを何かに突っつかれた。
「ひゃっ!?」
慌てて飛び退く。そして足元を見ると、そこには一羽の真っ白な鳩がいた。白い鳩はまたトコトコと矢㮈の足元に近づいてきて、先程と同じ所を同じように突き始める。
「ちょっ、なっ……! 何でこんなトコに鳩!?」
不幸か幸いか、しかし悲しいことに周りには誰もおらず、矢㮈は思い切って鳩に手を伸ばした。だが、鳩はその手を器用にすり抜けて、廊下をトコトコと走り出した。
「え!? ちょっと、君! どこ行くの……っ?」
気になるものは仕方なく、矢㮈はその鳩を追いかけた。
鳩は階段の所まで来ると上に向かって上り始め、ついには屋上まで行ってしまった。
矢㮈は屋上の扉が開いているのに気付いて、軽く目を見開いた。中学の時は滅多と屋上に出ることは許されなかったため、どこか新鮮だった。
鳩の姿は見えなかったが、矢㮈は屋上へと一歩を踏み出した。
彩楸学園の屋上は広かった。その半分はガーデニングになっている。きっと昼休みには生徒でいっぱいになるのだろうが、放課後は人影もなくひっそりしている。
遠くに運動部の掛け声と、吹奏楽部の各楽器の音色が風に乗って聞こえてくる。その風の中には、春の匂いも混じっていた。
そして、それが微かに矢㮈の耳に入ってきた。
それ――何か鼻歌のような、メロディーが。
矢㮈はじっと耳を澄まして、そのメロディーが聞こえてくる方に向かって歩き出した。芝生の上を避けて、ゆっくり歩く。できるだけ音をたてないように、そっと、そっと――。
「!」
屋上の奥の方にある、丸太のような木のベンチに、一人の少年が座っていた。
俯き加減の顔には、少し長めの焦げ茶の髪がかかっていた。そのせいで表情はよく分からなかったが、矢㮈はじっと彼を見つめた。
間違いなく、彼がメロディーを紡ぎ出している。
歌詞はないが、何か切ない、物悲しいメロディー。胸の奥の何かが、儚く消えていきそうな――でも、いつまでもずっと聴いていたいような、そんなメロディーだ。
矢㮈は彼から目が離せず、ただその場に立ち尽くした。
――と。
バサバサバサッ……
羽ばたきの音がして、矢㮈の方へ何かが飛んできた。
「わっ……!」
思わずしゃがみ込むと、目の前にあの白い鳩が降り立った。
「ま、また君は……頼むから驚かさないで……」
全く心臓に悪い。矢㮈がほっとした息を吐き出した時、誰かの手が白い鳩に伸びて、それを抱え込んだ。
「――あっ」
それが先程歌っていた少年であると分かって、矢㮈は固まった。
「大丈夫? ごめんね。普段はこんなに興奮することなんて滅多にないんだけど。ほら、イツキさんも謝って」
少年は困ったように微笑んで、白い鳩の頭を矢㮈の方へ向けた。
しかし、鳩はもちろんごめんなさいと謝りはしない。ただ嘴をツンツンと前に出している。――これが鳩流の謝罪なのだろうか。
「――イツキさん?」
矢㮈が白い鳩を見て、続いて少年を見上げた。少年がうなずく。
「うん。この鳩の名前。僕の知り合いの人の名前からもらって付けたんだ」
「じゃあ、この鳩はあなたの……?」
「うーん……勝手に懐かれただけだと思うけど」
ということは、別にペットとかそういうものではないらしい。
矢㮈はゆっくりと立ち上がって、改めて彼と向かい合った。
少年はそれほど背が高いわけではなかったが、やはり女子の矢㮈より頭一つ分は高い。まだブレザー着用の季節なのに、彼はカッターシャツ姿だった。シャツの白さが余計に彼を爽やかに見せる。
少年はイツキを開放して、飛び立った後姿を眺めていた。
「ねぇ……」
矢㮈は敬語を使おうかどうか迷ったものの、彼にはそんな堅苦しいものはいらないような気がして、結局そのまま尋ねた。
「さっきの曲、何て言うの?」
「ん?」
少年がまたこちらを向いて、軽く眉を寄せて笑った。
「ああ――僕のくだらない鼻歌聞いてたんだ」
くだらない――?
矢㮈は先程感じたことを思い出して、首を横に振った。
「そんなことない。くだらなくなんかなかったよ。何か――不思議でずっと聴いていたいような……」
上手く伝えられない。だが、くだらなくなんか全然ない。
「あたしは好きだなぁって思ったから、あの曲」
そう言った矢㮈に、少年は軽く目を見開いて、ふっと柔らかく笑う。
「ありがとう。そう言ってくれたのは、君で二人目だよ」
二人目――ということは、矢㮈と同じように感じた人が他にもいたということだ。
「あの曲は、僕も題名を知らないんだ。ずっと昔、僕の父親が作ったとか何とかいう曲でさ、歌詞も知らない」
「……そうなんだ」
少年の思わぬ返答に、矢㮈は少し残念に思う。
春の風が彼の焦げ茶の髪を揺らして、矢㮈の元にも吹き抜けた。
「そういえば、ここで何してるの?」
矢㮈がふと思い尋ねると、少年はちらと自分の腕時計を見た。
「ちょっと人と待ち合わせしててね。鼻歌を歌いながらのんびりしてた、みたいな?」
「あ、人と待ち合わせだったんだ」
「うん。そういう君は?」
「あたしは――」
白い鳩を探して空を見上げるが、どこへ行ったのかイツキは見つからない。
「イツキさんを追って来たらたどり着いた、みたいな?」
彼の言い方をまねて言ってみる。少年がぷっと吹き出して、
「そっかー、イツキさんを追ってきたのかぁ。それは御苦労様。でもわざわざ白い鳩に構う君も君だよね」
矢㮈の行動をおかしがった。
そんなことを言われても。
「だって、急に足突っつかれたんだよ?」
「それはそうかもしれないけど……」
何がおかしいのか、少年はしばらく笑い続けた。
それにしてもよく笑う少年だ。その笑顔がまだどことなく幼くて、矢㮈は可愛いと思ってしまった。
その時、制服のスカートのポケットが振動した。携帯を取り出してみると、メールが一件。母親からで、ソースが切れたので帰りにスーパーで買ってこいというものだった。
「あたし、そろそろ帰るね。ごめんね、待ち合わせ中お邪魔しちゃって」
矢㮈が、了解と返信し終えて少年に言うと、彼は相変わらず笑顔だった。
「あ、そう? てか邪魔なんてことないよ。僕も、きっとイツキさんも楽しかった」
「あたしも来て良かった。あ、そうだ」
そこで今さらながら思い出した。
「名前、訊いていい?」
「あれ? まだ言ってなかったっけ? 遅ればせながら、僕は
「諷杝、ね。あたしは笠木矢㮈。好きなように呼んでくれたらいいけど」
「じゃあ、矢㮈ちゃんで。とりあず、よろしく?」
「そうだね、よろしく。じゃ、諷杝、またどこかで」
「うん、気をつけて。バイバイ」
結局イツキは現れなかったが、矢㮈は諷杝に見送られて屋上を後にした。
一階まで一気に階段を下りた時、見知った顔とすれ違った。
黒髪に、眼鏡――その奥の瞳は、猛禽類の如く。そして、背が高い。
「高瀬君……?」
高瀬はちらと矢㮈を一瞥して、彼女の横を通り過ぎて階段を上って行った。彼の背には、黒くて細長い長方形のケースがあった。中身は一体何なのだろう。そして、これからどこへ向かうつもりなのか。
(部活かな……?)
そんなことを思いつつ、矢㮈はさして気にすることもなくまた歩き出した。
(そういえば、諷杝は誰をまっていたんだろう……?)
そこは何となく気になったが、考えてみても分かるわけもないので、途中で考えるのをやめた。
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