Hurt

緑茶

Hurt

「昨日、手首を切ってみたんだ」


 向かい側に座る黒尽くめの老人は、自嘲気味にそう零した。


「だが、皮膚を傷つけただけで終わったよ。もう私の腕では、力を込めることさえ出来ないらしい」


 彼は喉を鳴らした。笑っているらしかった。

 テーブルの上には無数の皿がひしめき合って、その上を極彩色の光沢を持った食べ物が所狭しとひしめき合って、風で蠢いていた。

 そのすぐそばには小さなかごがあって、それは茨と十字とイエスで装飾されている。中身といえば果物だが、そのどれもがホコリをかぶっていて、ひどく色あせていた。腐敗の一歩手前まで進んでいるようだった。


 部屋は薄暗かったが、どこまでも贅を尽くしていた。絨毯や壁材、シャンデリアに至るまで――並大抵の調度品ではなかった。彼はその中で縮こまって座っている。まるで、それらに侵略されるかのように。


「無為に長い人生を生きてきた。妻にも愛想を尽かされてこのざまだ。こんなはずじゃなかったんだ……私の行く道はもっと、光り輝いていたはずなんだ……」


 彼はブツブツと言う。既に私に聞かせているという体は忘れているらしい。彼は口を動かしながら、絞り出すように続ける。その目は祈るように閉じられている――既に殆ど見えなくなっているらしい。開けていても、一緒なのだ。


「自分の作った音楽で世界に出たかった。名誉が欲しかったわけじゃない。ただ私は、何者かになりたかった……このピアノで」


 彼は立ち上がって、部屋の隅に置いてある大きなグランドピアノへ。その閉じられた黒壇に手をかける。埃が舞って、手の跡がついた。


「順調だと思っていたのは最初だけだ。一度挫折したら、もう二度と元には戻らなかった。私は堕ちて堕ちて、おちぶれた。――でも、死にはしなかった。私は拾い上げられた。首輪をつけられて」


 彼は迷うようにフラフラと動いて、テーブルの上にあるワインを手に取った。


「売れるような曲を作るのは、存外に簡単だった。私は自分に仮面をかぶせることを選んだ。そこからはもう、上り調子だったさ。浴びせられる賞賛……金も。女も。好き放題に手に入れられた。最高だったね」


 私は聞いた――それで、幸せだったのか、と。

 彼はまた、口の端を歪めて喉の奥から声を出した。


「まさか。私は、自分が最も憎んでいたものに魂を売ったんだ……こんな風に」


 彼はワインをピアノの上にかけた。

 赤い赤い血の色。滴って、床に染み込んでいく。


「私が持っていた夢も。理想も、既に消えていた。私は亡霊になって、妻はそんな私を置いてどこかへ行った。私に残ったのは……」


 彼は翻って、両手を広げた。その先にある全てを支配するように。


「この、ホコリまみれの帝国さ。臣下も誰も居ない。ただ、寂れていくだけの。私はその玉座に座るようになって、ようやく気付いたんだ。全てを失ってしまったことに」


 彼はどっかりと、脱力するように椅子に座る。

 それから黒衣の中に埋もれるようにして俯いて、指を顔中に広げた。


「こんなはずじゃなかったんだ。私は何にだってなれたはずなんだ……その全てが、すべてが…………」


 そこからは、嗚咽が響くのみだった。

 彼の丸い背中には、背負ってきた何十年分がのしかかっているように見えた。

 そしてその重みは、彼が思っているほどには、軽いものではない様子だった。


 しばらくして彼は顔を上げた。それから私を見て、今日は付き合わせて悪かった、と言った。私が首を横に振ると、彼はバツの悪そうに窓の外を見た。

 彼の目は白く濁っていて、どこまでものが見えているかわからない。


 その瞳が、不意に……差し込んできた陽光と呼応するように、大きく見開かれた。


「……おお、」


 彼は私を見た。それから震える声で告げた。


「君は見えないか、あれが……あぁ、こんなことがあるのか」


 私は彼の言う『あれ』を窓の外に見た。

 彼は続けた。


「妻だよ。私の妻が、あそこに見えている……あぁなんということだ。奇跡だ……」


 黒い影が、丘の上に見えている。

 彼は身体を震わせながら席を立って、そわそわと動き回った。それから、玄関の方に向かおうとする。


 ……私は、言葉を失う。

 私の視界には、そのシルエットが見えている。見え続けている。


「あぁ――君が居てくれるなら。私は、もしかしたら……もしかしたら!!」


 彼もまた外を見ている。外の影を見ている――。

 彼は私に背を向けて、飛び跳ねるようにして歩いた。

 既に私のことは眼中にないらしかった。これまでの全てを取り戻すかのような勢いで、彼は急ぐ。


 ……私の目は涙でいっぱいになって、その場で崩れ落ちる。

 もはやそれさえ彼には見えていない。

 彼は既に何十年も昔に戻っていた。広がる歓喜の中に居た。

 玄関を開ける。


「やり直せる――私は、やり直せるんだ!!」


 光が一面に差し込んできて、彼はその言葉とともに消えていく。


 私は後を引く彼の声を聞く。そして後悔の中で涙を流し続ける。

 

 ――とうとう、告げることができなかった。彼の様子を見れば、そんなことは無理だった。


 丘の上で風に揺れるシルエット。

 私にははっきりと見えていた。



 それは彼の妻などではなく、一枚の葉もない立ち枯れの木にすぎなかった。

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Hurt 緑茶 @wangd1

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