第11話
バスを降りるや、すぐに家へと走っていった。母に帰ると言った時刻が、ギリギリだったのだ。
「た、ただいま……」
少し声を潜めて呟いたが、全く返事がない。聞こえなかったのかと思い、今度はさっきより大きな声で言ったが、またも返事がない。
「……………………」
どこかに出掛けているのだなと思い、そのまま家に上がった。
シンとしたリビングに入り、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出すと、コップに注いだ。そして、コップを手に持ち、テーブルをL字に囲むソファーに腰掛けた。
手に持っている麦茶で喉を潤す。バス停から家までを走って帰ったせいか、喉を通ったお茶は、なかなかに気持ちのいいものだった。
「さて、と……」
コップをテーブルに置いたところで、俺はスマホを取り出した。さらに、電話を掛ける。相手は、
「もしもし、智?」
俺のカノジョの智だった。俺は、智にデートがしたいと、さっき言った。だから、この電話は、そのデートの話し合いのためだ。
『ど、どどどどどうしたんだ――よ?』
慌てた様子で、すぐに電話に出てくれた智。少し言葉の後ろに違和感を感じたものの、俺は構わず話を進める。
「デートの件のことなんだけどさ、明日の九時……でいいかな?」
とりあえず、バスのなかで決めた、日時のことだけを伝えておく。
『…………も、もちろんなんだ――よ』
了承を得て、俺はホッとした。相手の都合は一切考えておらず、断られたらどうしようと、一瞬どきりとしてしまった。
とりあえず、日時は決まった。次は、
「どっか……行きたいとこ、ある?」
デートの行き先だ。やはり、デートで重要なのは、これであろう。俺はデートをしたことはないが、デートの心得はある――はずだ。
今回俺は、智に行き先を尋ねた。理由は、俺があらかじめバスのなかで決めていたこともあるが、俺がいきなり智にデートをすると伝えてしまった、せめてもの謝罪のかたちだ。
『しょ、ショッピングセンター。か、買い物に……行きたい』
言葉が尻すぼみになっていたが、確かに聞こえた。智は、買い物に行きたいのか。
しかし、何を買いたいのだ?それは、敢えて聞かなかった。はっきりと言わないのは、なにか言いたくないことでもあるのか、と考えたから。
「ショッピングセンター、ね。わかった。じゃあ、明日九時に駅前に集合。オーケー?」
俺が簡潔にまとめると、智は「うん」と電話越しに答えた。
ここで俺は、じゃあね、と別れを告げて電話を切るべきだったのだろう。しかし、今の俺は親がいないということで、まだ智と話したかったのだろう。
「あのさ、ちょっと聞いていい?」
俺の前置きに、智は、ん、とだけ答えた。
俺は、なんと言うべきか少し考え、それから聞いた。
「しゃべり方、変えた?」
『ッえ!?』
耳元からわかる、物凄い動揺。これは、当たっているのかも。
「前は、だぜ、とか、のぜ、とか言ってたけど、最近は聞かないなって思ってさ。ひょっとしたらそうなのかなって思って……」
続けると、智は、
『はうぅ……』
と、悶絶の声をあげていた。俺は、カレシとしてカノジョの変化に気づけたということで、少し自分を誇っていた。
少しして、智が恥じらいまじりに言葉を発する。
『ひ、弘人と付き合うから、お、女の子らしく振る舞うために……れ、練習してる、のよ』
この答えは、想像していなかった。てっきり、もう男のフリをする必要がなくなったからとか、そういうことを言うのかと思ったが、まさか俺のことを思っての行動だったか。
俺はますます、智のことが好きになりそうだ。
しばらく妄想に
『そ、そろそろ……切るよ』
という言葉で、俺は電話をかけているのだと思い出した。
「え、あ、うん。じゃあ」
少し慌ててそう返事すると、智はフフッと笑って、それからこう言った。
『好きだよ、弘人』
それは、多分恥ずかしい
俺は、周りの音が、全く聞こえなくなるくらいに、その言葉を聞いていた。そして俺自身も、好き、と返した――――
「あら弘人、帰ってきていたのね?」
と同時に、ガチャリとリビングの扉が開き、母が現れた。
場は、凍りついたかのように静まった。やがて、氷付けの魔法から解き放たれたように、動けるようになった俺は、瞬時に、
「俺もすき焼きが食べたい!」
と電話に向かって言うと、そのまま速やかに切った。そして、何事もなかったかのように、部屋を立ち去る――――
「ちょっと待ちなさい?」
ことは、出来なかった。母は、とてつもない笑顔で俺の腕をしかも物凄い力で握りしめ、行く手を拒んだ。
どうやら俺は、今日はまともに過ごせないらしい。そう悟って、天井を見上げた。
どうやら母は、俺と智が付き合っていることを内緒にしているから、なにかやましいことでも隠しているんじゃないかと、勘違いをしたらしい。
二時間ほど母の座るソファーの前で正座させられた俺は、痺れる足を引きずりながら、自室へと戻った。
やっぱり自分の部屋は、なんだか落ち着くな。深呼吸をして、そう思った。
て言うか最初から、自室で電話のやり取りをすればよかったのではないのか?まぁ、過ぎたことはどうでもいいか。
この件は次に活かすとして、俺はベッドに飛び込んだ。まだ昼なのだが、空腹より疲労の方がたまっている。なんせ、病院では医者の熱弁、家では母の説教といろいろ疲れるようなことしかしていないような気がするからな。
ベッドに仰向けになっていると、どんどん力が抜けていき、まぶたも重くなってくる。体を動かすのはとても
朝になった。どうやら、昼から寝たまま朝を迎えたらしい。よっぽど疲れていたのだなと、あくびをしながら思った。
リビングにて朝食を済ませた俺は、まだ空腹を感じるので、デートの集合時間より早く家を出て、駅の近くにあるファミレスに行った。
朝のファミレスは、なんだか不思議な感じだった。しかし、今はそのファミレスを堪能することを、俺の腹が許さない。早くしろと言わんばかりの大きさの腹の虫がなり、俺はそそくさと空いている席に座った。
「モーニングセットをひとつ」
呼び出しに応じた女店員に、指で1をつくって注文をする。店員はわかりましたと返事をし、笑顔で去っていった。
やがて運ばれてきた皿には、フレンチトーストが2切れと大きなベーコンエッグが乗っていた。
匂いから、俺の食欲をそそる。それが置かれるとすぐに、俺はトーストに食らいついた。
パンは、外がサクッとしていながら中はフワッとした食感となっており、思わず「うまい」という感想が口からこぼれた。
トーストをペロリと平らげたあと、今度はベーコンエッグを頬張った。これもうまい!ベーコンと卵の味が、濃すぎず薄すぎず、ベストマッチしている。
俺はほっぺたが落ちるような錯覚を感じた。ハッとして頬を押さえて、確認する。よかった、俺の頬はちゃんとある。
俺は安堵したあと、まだ残っているトーストにかじりついた。
完食したあとの俺は、背もたれに背中を預けて、店内を見渡していた。
朝ファミは、なんだか不思議な感じがする。それは、店に入ったときにも感じたのだが、どうやらその原因は、店の雰囲気にあるらしい。落ち着いて、店内を見回すと、店内は全体的に白い。なんというか、清楚な感じだ。
そう思いながら、セットについてきたコーヒーを飲んだ。コーヒーは、飲むとシャキッとなり、朝にはぴったりだ。
やがて、コーヒーをのみ終えた俺は、お会計を済ませ店を出た。
ポケットの中からスマホを取りだし、時間を確認する。八時五十二分。デジタルでそう示された時刻に、俺は歩調を速めた。
予想以上にファミレスに居すぎた。少し急がないと間に合わない。
結果から言えば、なんとか間に合った。最後の方、まずいと思って走ったため、息を荒げてしまった。
とりあえず、呼気を整えるために駅前の広場のど真ん中に位置する木下のベンチに腰を掛けた。そしてそのまま、深呼吸を数回した。
「あ、弘人。おはよう」
そろそろ落ち着いたかなと思ったその時、前から聞き覚えのある声が俺の名前を読んだ。顔をあげると、そこには智が立っていた。智は、やはりイメージ通りというか、俺でも着れるような男物の服を着ていた。
「おはよう、智」
俺がそう返すと、智は恥じらった表情で、俺のとなりに座った。そして、周りにチラチラと視線を飛ばして、口を開く。
「やっぱり……服、変だよね……」
目を伏せて、どこか寂しげな表情をする。旗から見れば、やはり男のような見た目だろう。それを気にしてか、そう言った智に対し、俺は本心を告げた。
「どこも変じゃないよ。なんというか、智らしいよ」
それを聞いた智は、目を丸くしていた。が、突然立ち上がり、そして俺の手を引いた。
「行こう!電車が来るよ!」
「………………わかった!」
駅へ向かい走っている智の背を見ながら、俺は少し嬉しかった。だって、なんだか智が、笑ってくれている気がしたから。
電車の中は、案外空いていた。俺も智も、余裕を持って席に座れた。
俺達は、電車に乗ってからも会話を交えた。
そして俺は、昨日敢えて聞かなかった、今日の買い物の目的を尋ねていた。
智は、かぁっと顔を紅潮させて、
「その……今日は私を、女にしてほしいの」
「…………え?」
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