第3話
「……あなた、誰ですか?」
「……………………え?」
一瞬、いや、長い間時が止まった感覚がした。俺は、素っ頓狂な声で返した。
「あなた、誰ですか?」
「……………………」
しかし、返ってくるのは、さっきと変わらない返事だった。
なんの言葉も返せない。まるで、声がでなくなったかのように、驚いている。
嫌だ。違う。そんなはずがない。
脳内が、目の前の現実を全力で否定する。俺は、薄々感ずいていた。長い間、一緒にいるからわかるが、
つまり、千鶴は、記憶を失って―――
考えて、ふと、頬を伝うなにかに気づいた。
俺は、わけもわからず頬を拭った。そして、その手についた正体を、俺より先に、千鶴が言った。
「涙……。どうして、泣いているのですか?」
不思議そうに首をかしげる彼女に、完全に心が折れた俺は、
「う、うぅ……。ごめんなさい……。少し、寝ます。そのあとに、お話しします」
と、言った。そして俺は、千鶴とは逆の方を向いて、布団に潜った。
もう、これが全部夢で、目が覚めたらいつも通りの日常に戻ればいいのに。そして、俺は眠ってしまった。
二人だけの病室に、ニュースキャスターの円滑とした喋りだけが、静かに、響いた。
目が覚めた。少しの期待を抱き、体を起こした。しかし、目に写る景色は、全く変わらない、静寂しきった、夕焼け色に染まった病室だった。
「……夢じゃ……なかった……」
独り言のように呟いた俺は、俯いて、涙をこらえるように、思いっきり歯を喰い縛っていた。
これまで築いてきた思い出が、一瞬で崩れ去る残酷さ。
今まで過ごしてきた時が、一瞬で無くなる冷酷さ。
何もかもがなくなった俺は、込み上げてくるものを押さえるのに必死だった。
「うぅ……」
ふと、
カーテンの奥、その声の主は、千鶴だ。
俺は、ベッドの横に足を下ろし、カーテンをめくった。それは、不思議と抵抗がなかった。
カーテンの奥には、千鶴が寝ていた。しかし、何故か、泣いていた。そして、そのあと千鶴は、ひーくん、と、呟いた。
ひーくんとは、俺、
俺は、上を向いて、涙が溢れるのを抑えた。その涙は、数時間前のそれとは違う。全くの別物だ。
俺は、涙を流す千鶴の頭を、そっと、撫でた。優しく、優しく撫でた。
すると千鶴は、強ばった表情が、安心したように緩んで、そして、泣き止んだ。
あぁ……。なんて
俺は、今日、千鶴の笑顔に救われた。
「これは奇跡としか、言いようがないっ!」
俺は、診察室で、うるさい医師の熱弁を、朝っぱらから聞く羽目になった。
というのも、俺は朝、怪我の異常はないか、検査を受けることになっていた。
「こんな爆発事件に巻き込まれ、なんの後遺症も残さず、骨折だけで済むなんて、これは奇跡としか言いようがないっ!」
骨折でも充分痛いっつーの!
なんて不謹慎な人なんだ!と、心のなかで文句を言った。
「とりあえず、あと二日くらい様子を見て、どうもなかったら、退院で」
「て、適当ですね!」
あまりの適当さに、思わずつっこんでしまった。
「まぁ、うん。本当のことだから、うん」
今度は、急にテンションが下がった。すごく感情の浮き沈みが激しい人だな。
医師が
「じゃ、じゃあ!サヨウナラー」
その沈黙に耐えられず、ちょっと気まずくなった俺は、急いで診察室を出た。
俺は、器用に
「うー、とんだ災難だった……」
病室に入るや、独り言のように呟いて、ベットに腰を下ろした。
「ふふふ……」
と横で、千鶴が笑った。
「わ、笑うところじゃあ、ないだろ!」
俺は、千鶴が笑ってくれたことが嬉しかったが、同時に照れ臭くて、冗談半分、つっこんだ。
「ご、ごめんなさい。なにがあったんだろうな、と」
千鶴は、笑いながらも、答えてくれた。
今の千鶴は、前の千鶴とは違う。
記憶喪失で、俺のことなんて全く覚えていない。だけど、俺は、ちっとも悲しくない。
俺は、記憶喪失の彼女に、もう一度好きになってもらうために―――
二人のいる病室は、今日も楽しい笑い声が聞こえてくる。
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