第37話 主が呼んでいるなら

 繭の中に封じ込められたヴァルラは脱出を試みていた。そこはまるでゴムでできた卵の中のようで、意外にも痛みや苦しさは感じなかった。むしろ静かで柔らかなその内部は心地良いとさえ思えた。

 気だるさと温もり。この感覚には覚えがあった。それはもう昔のこと、マスターと暮らしていた頃のことだ。ヴァルラの記憶が当時に引き戻される。


 ドナーとして血をマスターに提供した後は全身がだるくなり、ベッドの中で半日を過ごすのだ。そんな時彼はベッドの枕元に来ては、子供にそうするようにヴァルラの頭を撫でてくれた。


「いいよ、心配すんなって。それよりもあんたの飯作らなきゃな」


 体を起こそうとする下僕の肩に手を置いてマスターは言うのだ。


「無理をするな。しばらくそうして休んでいるといい。目を閉じて暗闇に体を委ねるのだ」


 言われて目を閉じる。眠気が襲ってきて体は闇に溶け込んでいく。


「疲れたであろう? お前は良くやった。もう頑張る必要はないのだ」


 マスターの声が優しく響く。


「俺が? 本当にもういいのか?」

「そうだ。あとは何も心配しなくていい。さあ、来るのだ。こちらへ、私の元へ」


 ヴァルラの胸が熱くなる。


「やっと呼んでくれたんだな。俺ももうあんたのところに行って良いんだな……」


 彼は黒い眉の中で溶かされ始めていた。心地よい夢を見ながら、その体を浸食されていく。


「──!」


 遠くから声がする。眠りを妨げるような声を無視して、ヴァルラは闇の奥底に沈んで行こうとした。


「──ん!」


 しかし、その声をどうしても無視することができない。あれは誰の声だっただろう。ヴァルラが僅かに意識を浮上させる。すると……。


「ヴァルちゃん! 聞こえてる? ヴァルちゃんったら!」


 それは必死に叫ぶミハイラのものだった。そして金属がぶつかる音。ヴァルラは我に返った。思い出す。そうだ、自分はシルバーと戦っていたのだった。そして今ミハイラがたった一人でシルバーと対峙している。


 ミハイラの声に救われたのだと気付いた。気付けば繭の中に囚われていた。マスターとの記憶まで利用されて。ヴァルラの怒りがふつふつと湧き上がる。まずはこの繭から脱出しなくては。


 気を高めるとヴァルラの体から白い粒子が吹き出してくる。それは体内に浸食してきていた黒い霧を押し出した。

 全身からあふれ出る白い霧は勢いと量を増し、黒い繭を四散させる。まるで黒い卵を内から砕いて生まれてきたように、ヴァルラの姿は白い輝きと共に現れた。


「ヴァルちゃん無事だったのね!」


 ミハイラは両手に持ったナイフでシルバーの攻撃を受け流している。しかし例の黒い蔦で切り裂かれたのか、手足や頬に多数の切り傷を負っていた。


「ミハイラちゃん有り難う。後は俺に任せて!」


 素直に助けられた礼を言い、シルバーとミハイラの間に割って入る。


「主の夢を見ながら幸せに死ねば良かったものを」


 ヴァルラを繭の中で深い眠りにつかせ、生きたまま喰らうつもりだったのだろう。

 愉快そうに嗤うシルバーを睨みつけヴァルラは更に気を高める。


「俺って諦めが悪い方なんだよね」


 ようやくヴァルラに冷静さが戻って来たようだ。


「その言葉、後悔することになるぞ」


 シルバーが薄く笑い手を上げると、どこからともなくヴァンパイアの群れが現れた。一人でさえも恐怖に耐えるのに必死だというのに、大勢のヴァンパイアに囲まれてヴァルラの足が竦む。


「卑怯者!」

「別に正々堂々と渡り合う気はないのでね」


 愉快そうに両手を広げて笑みを浮かべる。いちいちヴァルラの神経を逆なでするような態度。性格なのかそれともこれも作戦のうちなのか。


「ヴァルちゃん、ヴァンパの方は任せて!」


 ミハイラは迷いなくヴァンパイアの群れの方へ駆けだすが、敵は数十匹。下手をすれば百を超える数だ。低クラスも混じっているとはいえ本来とても一人で相手できる数ではない。

 これだけ群れると、もはやヴァンパイアというよりも映画のゾンビの群れのようだ。


 普通のハンターなら、あっという間にその怪物に飲み込まれていただろう。だが彼女はこの異常な状態にも慌てる事はない。

 その海のような人外の波に飲まれそうになりながら、ミハイラは傍に停めてあったトラックの空の荷台の入り口に立つ。これなら狭い場所を利用して化け物たちに囲まれるのを防ぐことができる。荷台の入口目指して近づいてくるヴァンパイアを1匹また1匹と着実に倒していく。


 しかし──


「もうっ! 多すぎ!」


 ミハイラの叫びの通り、その数はまるで減る様子がない。

 シルバーの命令は絶対なのか、それとも操られているのか。目の前で自分と同じヴァンパイアが銀のナイフの餌食になっても、臆することなく後から後から襲いかかってくる。

 まるでこの大勢のヴァンパイアの塊が一つの意志を持つ怪物であるかのように。

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