第15話 ヴァルラだって夢を見る


 ヴァルラは夢を見ていた。

 それは彼がまだ人間だった頃の古い記憶だ。


 夢の中で、彼は血まみれで床に横たわっている。冷たい石畳に、彼の体温と大量の血が吸い取られてゆく。

 この状況を、彼は良く覚えている。父の仇である盗賊団を追って、山中の古い屋敷に侵入したものの、相手の数と火力は遥かに想定外だった。腕に自信のあったヴァルラは、それでもそこそこ善戦した。しかし結局数には勝てなかった。2階の部屋に追い詰められ、全身に銃弾を受けてしまったのだ。


 逃れようと2階の窓から飛び降りる。実際は、落ちたという方が正しいかもしれない。落下のダメージも加わったが、暫し敵から離れ、近くの物置小屋へと這いずって逃げることに成功した。

 しかし、着実に死はヴァルラを飲み込もうとしていた。このまま盗賊に発見されなくとも、目の前にあるのは失血死。目がかすんできた。血濡れの手を動かそうにも己の身体の痺れと冷たさを感じるだけ。体が、動かない。死はすぐそこにあった。


『……死にたくない』


 今この瞬間にただそれだけを願った。父の仇をとるどころか、まんまと返り討ちに遭うとは、何と情けない事か。このやり場のない憤りを晴らさなければ、死んでも死にきれない。

 その時、低く響く声を感じた。


 ―――生きたいか?


 幻聴だろうか。ヴァルラは耳を澄ました。答えたいが、声がもう出ない。


『生きたい。死にたくない』


 ―――助けてやらなくもない。私と契約するなら、だが。


 声はヴァルラの耳ではなく、直接意識に語りかけられているようだった。所謂テレパシーという奴だろうか。

 大量の失血による幻覚かもしれない。しかし今は幻聴にさえも縋りたい。


『何でも良いから早く助けやがれチクショー』


 ―――乱暴な物言いだな。


 声は僅かに笑いを含んでいた。瀕死のヴァルラにとっては、何とも腹立たしい態度。怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られる。が、次の瞬間彼の目の前にシェリーグラスが現れた。さっきまで何もなかった床にだ。これも幻覚なのだろうか。


 ―――飲むがいい。されば命は救われよう。


 それが幻覚でも毒でも構わない。今以上に事態が悪くなることはないだろう。ヴァルラは最後の力を振り絞り、痺れた手を必死で持ち上げグラスを掴むと、中身を一気に飲み干した。

 一見ワインのようなそれは、恐ろしく不味い代物だった。


「おええええええええええ」


 腐った肉のような、カビた雑巾のような、とにかくこの世のものとは思えない不味さ。


「まじいいいいいいいいいい」


 ぺっぺっと唾を吐き口を袖でぬぐう。


 ―――ふふ。しかし効果は覿面てきめんであろう?


 機嫌の良い声が脳内に響く。確かに声の主の言うとおりだった。

 先程まで指を動かすことさえ困難だった身体が、今はもう軽々と起き上がれるほどに回復している。痛みも全く感じない。胸や腹、肩や足に喰らった多数の銃創も消え、全身に活気が満ち溢れていた。


「……ほんとだ」


 一体何を飲まされたのか、相手は一体何者なのか、何故自分は助けられたのか。疑問は数知れず湧き上がってくるが、あまりに現実離れし過ぎている。ヴァルラは文字通り言葉を失っていた。


 ―――契約の内容も聞かぬ奴は初めてだ。だが約束は守ってもらうがよいな?


 いやだ、と言おうにも契約の内容を尋ねようにも、何故か言葉が出ない。意に反して、ヴァルラは沈黙を続けた。


 ―――返事がないが、どういう事だ?


 不機嫌な声。違う。そうじゃない。ヴァルラの額に汗が浮かぶ。俺はあの時ちゃんと返事をしたはずだ、と。

 あの時……そうだ、これはただの夢じゃない。とヴァルラは気付いた。これは確かにあった、遠い昔の出来事のはず。しかしその記憶と違い、今は返事を返すことができずにいる。


 ―――答えよ。さあ、答えるのだ! 私の声が聞こえているか?


 ヴァルラは必死で訴えかける。聞えているとも。だってあんたは俺の……。


「おい、聞こえてるのかってんだよ!」


 いきなり、口調が乱暴になる。 ヴァルラは目を開けた。ああ、やはりこれは夢だったか。土砂降りに遭ったかのような汗を拭い、大きく息を吐く。

 目の前にいるのは、痩せっぽちの青年だ。血濡れのジーンズと、胸に巻かれた包帯が痛々しい。


「悪りぃ、寝てた」


 掠れた声でヴァルラは素直に謝罪した。


「ほんとに寝てたのか。わざと無視してるのかと思ったよ」

「そんな嫌がらせするくらいなら、助けたりしないっての。で、何の用だ?」

「痛み止めか酒をくれ。でなきゃいっそ殺してくれ」


 ぶっきらぼうに返す青年は血の気が引いて、口調は弱々しい。銀の弾丸で胸の内側を焼かれた傷は、狼男の治癒力もあまり効き目がないようだ。しかし傷だけが理由ではない事はヴァルラにもはっきりと分かる。


「あんたのご主人の事は悪かったよ。言い訳をするつもりはない。仕事だ。金を貰って殺ったのは事実だ」

「分かってる。ハンターだろ。必要以上に人間を殺したのは俺だ。マスターを守るつもりが、仇になった」


 青年はぎゅっと唇を噛みしめ、絞り出すように答えた。


「気持ちは分かるよ。俺も昔、仕えた主人がいたからな」


 そして少しの沈黙の後。青年が苦笑した。


「殺さないなら、痛み止めをくれないか」

「あ、そうだった。すまんすまん」


 痛み止めが効いてきた青年が、眠りに落ちたのを確認すると、ヴァルラは部屋を出た。


 ヴァルラは、依頼主に狼男の件は一切報告していない。証拠のビデオがないという事もあるが、こうして助けてしまった事を知られるわけにはいかない。

 先程本人が言っていた通り、襲撃現場でのオーバーキルやハンターへの報復などは彼の独断、暴走の結果だろう。それを知られれば、ヴァルラ達はこの青年も殺さなくてはならないのだ。


 かつては自分も主に仕える身だったヴァルラには、主を失って悲嘆に暮れる青年に止めを刺す事はできなかったのだ。


「久々にあんな夢見ちまったな……」


 青年を匿っているモーテルから自宅のアパートへと歩きながら、ヴァルラはぼそりと呟いた。ヴァンパイアになってからは、夢を見る事も滅多になくなった。

 ふと、主の笑顔を思い出す。彼のマスターである始祖ルーツのヴァンパイアは、限りなく白に近いプラチナブロンドに、透き通るような白い肌の持ち主だった。

 実際の年齢は300年を超えていたらしいが、見た目は10歳にも満たない少年の姿をしていた。

 あの青年の主も見た目は幼い少女だった事が、ヴァルラの共感を生んだのだろう。


 ヴァルラはモーテルからの帰り道で、市場に差しかかった。野菜や果物、肉やチーズなど様々な店が連なっている。夕方近くの市場は人でごった返し活気が満ちていた。


「よう、ヴァルラさん。良い肉入ってるよ!」

「ヴァルちゃん、買って行きなよ!」


 市場の顔なじみであるヴァルラに、方々から声がかかる。


「ダークチェリーあるかい?」


 大声で叫ぶ。


「あるよ! 今朝採れたての粒ぞろいだよ!」


 機嫌よく答える声。


「甘い甘い林檎もあるよ!」

「あー、俺林檎は喰わないの。大事なキバから血が出ちゃうから」

「ヴァルちゃん、それ歯槽膿漏……」


 背後からツッコミの声。


「マジで!? ……ってラウ、お前かよ」


 振り向くと、買い物袋を提げたラウが立っていた。


「ヴァルちゃん、その分だと例のヴァンパイア仕留めた?」

「んー、もうバッチリ。今日は頑張ったミハイラちゃんに、ご褒美の豪華ディナーの予定さ!」

「いいなあ。お呼ばれしたいなあ」


 酷く羨ましそうなラウを見て、ヴァルラは少し考える。


「銀髪のヴァンパイアの情報あるなら呼んでやるけどな」

「マジで! あの後色々情報集めたんだよ」

「偉い偉い。じゃあ7時に来いよ」


 ラウもヴァルラも、ほくほくとした表情でその場は分かれた。


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